彩の縦糸

さぞ肌寒いのではという源太の予想を大きく覆し、秋の蓬葵野は意外や暖かい気温で彼らを迎え入れてくれた。
「中津佐渡より南だから、暖かいのかな?」
浜辺に降り立ち、九十九は物珍しげにキョロキョロする。
「さてのぅ……」
同じく浜辺に立ちながら、誰もいない浜辺のもの悲しさに源太は身震いした。
夏は海水浴客で賑わう浜辺も、今は人っ子一人いない。
いるのは自分達だけだ。
海の家も、当然閉まっている。
源太の気持ちを知ってか知らずか、九十九が元気よく言った。
「源太、宿に荷物を置いてきたら、さっそく泳ごう!」
なんと、秋の海で泳ぐ気満々である。
泳ぐ気など全くなかった源太は大いに驚き、そして焦りもした。
「お、泳ぐ気なんか!?今は秋じゃぞ」
「ん?秋だから泳いじゃ駄目って法律はないだろ」
「そりゃあ、ないが……しかし秋の海は海月が一杯だと聞くぞ」
「海にもよるだろ。泳げないようなら、やめるし」
九十九は気楽に言い放ち、さっさと宿へ歩き出す。
仕方なく、源太も後を追いかけた。

適当に選んだ安宿ではあったが、居心地は良い。
若草の香る畳の上に寝そべって、源太は、ほっと一息ついた。
家族以外の誰かと旅行に出かけるなんて、生まれて初めての行動だ。
恋人の静とは、いつも歓楽街で遊んでばかりいる。
彼女と旅行へ出かけるなど、考えた事もない。
嫁入り前の娘さんを遠出に誘うのは、さすがの源太でも気が退けた。
出かけるのであれば、結婚後であろう。
静以外の仲良しというと、これが全くいない。
九十九が初めての友達ということになろう。
両親が霊媒師という特殊な家庭に生まれたせいか、源太は幼い頃から友達の少ない、いや、皆無の環境を過ごしてきた。
学校へは通っていた。ただ、クラスの連中と遊ぶ時間が全くなかった。
遊ぶ時間がないのでは彼らも源太から離れていき、いつの間にか学校に通っていながら孤独になっていた。
それでも源太自身には不都合がないので問題なかったのだが、猶神流入りを目論んだことで初めて友達と呼べる関係が生まれた。
それが、九十九だ。
大らかでグイグイ積極的にくる、だが無遠慮とも違う交流に、いつしか自分の心が絆されていくのを源太は感じとっていた。
「九十九は海、前にも来たことがあるんか?」
それとなく尋ねてみたら、窓の外を眺めていた九十九が振り返る。
「いや。海に来たのは初めてだ」
いつも山へ遊びに行ってしまうから、海には足を運ばないのだと言う。
歓楽街では遊ばないのかとも尋ねたが、九十九は首を真横に振った。
「外で体を動かすのが好きなんだ。街の中は、どうもゴミゴミしていて好きじゃない」
実に判りやすいアウトドア派だ。
だがゴミゴミの一言で一蹴されるのは、街派の源太としては面白くない。
「歓楽街は、あれはあれで楽しい場所じゃぞ?」
反発する源太に、九十九が小首を傾げる。
「実を言うと、よく判らないんだ、そういう処の楽しみかたが。もしよかったら、今度教えてくれないか?」
いつも外でばかり遊んでいたから、街での遊びを知らないだけか。
源太は気をよくして頷いた。
「えぇじゃろ、また暇が出来た時、一緒に行こうかの」
「さて、と……それじゃ俺は泳いでくるけど、お前はどうする?良かったら一緒に遠泳で競争しないか」
見れば、すっかり水着に着替えており、九十九は準備万端だ。
まだ外套すら脱いでいない自分の体を見下ろして、源太はぼそりと返した。
「俺はパスじゃ。実は、カナヅチでな……」
「えっ、泳げないのか?全然?」
滅茶滅茶驚かれた。
源太にしてみれば何故九十九は泳げるのか、そちらのほうが不思議だ。
海へ来たのは今日が初めてのはずなのに。
尋ねると、彼は何でもないことのように答えた。
「何故って、そりゃ、山にも水場はあるしな」
「水場?」
「うん。湖が。そこで泳ぎを覚えたんだ」
山中の水場なんて、考えただけで心臓が凍る。
山は寒そうだし水は冷たそうだし、疲れた状態で泳ぐなど以ての外だ。
「山はいいぞ、空気は綺麗だし、景色も最高だし!」
どれだけオススメされても、全然行きたい気力が沸いてこない。
ひとまず山の話題はうっちゃりして、源太は九十九を促した。
「うむ、九十九は山が大好きなのじゃな。しかし今は海に来たんじゃから、海を楽しもうぞ。俺は浜辺で日光浴を楽しむから、お前は遠泳を楽しむとエェ」
「日光浴?」と、首を傾げる相手へ重ねて説明した。
「浜辺に寝転がって肌を焼くんじゃ。こんがり小麦色になるまでな」
「……それって楽しいのか?」
動かない行為は理解しがたいのか、九十九は頻りに首を捻っている。
「うむ。日光浴は、ぽかぽか暖かいのもさることながら、小麦色に焼けた肌を観賞して、うっとりするのが醍醐味よ」
「泳いでいても、自然に焼けると思うけどな……」
九十九はブツブツ口の中で何か呟いていたが、やがて自分の中で妥協したのか立ち上がって襖を開けた。
「よし、じゃあ、それぞれに海を楽しむとしよう」
「おう」
うまいこと遠泳を免れた源太も、元気よく返事をして外に出た。

ひたすらトドか豚のように浜辺でゴロゴロして、源太は眺めた。
バシャバシャと気持ちよさげに水を跳ね上げながら泳ぐ九十九を。
何が楽しいのか、いや泳ぐ事自体が楽しいのか、先ほどから何往復も浜辺と沖とを行ったり来たりしている。
全然泳ぐのに飽きないようで、しかも体力も無尽蔵に続いていて、改めて、外で遊ぶ九十九のパワーに源太は圧倒されたのであった。
それにしても。
九十九の身体は未熟だと照蔵は言ったそうだが、それは間違いである。
全体で見ると筋肉の量は、源太に遥か遠く及ばない。
だが腕や太股は逞しい。外遊びの成果であろう。
ここに照蔵がいないのは、幸いであった。
いたら絶対、九十九の背中に油を塗るだの言い出したに違いない。
あの筋肉髭達磨めは、九十九に良からぬ下心を抱いている。
九十九本人は全く気づいていないようだが、源太には、お見通しだ。
無邪気な彼を、照蔵のやましい下心から守ってやりたい。
漠然と、そんなふうに考えるようになったのは、やはり、あの時以降だろうか。
悪霊に初めて襲われて自分に泣きついてきた、あの日の電話で、誰かに頼りにされることの嬉しさを九十九は教えてくれたのだ。

  
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