彩の縦糸

道場で霊体験談を聞いた三日後、九十九は大学の友人と登山の計画を立てていた。
かねてより募集していたメンバーが、ようやく揃ったのだ。
山の話題で盛り上がっている間は、九十九も道場での出来事を忘れていた。
だが、友人の一人が急に言い出したのだ。
「そういや、知っているか?あの山って、出るらしいぞ」
言い出したのは一期生、九十九と同学年の漆原だ。
「出るって何が?」
誰かの問いに漆原は両手をぶらさげて、ひそひそと話す。
「決まっているだろ、雪女だ」
「雪女ぁ?」
雪女とは、雪山で遭遇する物の怪だ。
登山家を氷の息で凍らせて、眠りにつかせて殺してしまう。
ただ、その存在が認められているのは童話の中だけだ。現実ではない。
「見間違えじゃないの?つららが女に見えたとか」
「いやいや、実際に冷気を当てられた奴だっているってよ」
こうした噂話は、登山にはつきもので、やれ、滑落した奴は前日山で死んだ幽霊と出会っていただの、やれ、吹雪の中で凍死した奴は幽霊と出会った日記を書き記していただのと。
雪女も、そうした噂話の一種であろう。
それでも、これから登ろうという面々の背筋を冷やすには充分であった。
「え〜、どうしよう。雪女に会ったら」
二期生の先輩、桂木が背中を竦めて、おどけてみせるのへは、漆原が九十九を指さして言った。
「こいつ、今、霊媒の修行やってんです。雪女が出たら九十九にお祓いしてもらいましょう」
「キャ〜〜!頼りになるぅ、九十九くん」
先輩に喜ばれ、九十九は困ったように頭をかく。
「まだ始めたばかりですよ。お力になれるとは思えないです」
「またまたー。謙遜するなよ、九十九」と、別の友人にも肩をどつかれる。
「九十九って登山や勉強だけじゃなくて、お祓いもできるのかぁ」
「なんかもう、頼りになるリーダーって感じだよね」
どんどん凄いものに祭り上げられて、九十九は、もう一度頭をかいた。
全く、漆原め。まだ秘密にしておけって言ったのに。
だが皆から褒められるのは、まんざらでもない。
ひとしきり霊媒や雪女の話で盛り上がった後、一同は解散した。


家についてから、不意に九十九は道場での霊体験談を思い出す。
寝る前に寒気がして、それで幽霊が出たなんて、まるで雪女みたいだ。
南樹の旅館に出た悪霊は、もしや雪女だったのでは?
些か話が突飛すぎて、己の妄想ながら九十九は苦笑する。
物の怪と悪霊とは、どう違うのであろう。
もし本当に山で雪女と遭遇したら、自分は戦えない。
皆を守るには、どうすれば――?
照蔵は悪霊と遭遇したら電話しろ、と言ってくれた。
だが、如何に照蔵でも雪山にまでは救助に来られまい。
雪女は冷気を当ててくるそうだから、ゆたんぽでも持っていこうか。
いや、しかし噂を鵜呑みにして荷物を増やすのは……
不意に、九十九は背中がぞくぞくしてきた。
雪女の事ばかり考えていたせいだろうか。
馬鹿な妄想はやめて、一旦風呂に入ろう。
立ち上がり、天井を見上げた瞬間、九十九は大声をあげてしまった。

天井いっぱいに広がる大きな染み。
あんなものは、今まで一度も存在しなかった。
染みは、ぱっくりと口を開けたように見え――
確かに、笑っていた。

「ぎゃああああーーーーーーーっっ!」

近所中に響き渡ったんじゃないかと思うほどの絶叫だ。
あまりのショックで九十九は転倒する。
染みは消えない。
九十九を見下ろし、笑っている。
いや、染みだ、あれは幽霊なんかじゃない。天井の汚れだ。
そう思おうとしても視線を感じて、目は勝手に天井を見上げてしまう。
じっと凝視していると、染みの形が変化してきた。
目鼻らしきものまで浮かんできて、口の中には牙がニョキニョキと生えてくる。
そのうちに、九十九の心へ直接語りかけてくる声があった。
声は確かに言っていた。食っちまうぞ、と――
「あああー、うわぁぁぁっ!!あっあっあーーーッ!!」
自分でも何を言っているのか判らないぐらい絶叫しているというのに、近所の人が駆けつけてくる気配もない。
時刻は夜の九時をまわったばかりだし、まだ起きている人もいるはずなのだが。
「あっ、あぁっ、あー!ぎゃあー!くるな、くるなくるなくるなーッ!!」
染みが天井から剥がれて、降りてくる。
九十九の周りを、ぐるぐると飛び始めた。
それだけなら我慢できようも、先ほどの声が聞こえる。
耳鳴りの如く、両手で耳を押さえても聞こえてくるのだから始末が悪い。
「あーっ、あぁーっ、誰か、誰かぁー!」
涙が出て鼻水まで垂らした九十九の脳裏に、ようやく源太の顔が思い浮かぶ。
照蔵でもいい。早く誰かに電話しないと、本当に食われてしまう!
「源太、源太、早く出てくれっ」
震える手で番号を押し、携帯電話を握りしめた。
コール二回ほどで源太が出た。
何処にいるのか周囲が騒がしい場所にいるようで、ざわめきが聞こえる。
『誰じゃい、今はデートで忙しいんじゃが』と文句を垂れてくるのを、九十九が遮った。
「源太助けて!悪霊が、悪霊に食べられるッ」
『は!?九十九、一体なにを言って』
源太の返事を聞いている暇はなかった。
ぐるぐる周りを回っていた染みが、また変化したからだ。
これまで顔だけの存在であったのが、手が生え足が生え、胴体も生え揃う。
一体の悪魔が、そこに出現した。
黒い手が九十九に伸びてきて、九十九は力の限りに叫んだ。
「うわあああぁぁぁーっ!」
電話の向こうにいる源太では、もう間に合わないかもしれない。
さよなら源太。来世で、また会おう――

九十九が現世への遺書を脳裏に浮かべたのと、玄関のドアが吹っ飛んだのは、ほぼ同時で。
「九十九ォ!無事かッ」
飛び込んできた何者かは、即座に悪霊へ向けて怒気を放った。
「俺の友人に手を出そうとは、許せんやっちゃ!ぶっ飛ばしてくれるっ」
言うや否や、ぐんぐんと霊気を貯める源太に待ったをかけたのは照蔵だ。
源太と一緒に部屋へ飛び込んだ彼は、まず第一に九十九の無事を確認した。
九十九を襲っているのは、低級霊だ。
悪霊の中でも一番の小物で、直接危害を加えられることはない。
部屋主が気にならないのであれば放っておいても構わないのだが、騒音を立てたり呪詛を吐いてきたりと鬱陶しいので倒したほうがよい存在だ。
「待て源太!まずは儂が結界を張る、結界が出来てから攻撃を仕掛けよ!」
照蔵に止められ、殺気だった源太が答える。
「結界?んなもん必要ないじゃろ!」
源太も部屋に飛び込んだ直後、九十九の無事は確認していた。
だが彼が泣き濡れているのを見た瞬間、源太の中で全ての怒りが爆発する。
九十九が泣いた姿を、源太は今までに見たことがない。
いつも元気で明るく、時には源太を励ましてきたりもする気の良い友人だ。
その九十九を泣かせるとは。絶対に許せぬ。
怒りで沸騰する源太とは対照的に、照蔵は冷静であった。
「よいから待つのじゃ。九十九を、これ以上泣かせたくなければ」
ぶつぶつ呪を唱える彼を見て、源太の怒りにもストッパーがかかる。
何故結界が必要だと、この熟練の霊媒師は考えたのか。
きっと自分が最大出力でぶっ放したら、この部屋まで吹っ飛ぶからだ。
九十九を、これ以上泣かせるなと照蔵は言った。
確かに部屋が無くなったら、余計に泣かせてしまうであろう。
自分は九十九を困らせるために駆けつけたのではない。
助けるために、来たのだ。
「……よし、張れたぞ。心おきなく攻撃せよ!」
照蔵の合図を機に、膨れあがった霊気の波動を悪霊へ定めると、源太は逃げ出そうとする背中へ向けて最大出力で放ってやった。
「逃がすか阿呆!冥途にぶっ込んでくれらぁぁぁッッ!!」
断末魔一つ残さず光に包まれて悪霊が消え去るのを目視で見守った後、まだグスグス泣いている九十九へ照蔵が近寄り、慰める。
「災難だったのぅ、九十九や。だが、もう大丈夫じゃ」
目元を赤く泣き腫らした九十九は、じっと源太と照蔵の双方を見つめ、しばらく呆けていたかと思うと、がばっと源太に抱きついてきた。
「源太、源太ぁっ!怖かった、怖かったぁぁっ」
「よしよし、怖かったのぅ。襲われたら、いつでも俺を呼べ。九十九が危ない時には、必ず駆けつけるでな」
「うわああぁぁぁーーー」
大泣きしながら、ぎゅっと源太に抱きつく九十九を見て、照蔵は内心ぶぅたれる。
源太に電話で急かされて近場の人に車を借り、途中の道で源太を拾って最大スピードでぶっ飛ばしてきたというのに、おいしい役目は全部源太に奪われた。
せめて抱きつかれる役ぐらいは、儂に回して欲しかったのぅ。
咄嗟の判断で源太に攻撃を任せたのは、長門日家後継者の実力を試す意味もあった。
恐らく彼が悪霊と戦ったのは、これが初めてに違いない。
初めてで、こうも容易く倒すとは。磨けば、さらに強くなる。
それにしても、と泣きじゃくる九十九へ視線を向けて、照蔵は鼻の下を伸ばす。
今はだいぶ落ち着いてきたが、それでも九十九は、まだ涙を流しており、それがまた、なんとも初々しくて、かわゆい。
今まで幽霊知らずで、平穏な人生を過ごしてきたのだ。
それが低級とはいえ禍々しいものに出会って、さぞ肝を潰したであろう。
電話がかかってきた時、受話器の向こうからは絶叫が聞こえたと源太は言っていた。
何故電話先が自分ではなく源太だったのかも気になるが、まぁよい。
結果的には、九十九を二人で助けたのだ。それでヨシとしなければ。

  
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