彩の縦糸

其の十

海で泳ぐのは、これが初めてだ。人生初の海水浴である。
青く輝く海を前に、吉敷は大きく背伸びする。
海水浴場は夫婦と独り者と大勢で連れだってやってきた者達、それから子連れの親子で、ごったがえしていたが、泳げないほどでもない。
人目の多い中での初泳ぎは、無様に溺れたりしないよう気をつけねば。
散歩から帰ってきた九十九に誘われたのだ。 午後は皆で泳ごう、と。
泳げない源太などは大いに渋っていたが、九十九がぽんぽん浴衣を脱ぎちらかして、さっさと水着になってしまったものだから、勢いにつられて全員が浜辺へ出た。
「吉敷は海、初めてだそうだな。どうだ?泳げそうか」
「判りません。まずは、水に入ってみないことには」
「もし良かったら、俺が泳ぎを教えるぞ」
「あー九十九。九十九、九十九。芳恵がお前に話したいことがあるそうじゃぞ?」
「なんだよ、何回も。一回呼べば判るって。どうした?南樹」
話途中で九十九は南樹のほうへ走っていき、海に入るか迷う吉敷には照蔵が笑いかけてくる。
「よっしーの水泳教室は、儂が講師を務めて進ぜよう」
「まて、吉敷の相手は俺がすると決まっとるんじゃ。照蔵は、ひっこんどれ」
「ほぅ、カナヅチが何か吠えよるわ。源太は、まず己の体を浮かせられるようになってから首を突っ込むと宜しかろう」
「ふん、泳ぐだけが海の醍醐味ではない。遠泳で喜ぶなんてのは子供のうちに卒業しとけ、照蔵や」
何故か吉敷の相手を取り合って、照蔵と源太の間に火花が飛び散る。
思わぬ争い勃発に困惑の吉敷を助け出したのは、意外や意外にも甚平であった。
さっさと吉敷の手を引いて、ざぼざぼと海へ入っていく。
炎天下、太陽に照らされた真下だから生ぬるいかと思いきや水は冷たく、腰まで浸かった吉敷は、ぶるっと身を震わせる。
「どうだ?結構冷たいだろ、水」
「は、はい」
「まずは顔を水につけて、水に慣れとくといいぞ。そんで最初は俺が補助つけてやっから、一緒に泳ごうぜ」
「あ、あの。どうして朱雀殿が、俺に泳ぎを教えてくれるのですか?」
「ん?変か?変でもないだろ。先輩が後輩に特訓つけるってなぁ」
「いや、まぁ、そうですが……」
そうではなく、滅多に会話もかわしていないのに何故吉敷の世話をする気になったのかというのを聞きたかったのだが、甚平は「泳げなかったら、水難事故の依頼なんかの時に困るしな」と屈託無く笑い、吉敷の手を握ってきた。
吉敷は素直にパチャパチャと水に顔を何度かつけながら、なおも尋ねる。
「兄も泳げませんが、問題なく依頼をこなしているように見えます」
「そりゃ〜、その手の依頼を全部蹴ってきたかんな、ゲンは。けど、お前はまだ無名も無名、だろ?無名が仕事を選り好みしちゃ〜いかんぜ」
甚平の言い分には一理ある。
それに優秀な霊媒師を目指すなら、できるだけ短所をなくしておいたほうがいいに決まっている。
と、理性では割り切れても、現実は理想通りにはいかないのだと吉敷は痛感する。
顔を水につけるのは問題ない。だが、水の冷たさには辟易した。夏とは思えないほど、冷たい。
見れば、己の両腕には鳥肌が立っている。
海は吉敷に対して、あまり心地よい環境とは言えないようだ。
「ははっ。唇が青くなってんぞ。寒いのは苦手かよ、お前」
「……はい」
「仕方ねぇ、いったんあがるぞ。んで、浜辺で日光浴でもしてこいよ。ほら、ゲンもテルもやってっから、その横に寝そべって来い」
指さされた方角を吉敷も見てみると、先ほどまで争っていたとは思えないほど仲良く揃ってトドのように寝転がっている二人の姿が遠目に見えた。
九十九と南樹の姿は見えないが、また二人だけで岩場にでも向かったのであろう。


凍えきった体を温めるべく、吉敷が源太の隣に寝っ転がって暖を取り始めた頃――
九十九は南樹に誘われて、皆とは離れた場所まで歩いてきていた。
海の家からも、だいぶ距離が開いた。
どこまで歩くんだろうと思っていたら南樹が浜辺に座り込んだので、九十九も横に並んで座る。
「こんな人気のない場所までつれてきて、俺に何の用があるというんだ?」
「あ、あのね。日光浴、しようかと思って」
「日光浴?なら源太の隣で寝っ転がれば良かったんじゃないか」
「そうじゃなくて!あ、あなたと二人で、したかったの」
たかが浜辺に寝転がって肌を焼くだけなのに二人っきりも何もあったもんじゃないと九十九は思ったのだが、声には出さないでおいた。
ぷぅっとむくれていた南樹は、やがて機嫌を治したのか、いそいそと自前の巾着袋から小瓶を取り出す。
それは何だと尋ねると「日焼け用の油だよ……ぬ、塗ってあげるから横になって」と指示された。
「油なんか塗らなくたって勝手に焼けるだろ」
「塗ったほうが綺麗に焼けるって雑誌にも書いてあったもん」
「ハイハイ。なんか、魚になった気分だよな……こう、金網の上に乗せられた」
「もう、文句言わないで、さっさと横になる!」
ごろりと仰向けに横たわった九十九と目があい、南樹は「なんで仰向け?」と尋ねたのだが。
九十九は答える代わりに、質問で返してきた。
「全部脱いだほうがいいのか?」
「はぁっ!? ぜっ、全部脱いでどうすんのっ」
「だって、肌を焼くんだろ?なら、全部焼いたほうが綺麗じゃないか」
「え、もしかして、日光浴したことないとかいうオチ?」
「あぁ。源太がやっているのなら見たことあるが、自分でやろうとは更々」
源太が。
きっとアレのことだから、全裸で浜辺に寝転がったのは想像に難くない。
それで全部脱いだほうがいいのか、などと尋ねたのであろう、九十九も。
いつの間に二人だけで海水浴に行っていたのかも謎だが。
どうせなら、その時に自分も誘ってくれれば良かったのに。
「全部脱がなくていいから。目のやりどころに困るでしょ。どうしても水着の跡が気になるなら、家に戻ってから、やってよね」
「家で日光浴か……ま、いいか。どうせ上に服着るんだし、目立んよな」
「そうそう。じゃ、改めて塗るから、じっとしてて」
とろぉっとした油を掌いっぱいに注ぎ、九十九の胸に塗りつけてゆく。
風呂場で照蔵が九十九の胸を揉んだだの何だのと甚平が言っていた時には、男の胸なんて揉めるほどの厚さもないだろうと南樹は疑問に思ったのだが、実際に触ってみると結構な肉厚があるのに驚いた。
胸板とまではいかないものの掴めるだけの肉があり、なるほど、これなら揉めたとしても納得だ。
ただし照蔵が、というのは納得いかないが。
胸にたっぷり塗りつけた後は、腹と腰にも塗りつける。
三十代にして、お腹がポコッと出ていない体型を維持しているのも、肉体改造とやらの成せる業だろうか。
『戦術に併せて体を鍛える』という発想がなかった南樹には、九十九の考えが斬新に感じられた。
親友の源太には、その考えが浸透していないようでもある。
遠目に寝ている姿はトドか豚と呼んでも差し支えない。
「油が乾いたら、反対側も塗るから……」
「………………」
「十和田くん?」
途中から目を瞑っていたから、もしやと案じたのだが、やはり眠ってしまったようだ。
体に油を塗られてドキドキする姿を見たかった此方としては、拍子抜けだ。
九十九は、どうも恋人同士の状況を軽んじているように思われる。
軽んじているというよりは、理解していない。
少しでも理解していたら、この状況で爆睡するなど、ありえない。
これまで恋人が一人もいない、女友達も南樹だけだと言い切っていたのは、嘘ではなかったのだ。
疑っていたのか否かと言われると、多少疑っていたのは認めよう。
なんせ、隣近所の女子までもに人気の高い彼だ。
顔がいいってだけじゃない。
人柄よしの世話好きで、仕事も真面目とくれば、人気の出ないわけがない。
全部ひっくるめての"男前"である。
その彼がモテないだなんて、到底信じられっこないではないか。
南樹は九十九の横に寝そべり、彼の顔を至近距離で眺める。
ひとくちに顔が良いと言っても、吉敷の何処か繊細さを感じさせる細面な美形とは異なり、九十九は眉毛が太くて精悍で凛々しく全面で男らしさを強調した顔立ちだ。
他人もいる場所だというのに九十九は半開きに口を開いて寝ていて、無防備にも程がある。
もし南樹が一緒ではなかったら、誰かに襲われてもおかしくない。
起こさないように、そぉっと指で唇に触れてみたら、九十九がパチリと目を開ける。
そのまま、じっと無言で見つめてくるもんだから、沈黙に耐えきれなくなった南樹は先にがばっと身を起こした。
「も、もぉっ!起きているなら起きているって言ってよ!いつの間に起きてたの?」
「お前が俺の横に寝ころんだ辺りから」
「うそっ。口開いてだらしなく寝こけていたくせに」
「寝ているふりをして様子を見てたんだ。お前、俺に何かするつもりなのかな〜と」
「ひ、酷いっ。試したの?」
ぷんぷん憤慨する南樹を見て九十九も身を起こすと、「冗談だ、冗談」と笑い、南樹を片手で抱き寄せた。
腕の中で硬直する彼女に、耳元で囁いてやる。
ちょっとした、お返しだ。
普段は恥ずかしがり屋のくせして、あんな熱心に油を塗ってくるなんて思ってもみなかった。
「目が覚めたのは、お前に唇を触られた直後だ。お前になら何をされても構わなかったんだが、意外と奥手なんだな、南樹」
「なっなっな……何をされても、って何を期待してっっ」
「ん?何かしたかったから、唇に触ってきたんじゃなかったのか」
「も、もうっ!知らないっ」
頬が熱い。
きっと今の自分は真っ赤に茹だっているのだろうと考えたら、余計に恥ずかしくなってきた。
九十九の腕から解放されても南樹は顔を上げられずにいたのだが、「お前は肌を焼かなくていいのか?」と彼に尋ねられ、慌てて顔をあげると、南樹の油を勝手に使って片手いっぱい油を出している九十九と目があった。
「ちょ、ちょ、ちょっと、いいって、私はいいんだって」
「けど日光浴がしたいって言い出したのは、お前じゃないか。言い出しっぺが焼かないって、おかしいだろ」
「それはそうだけど、十和田くんを焼きたかったんであって、自分を焼きたかったわけじゃ」
「なんでだよ。普通、日光浴がしたいって言うなら、お互い焼きあうもんじゃないのか?ほら、遠慮しなくていいから、うつぶせでも仰向けでも好きな格好で寝そべってみろよ。まんべんなく油を塗ってやるぞ」
「遠慮っ!?いやいや、遠慮してるんじゃないってば!それに、ほらっ、十和田くん、まだ背中焼いてないし!」
「俺はいいよ、寝ているのにも飽きたしな……それより、俺にも油を塗らせてくれ。安心しろ、源太でやったことがあるから失敗はしない」
「飽きるとか飽きないとかって問題じゃないでしょ!?片面だけ黒いとか、絶対変だから!」
「なんで、そこまで必死に嫌がるんだ。嫌なのか?俺に塗られるのが」
誓って言うが、遠慮ではない。
自分の肌を焼く予定は、本当に全くなかったのだ。
辞退を重ねていたら九十九の声まで裏返ってきて、我に返った南樹は彼の顔色を恐る恐る伺った。
九十九は眉毛を逆さ八の字に釣り上げて、怒っている。
そりゃまぁ、そうだろう。これだけ拒絶されたら。
立場が逆なら、こちらがカンカンになっているところだ。
「うっ……ごめん。そ、それじゃ、お願いします」
「ったく、最初から素直に寝ころべば良かったんだ」
「お、怒らないで……」
「これで怒らない奴のほうが、どうかしているだろ」
不機嫌収まらぬ九十九に怯えながら、南樹はうつぶせになる。
仰向けになる勇気は、なかった。憤怒の顔と向き合う勇気が。
ぬろっと油の感触が背中に降ってきて、ひゃあっと思う暇もなく、暖かい掌がゆっくり背中を移動していく。
九十九に触られているのだと考えただけで、南樹の脈拍は過剰に上がり心臓がバクバクした。
うつぶせになった事を、少しだけ後悔した。
仰向けだったら、彼の手が自分の胸を――
「ふ……ふぁっ……」
「なんだ?変な声出して。くすぐったかったか?」
「んんっ、違うの、違うの。ただ」
「ただ?」
「う、嬉しいなぁって思って……」
南樹に油を塗られた時には、九十九も胸を高鳴らせた。
胸を誰かに触られたのは、これが初めてではない。
照蔵は会うたびに揉んでくる。
しかし照蔵なんかに触られるのとは段違いの感触が、九十九を襲った。
南樹の手が触れるのは気持ちよくありながら、同時に言いようのない奇妙な感覚にも襲われて落ち着かなくなった。
「嬉しいと思うなら、最初から素直に塗らせろよ」
「う、うん。ごめん……だって、恥ずかしくって」
「……そうか。なら、仕方ないな」
二人して真っ赤になって、お互い視線を逸らしながら話して、塗り終えた九十九が南樹の横に寝転がる。
極至近距離に、彼の顔がある。
じっと見つめられたので、南樹も潤んだ瞳で見つめ返す。
再び九十九の手が伸びてきて、抱きしめられた。
「海って言やぁ、泳ぐことしか考えていなかったが……たまには、こういう時間を過ごすのも悪くないな」
「うん……」
「今度海へ行くような機会があったら、二人だけで来よう。いや、長期休暇を取って二人で行こう。約束だ」
「うん。絶対、だよ」
もうしばらく抱き合っていたかったのだが、遠くで照蔵の声がする。
声は「西瓜割りじゃ〜!西瓜割りをするぞ〜!全員〜集合〜!!」と叫んでいるようにも思われた。
名残惜しいなれども九十九は南樹を解放し、立ち上がって体中についた砂を払い落とす。
「さて、と。西瓜割りしに戻るとするか」
「う、うーん」
「なんだ、その気のない返事は。西瓜割りも、お前が言い出したんだぞ?」
「判ってるよ。けど、もうちょっと二人でいたかったなぁ」
「あと二、三日は逗留するんだ。時間は、たっぷりある」
「う、うん……そうだね」
「予定外の臨時休暇だと思って、残り日程も楽しんでおこう」
ほら行くぞ、とばかりに差し出された手を握り、南樹はあと何回、こうやって二人っきりの時間を作り出せるのかを脳内で計算しながら照蔵らの元へ歩いていった。

  
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