彩の縦糸

其の九 結成

兄の手伝いがしたい、さりとて嫁を呼び戻すのは待って欲しい。
他ならぬ可愛い弟の頼みだもの、そこは聞いてやりたいところだが――
不意に思いついた意地悪心に誘われて、源太はニンマリといやな笑みを浮かべた。
「ほぅ。ということは、夜のお相手も吉敷がしてくれるんかの?」
思いもかけぬ返事に「え」と吉敷が固まっている間にも、間合いを詰めて近寄ると。
「わしのは、でかいぞぉ。わっはははは!」
馬鹿笑いと共にふんぞり返る。
ようやく兄が何を言っているのか理解した吉敷は、顔が火照ってくるのを感じた。
プイッとそっぽを向き、期待に満ちた兄の目から視線を逸らすと、どもりながら答える。
「そ……それは、無理っ。だけど、それ以外なら、やってやるから我慢しろよ」
「ふん」
まだニヤニヤ笑いを消さず、源太が身を離す。
「まぁ、えぇわい。しばらく欲求は他の処で晴らすとするかな。それよりも、吉敷」
ん?と首を傾げる弟へ、なにげなく尋ねた。
「体は異常ないか?寒空に素っ裸にされたんじゃ、風邪など引いとらんか?」
「あぁ、それは」
吉敷は、自分のおでこに手をあててみる。
熱はないようだ。それに、頭が痛い、体がだるいなどの症状もない。
寒空に寒中水泳、加えて裸で吊り下げられたというのに、風邪も引かないとは。
頑丈な体に成長したものだと、自分で自分に感心する。
「大丈夫だ」と答えると、にっ、と笑う源太と目が合う。
「そっか、なら行けるな」
どこへ?
そう尋ねる前に、手ぬぐいを渡された。
「風呂を浴びたら、婆様んとこに出かけるぞ。お前の仕事の結果報告をせにゃならんでの」
「今から?」
訝しげに尋ねる吉敷へ、兄は笑顔で頷く。
「当然じゃ」

風呂場へ源太がついてこなかったのは、意外であった。
意外だと思うと同時に、残念に思っている自分にも気づき、吉敷は不機嫌になる。
馬鹿馬鹿しい。
兄と一緒に入って、今まで楽しい目にあったことなど一度もないじゃないか。
体を洗い、肩まで湯に浸かっていると、誰かが囁いてくる。
[吉敷、吉敷]
続いてポチャン、という小さな水音がして。
ついーっと目の前まで泳いできたのは、小さな狐、管狐であった。
勿論、彼が湯へ落ちてから泳ぐまでの経過は、吉敷にしか認識できない。
普通の者なら、管狐が湯へ落ちる時の水音すら耳にすることは出来まい。
[無事で良かった。ホントに]
吉敷はあえて、小さな獣に気付かないふりをした。
管狐が肩を駆け上ってきても、しらんぷりを続けた。
[どうしたの?吉敷。聞こえてるんでしょ?ねぇ]
ちょいちょい、と前足で頬を突かれ、仕方なく吉敷は返事をする。
「お前、兄貴を呼びに行ってから今の今まで何をやってたんだ?」
えらく不機嫌な声になってしまったが、致し方ない。彼は本当に不機嫌だったのだ。
[えっ……]
「俺が外へ出た時、お前の姿はどこにもなかった。何処へ行っていたんだ」
吉敷の肩から滑り落ちて湯へ潜ると、白い小さな獣は申し訳なさそうに呟いた。
[……ごめん、なさい]
が、「ごめんじゃ判らないだろ」じろりと睨まれ、前よりも小さな声で呟く。
[だって、怖かったんだもん。吉敷はいないし、怨霊は沢山出てくるし]
「それで逃げてた、と」
うん、と頷く代わり、管狐は上目遣いに吉敷を見上げた。
[でも、でもね。源太とレオナを呼んだのはボクだから。それは、忘れないで]
「恩を着せようってのか?」
[違うよ!]
「何が違う?」
ぱしゃり、と湯を引っかけられ、管狐は抗議の声を荒げる。
[ボクは、本当に吉敷を助けようと思って!だから、一生懸命走ったのにッ]
なのに、ひどいよ。ボクを怒るなんて、八つ当たりもいいところだ。
残りは声にならず、感情の一部として吉敷の脳へ直接流れ込んでくる。
大きく見開かれた瞳からは、一粒、二粒と大きな涙が零れて止まらない。
ふぅ、と大きく溜息をつくと、吉敷は悲しみに沈む管狐を見下ろした。
「お前は、俺の友達なんだろう?なら、どうして」
吉敷の顔を再び見上げ、その顔に落胆の色が浮かんでいると知り。管狐は呻いた。
[ボクが助けに来なかったから、怒ってるんだね]
「まぁ、臆病なお前に助けを求めるのは、求めるだけ無駄だと言うのは判っていた。だから、それは大した問題じゃない」
一旦言葉を句切り、吉敷は改めて管狐を見据える。
「何故、源太を呼んだ?どうせ呼ぶなら、大婆様で良かったんだ」
[だって。大婆様は、吉敷を]
言いかけて、聖獣はハッとなり口をつぐむ。
だが、その先は筒抜けであった。彼と吉敷は意識を共通するものなのだから。

だって、大婆様は吉敷を助けには行ってくれないから――

ややあって、吉敷は頷いた。先ほどよりも、ずっと落胆した声色で。
「……そうか。なら、仕方がないか……」
[あ、あのね!でも、それはボクが勝手に思ってる婆様像かもしれないしっ]
慌てて言い繕う管狐の頭を人差し指で優しく撫でると、吉敷は彼を肩に乗せてやった。
「さっきはすまなかったな。助けを呼んでくれたこと、感謝している」
[感謝している、なんて堅苦しい言い方……やめてよ]
そう言いながらも、管狐は嬉しそうであった。すりすり、と吉敷の頬に顔をすり寄せる。
くすぐったさに顔を背け、吉敷は言い直す。
「あぁ、そうだな。それじゃ……ありがとう」
まぁ、顔を背けたのは、くすぐったいだけではなく照れくささもあったのだが。

出支度を終えた長門日兄弟が家を出たのは、早朝も過ぎた午前六時頃。
早く早くと源太に急かされつつも、ここまで出るのが遅くなった理由は一つしかない。
風呂から上がった途端、深い眠りに襲われて、吉敷が眠ってしまったせいであった。
「プロフェッショナルたるもの、いつ如何なる時でも緊張せんといかんぞ」
ぐっすり眠って元気も調子も取り戻した吉敷は、兄の小言を聞き流しながら手早く着替える。
「それより兄貴、朝食は何がいい?簡単なものでいいから、食っていこうぜ」
「馬鹿、食っとる場合か。そりゃあ、お前の作るメシには文句ないが」
「なら決まりだ。朝飯は卵御飯と味噌汁でいいな?」
ということになってしまい、白米に味噌汁の朝食を終えてからの出発となった。
砂利道を急ぎながら、吉敷は傍らの源太を見た。
口元に黄色い跡が残っている。急いで卵かけ御飯をかっ込んだという、見事なまでの証拠だ。
常日頃プロの心得をくちにしている割には、意外と身だしなみがなっていない。
「兄貴、ちょっと」
せかせか歩いていく源太を呼び止めると、いやな顔をされた。
しかし、大婆様に注意されて兄が恥をかくよりはマシだろう。
吉敷は懐から取り出した手ふきで、兄の口元を拭ってやった。
すると源太はニヤリと笑って、こんなことを言うではないか。
「んん。惜しいのぅ」
ありがとう、と言うのならともかく奇妙なことを言い出す兄に、吉敷も唖然とする。
「ハ?なにが惜しいんだよ」
「これが静なら、源ちゃん綺麗にしてあげる〜言うて、ペロリと舐め取ってる処じゃがの」
馬鹿なことを言いだし始めた。
静が、そんなことをやっている現場など、もちろん吉敷は一度も見たことがない。
それを突っ込めば、源太はしらっと言う。
「そりゃ、お前の見えんとこでやっとったからのぅ」
見えない場所というと、夫婦の部屋でだろうか。
それにしたって、静が、そういう事をやりそうな性格であるとは思えないのだが……
「お、俺は……静とは違う。変な期待したって無駄だぞ」
言っていて、自分でも頬が紅潮するのが判り、吉敷は一気に不機嫌になる。
さっきまでは手間のかかる兄貴を、可愛いとさえ思っていたのに。
途端に激しく背中を叩かれ、源太の大笑いが耳を劈いた。
「がっはっはっ!嘘に決まっとろうが。本気にしたんか?まったく吉敷は可愛いのぅ」
どうやら、からかわれただけのようだ。
知って、ますます不機嫌になる吉敷を背に、源太が再び早足で歩き出す。
「こんなとこで時間を潰しとる場合じゃない。今日は一件仕事があるんでな、急いで報告じゃ」
なるほど。今日は自分の仕事を片付けたいから、報告を急がせていたのか。
別に、つきあわなくてもいいのに――
などと不機嫌な頭で考えつつも、吉敷は胸の内が暖かくなるのを感じていた。


猶神屋敷へ長門日兄弟が現れることなど、大婆様は既に周知の様子で。
すぐに座敷へ通され、兄弟と婆様は真正面から向かい合う。
伝達が行っていたのであろう。大婆様のくちから飛び出したのは、労いの言葉であった。
「ご苦労じゃったの、吉敷。先ほど、依頼主から報酬が届いたところじゃ」
「それなんですがね――」
言いさした源太を、じろっと皺の間から睨みつけて黙らせると、婆様は続けた。
「吉敷がナンボ失敗と感じようが、成功は成功じゃ。少なくとも、向こうさんは満足しとるでの。だから報酬を出した。それが仕事じゃ」
懐から袋を取り出し、吉敷の前に差し出した。
袋を前に、吉敷は考え込んでしまう。
仕事に成功したと、自分でも思っているのなら、すがすがしく受け取れるだろう。
しかし――自分は失敗したのだ。
なのに報酬だけは、しっかり受け取るなんて。人として、それはどうなのかと問いたい。
吉敷の気持ちが伝わったのか、再び源太が口を挟もうとする。
「いや、ですからね」「黙らっしゃい」
だが今度は真っ向から怒鳴られ、源太は渋々口を閉ざす。
少し調子を変えて、婆様が吉敷へ話しかける。猫なで声、或いは諭すような言い方であった。
「吉敷。ヌシが、今回のやり方を悔いておるのは判っておる。しかし我らの仕事は、あくまでも自分の為に成すのではない。依頼主の為を第一と考えよ。これは逆も然りじゃ。己だけが満足したとしても、先方が納得せねば仕事は失敗となる」
重ねて、苑田親子が吉敷へ感謝を述べていたと告げる。
特に娘のほうは、謝礼やお礼の言葉だけでは感謝を伝えきれないとまで喜んでいた事も。
「――そういえば」
ふと、思い出したように、大婆様は呟いた。
「娘のほう、小夜子と言ったか。どうも、お主を前々から知っておったようじゃの」
吉敷が答えるよりも先に、源太が軽く受け流す。
「そりゃ、近所に住んどりゃー知っていても、おかしかないでしょうよ」
無名の吉敷をか?そう尋ねる婆様へ、片目を瞑って笑った。
「こいつほどの男前となりゃあ、年頃の娘は見逃しやしませんわい」

――苑田小夜子。

彼女の顔が脳裏に浮かび、吉敷は袋を手に取る。
「そうじゃ」
婆様も、にんまりと笑って彼を促した。
「その袋には、あの二人の感謝が込められておる。受け取っておくがよい」
僅かに頷き、吉敷は袋を懐にしまい込んだ。
「……はい」
「よし!これで吉敷の一件も片付いた。それで婆様、お話があるんですがね」
大声で仕切りだした源太へ、婆様が目を向ける。
だが、次なる婆様の切り返しには、兄弟は二人とも言葉を失った。
「吉敷と二人で仕事を請け負う話か?」
「なっ、なんで師匠が知ってるんですかィ?まだ誰にも言うとらんのにっ」
驚愕する源太を、ちらと睨み、婆様は面白くもなさそうに応える。
「お主らが来る前、それを予測した文が届けられたわい。魂無き存在からな」
魂なき存在?
源太と吉敷は顔を見合わせる。どちらの顔にも困惑が浮かんでいた。
心当たりがない。
婆様は戸惑う兄弟を見つめていたが、しょうがないといった風に付け足す。
「ふむ。死者を操る者、といえば少しは思い当たるか?」
途端にハッとなり、源太が叫ぶ。
「里見玲於奈ッスか!?」
「さとみ、れおな?」
聞き返す弟には、小さく耳打ちした。
「詳しくは後で教えたるが、お前を助けてくれた山伏少女じゃい」
少女。
山伏なのに、少女?
そういえば――記憶が途切れる直前までに、山伏っぽい格好の奴を見た気もする。
「そうじゃとも。山伏協会の里見玲於奈じゃ。そういや、あやつ、おもしろいことも書いておっての」
思いだしでもしたのか、婆様はくっくっく、と含み笑いを漏らし。
かと思えば、皺だらけの顔が兄弟をキッと睨みつける。
「この地に留まり、しばらくは猶神流の手の者と仕事がしたいと申しでよった」
「婆様は、それを承諾した――と。で?誰と組みたいと言ってきたんです、彼女は」
源太はガリガリと頭を掻いた。だんだん読めてきた。
恐らくだが、レオナが共同運営を望んでいる相手とは、俺と吉敷の二人だ。
いや、正確には吉敷と組みたいのだ。
猶神流の使い手の中で一番弱くて、一番敵に狙われやすいのは、吉敷ただ一人。
吉敷を囮とすることで、残りの敵も燻り出すつもりなのだろう。
面白い。
可愛い弟を囮にされるのは気にくわないが、そうまでして山伏協会が潰そうとする敵だ。
かつてないほどの強大な組織と思われる。
これから先の戦いも、楽しくなりそうじゃないか。
案の定、大婆様が答えたのは源太の思った通りの名前であり。
「いいでしょう。レオナと三人で、しばらく仕事をしようじゃないですか」
驚く吉敷を制し、源太は不敵に承諾したのであった。

  
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