彩の縦糸

其の八 要求

黒い悪霊使い、九鬼。彼女が去った後は、不思議と風も止んでいた。
「とにかく……一旦、帰ろ?しずさんも心配してると思うし」
気絶した吉敷を己の上着でくるんでやりながら、源太は弟を背負いあげた。
「そうじゃな。吉敷から穢れも落としてやらにゃぁ」
ちら、と背中の弟を見る。
拉致されたと聞いた時から、嫌な予感はあったのだが――
まさか、あのような目に遭っていようとは。敵の女にはサドッ気があったようだ。
「うん」
レオナも頷くと、源太の後ろからついてくる。
二つ、いや、三つの影が重なるようにして、石段を降りてゆく。
来た時とは違い、ゆっくりした足取りだった。
急いで帰りたいのは山々なのだが、どちらとも疲れきっていた。
源太は、ここへ辿り着くまでの道のりで。レオナは悪霊との戦いで、疲労困憊であった。
時折思い出したようにレオナが呟き、源太は、それに同意する。
「そういえば、さ。吉敷さん、仕事失敗したって言ってたけど」
「うん?……あぁ」
「仕事、失敗じゃなかったと思うよ」
「ん……まぁ、そうじゃな」
小夜子さんから、憑きものは落ちた。
悪しき悪霊使いは、撃退した。
これ以上ないぐらいの成功だとレオナは思う。彼は、何が不満で失敗だと思ったのだろう。
そう源太へ問うと、源太は少し空を見上げ、ややあってから照れた様子で答えた。
「うん、まぁ――自力で解決できんかったのが、悔しかったんじゃなかろうかのォ」
「それって」
レオナも空を見上げて言う。真っ暗だった空は、もう白み始めていた。
「男のプライドってやつ?」
「そうじゃ」
石段を最後まで降り、源太は頷いた。
「確かに、依頼主の体から悪霊は落ちた。成り行きで、な。吉敷が落としたわけじゃない。悪霊使いも退治した。だが、倒したのは吉敷ではない。レオナ、お前さんだ」
「そんなの、仕事では、よくあるアクシデントだよ。それに最後は」
自分で倒したじゃない、そう続けようとするレオナを遮る。
「最後の悪霊にしたって、倒したのは聖獣であって吉敷じゃあない。こいつは、そう考えたんだろうさ」
弟を見つめる源太の目には、何とも言い難い感情が込められていた。
寂しさとも取れたし、哀れみ、憐憫にも見えたが、レオナは、それが愛情だと気づく。
「源ちゃん」
彼女が立ち止まり、源太も振り向く。
「あのね。しずさんには、レオナから伝えておくから……しずさんは、しばらくレオナの家に泊まってもらうから……だから、」
源太は頷く。
「あぁ、わかっとる。お前らは何も心配せんでえぇ。吉敷のことは、わしに任せておけ」
「……お願い、ね」
レオナとは苑田家の門前で別れた。そのまま、兄弟は我が家へと到着する。


家の中は寒かった。
たった数時間留守にしただけだというのに、冷蔵庫並に冷え切っている。
廊下へ弟を座らせると、源太は吉敷の部屋に布団を敷いた。
風呂にも入れてやりたい。そう思って揺り起こすと、吉敷がゆっくりと瞼を開ける。
「おはよう、吉敷。いや、こんばんは、かのぅ?」
などと、おちゃらけてみたが、弟は無反応だ。
黙ったまま、廊下に座り込んでいる。視線はずっと、床板を見つめていた。
「あー。その、なんだ。仕事は失敗したが、無事で良かったじゃないか。な?」
バリバリと頭を掻きながら、源太も廊下にしゃがみこむ。
ふるえる声が、それに応えた。
「無事……じゃ、ない……」
「吉敷?」
よく見ると、わずかに手も震えている。今にも爆発しそうな感情を、無理に抑えていた。
慌てて源太は言い直す。
「あぁ、いや、まぁ、体は無事じゃなかったが、命は無事だった。そうじゃろ?」
その言葉に触発されたか吉敷は顔をあげ、何かを言いかけた。が、再び項垂れてしまう。
やはり床板を見ながら、ぼそぼそと囁く。
「み……見たんだろ…………」
何が、と聞こうとして源太は思いとどまった。弟の言葉には、続きがあったから。
「俺が、あいつらに…………されて、よがってるところ」
さすがに素直には頷けず、源太が困惑している間にも、吉敷は続けた。
汚い感情を心の中から吐き出すように、次第に声には熱が入っていく。
「ホントは……気持ちよくなんか、なかった……ホントに、全然、気持ちよくなんか……なのに、俺は嫌だったのにッ、体が勝手に反応して……ッ」
ぽた、ぽた、と大粒の涙が床に落ちる。吉敷は泣いていた。
いつも気丈な弟が、自分の前で泣くとは。
よほど悔しかったのだろう、悪霊に対して何も出来なかった己の非力さが。
否、そればかりか悪霊の手でイカされてしまったのだ。ショックでもあっただろう。
「わかっとる、そいつは生理現象だから仕方ないんじゃ、吉敷」
よしよし、と背中を撫でてやる。それでも、吉敷の勢いは止まらなかった。
「あいつら、俺が嫌がってるの、見て……じゃあ、とどめは大婆様が来た時にやろうって」
とどめというのは、つまり、後ろからの挿入といったところか。
誰かに抱かれたことのない人間にとっては、恐怖以外の何物でもない。
男でも、女でも、ショックを受けるだろう。
誰にも見せたことのない場所を見られ、さらに異物を体内へ入れられるのだ。
ましてや、人間ですらない化物が相手では。一生、悪夢に悩まされるトラウマにもなりかねない。
「……でも、俺が本当に見られたくなかったのは…………なんだ」
「ん、なんだって?誰に、見られたくなかったんじゃ?」
最後の方は掠れていて、よく聞こえなかった。聞き返すと、吉敷はポツリと答える。
「…………あんた、だよ」
「俺か?」
「兄貴にだけは、見られたくなかった……なんで……助けになんか、来たんだよッ!」
ぽかんと尋ね返す源太に抱きつくと、吉敷は声をあげて泣きじゃくった。

源太は、激しく体を震わせて泣いている弟を見下ろす。
今の吉敷は、普通の状態ではない。
怖かったのと悔しかったのと恥ずかしかったのとで、軽く混乱に陥っているのだ。
とにかく落ち着かせ、安心させてやらねばなるまい。
しがみついたまま嗚咽を漏らす弟の背中を、優しく撫でてやった。
「ん……まぁ、家族がさらわれたとあっちゃ、助けに行くのが普通だしのぅ」
「……普通?じゃあ、」
涙に濡れた目が、源太を見上げる。
「失望、しただろ。自分の弟が、敵のいいようにやられてるとこ、見たんだからな」
失望?
確かに、吉敷が敵の手に落ちたと聞いた時は、衝撃を受けもした。
だが、それを失望と呼ぶのなら、矛先は吉敷ではなく大婆様へ向かうだろう。
そこまで強大な敵を新人の吉敷へあてがったのは、他ならぬ大婆様なのだ。
初仕事だ。
普通は自信をつけさせるためにも、簡単な仕事をあてがうのが頭領の役目ではないのか?
使役された悪霊を祓うなどといった危険な依頼は、新米のやれる仕事ではない。
もう少し早く、そのことが判明していたら――
取り憑いている悪霊が、使役されたものであると、判っていたのなら。
手を貸してやれたかもしれない。吉敷を酷い目に遭わせることも、なかったはずだ。
しかし、このことで大婆様を恨むのは筋違いだ。
大婆様は知らなかったのだ、これが悪霊使いの仕業だったということを。
相手が悪霊使いであると確信できたのは、吉敷一人だけだったのだから。
その上で、吉敷は誰に相談もせず、一人で突っ走って、敵の手に落ちた。
結果だけで見るなら、完全に彼の過失であり自業自得とも言えよう。
それだけに、源太には弟の気持ちが痛いほど伝わってくる。
仕事は失敗した。
吉敷は、そう言った。そして、それは間違いではないのだ。
「失望など、せん。仕事ってのはな、初めは失敗せんほうが珍しいんじゃ」
「でも、俺……兄貴の顔に、泥ぬった」
溢れる涙を拭おうともせず、吉敷は再び項垂れる。
「俺の?俺は俺、吉敷は吉敷じゃろうが。俺の体面を気にする必要などない」
優しく諭すように慰めながら、源太は源太で、それとは全く違うことを考えていた。

乱れた髪が、数本肩から胸元へと垂れている。
泣き濡れた顔も、妙な艶っぽさがある。
俺の体面が潰れたなどと、いじらしいことを言うじゃないか。
かけてやった上着は、しがみついた拍子で半分以上脱げかかっていた。
見えそうで見えないというのも、なかなか、そそる物があるのぅ。
今も、ぐすぐすと鼻をすすっている。
泣いて潤んだ瞳が、愛らしい。亡くなったお袋を思い出させる。
お袋も、よく泣く女だった。
泣いている時の顔は、押し倒したくなるほど可愛らしかった。
気性の激しい女でもあった。泣く、癇癪を起こす、などは日常茶飯事だった。
吉敷は顔だけじゃなく、性格もお袋に似とるんじゃろうな。
感情が爆発すると、まず、泣く。
しかも、その泣き顔は男心をそそるほど愛らしく――

本格的にどうでもいいことを考えているうちに、源太は己の海綿体へ血が集まってくるのを覚える。
吉敷もそれに気づいたらしく、そっと身を離して兄を見上げた。
「……なぁ」
「な、なんじゃ?」
心なしか声が上擦る源太を、吉敷が無言で見つめる。
続いて、着物を下から押し上げるほど盛り上がった源太の股間へ目を向けた。
「兄貴も、その………したいのか……?俺に」
「な、なにを?」
必死で平常心を取り戻そうとする源太へ、再び目を向けた。まだ涙の乾かぬ、潤んだ瞳で。
「あいつらと、同じような真似を……さ」

エッチなことが、したいのか?
普段ならば、速効で「はい」と答えているところである。
だが、今の吉敷は平常ではない。そう、まったく平常ではないのだッ!
平常ではないからこそ、こんな質問を兄である源太にしてしまったのだ!
――と、理性では考えつつも、源太は本能の高ぶりが押さえきれない。
ムスコは何時でも出動可能とばかりに、直立不動の構えで腹に張りついている。
血管が、ドクドクと波打っている。このままほっといたら、出てはいけない汁まで出しそうだ。
「……へんなこと言って、ごめん」
だが源太が何か言い訳するよりも早く、先に謝ってきたのは吉敷のほうであった。
ずり落ちた源太の上着を羽織りなおし、さらに身を引いて壁にもたれかかる。
「源太は、あの女が好きなのに。するわけないよな」
あの女とは、静のことだ。
何度源太が注意しても吉敷は静を、あの女と呼んだ。
何が気に入らないのか、彼女との会話では、ひどく愛想も悪くなる。
「んん?静のことは確かに好きだが、なんでココで静が出てくるんじゃ?」
と言った後、自己解決でもしたか、源太は景気よく自分の膝を打った。
「ん、なるほど!もしかして、嫉妬しとるんか?のぅ、吉敷」
そうと考えれば、静に対して吉敷の愛想が悪い理由も解決する。
だが、そうなると今度は別の疑問も浮かび上がってきた。
源太は静がいようがいまいが関係なく、吉敷にちょっかいをかけている。
それこそ静とつきあうよりも、ずっと前から、吉敷の大事なトコロを触ったりしてきた。
しかし吉敷はそれに対して、今まで一度も色よい返事をしたことがない。
いつも邪険に振り払われてきた。
兄貴をとられるのが嫌で静に意地悪をしているというのなら、二人っきりの時ぐらいは素直な反応を見せてくれてもいいんじゃなかろうか。
そういった心の中の不満を押し隠し、源太が弟の膝をコチョコチョとくすぐると。
「うん……でも、そんなの嫌だろ……気持ち悪いだろ?」
意外や意外。
くすぐっている指を邪険に振り払うでもなく、吉敷は素直に頷いたのだった。
「気持ち悪いって、何が気持ち悪いんじゃ。おかしなことを言うのぅ」
なおも源太がとぼけてみせると、弱気から一転して、カッとなった吉敷が食いかかってくる。
「だって、男同士だぞ!?兄弟なんだぞ、俺達。こんなの、どう考えても、おかしいだろ!」
「何をどう考えれば、おかしいんじゃ。そいつは世間の目で測った常識か?」
顎をすくいあげると、吉敷はハッと身を固くし、視線を横へ逃がす。
完全に、こちらを意識している。今までの彼からは考えられなかった反応だ。
「世間なんざ、言いたいように言わせとけばいい。俺はな、吉敷。お前のことも、静のことも、同じぐらい好きなんじゃ。ずっと一緒に暮らしたかったから、静とは結婚した。男と女ってのはな、結婚せなんだら一緒に暮らすのも億劫するからの」
出雲大国の法律では、未婚同士の同棲期間というものが定められている。
期間を過ぎてしまうと恋人は住処を解雇され、無理矢理、引き離されてしまうのだ。
それが嫌だから、結婚した。
道理には叶っている。
「なぁ……兄貴は、気づいてたのか?」
「うん?」
「俺が――」

あんたを、好きだってこと。

途中まで言いかけて、吉敷は気が変わった。
なんで、この馬鹿兄貴ばかりを、幸せにしてやらなければいけないのだ?
この馬鹿は、俺を好きだと言いつつも、静も好きだという単純な理由で結婚した。
朝から晩まで二人のイチャイチャっぷりを見せつけられる方の気持ちも一切考えずに、だ。
兄貴に何かされるのは、嫌じゃない。
兄の気持ちに答えられるものなら、俺だって答えたい。
だが男同士でイチャイチャするなんて。やっぱり、何かヘンだ。
いや、ヘンだというのは違う。
俺はきっと、世間体を気にしてるんだ。
霊媒という仕事場における、兄貴の体面も。
兄と弟が、そんな関係なんて、キモチワルイ。
世間から刷り込まれた常識が、俺を躊躇させている。
それに今は、静の目だってある。静のいる前で、身を任せるわけにはいかない。
静は源太の嫁だ。義弟と旦那が肉体関係を持つなんて、絶対に許せないだろう。
なのに、源太は何を考えて、毎日俺にちょっかいを仕掛けるのか……
やられて困る、こっちの身にもなれってんだ。馬鹿が。
「なにをじゃ?うりうり、なんとか言ったらんかい、吉敷ィ〜」
股間をはいずり回る奇妙な感覚に吉敷が我に返れば、源太と目があった。
源太の手は、着物の上から吉敷の股間をニギニギと握っている。
「……ったく。人の気も知らないで」
邪険にそれを振り払うと、吉敷は立ち上がった。
と、今度は頭を軽く撫でられた。顔を上げると、源太の笑顔が目に入る。
「お?お?ようやく、調子が戻ってきたようじゃの」
「誰かさんのおかげでな」
ぶっきらぼうに答え、数歩いったところで吉敷は立ち止まる。
「……悪い。ホント、みっともないとこ見せてばっかりで」
気にするな、と手を振る源太へ、少しばかり照れた様子で続けた。
「それで……こんな駄目なとこ見せたあとで何なんだけど。頼みたいことがあるんだ」
「ん?なんじゃ、なんでもお願いしてみぃ」
間を詰めてきた源太が尋ね返すのへ、吉敷は、そっと囁いた。
今、この家には兄弟しかいないのに、誰にも聞かれたくない、とでもいうように。
「兄貴の仕事、手伝ってもいいかな?一応、初仕事も終了したし。……その、俺、もっと、勉強したいんだ。プロの仕事を、実戦で」
そう言った吉敷の顔は真剣で、それを上回るほど、初々しいものがあった。

――俺、霊媒師になりたいんだ――

初めて、そう言い出した頃の吉敷を思い出させる。
あのときも吉敷は今と同じ真剣な表情を浮かべ、じっと源太を見つめていた。
吉敷の初仕事は確かに失敗した。
だが本人にやる気が残っている以上、やめさせるのは正しい導き方ではない。
「おぅ、勿論じゃ!しっかり手伝ってもらうぞ、吉敷」
兄の差し出した手を、弟が堅く握りしめる。
ほんのり浮かんだ笑顔を見て、源太は安心した。
この様子なら、吉敷はもう大丈夫だ。もう、平常心に戻っている。
「んじゃあ、まずは静を呼び戻して――」
言いかける兄を制し、吉敷は緩く首を振った。
「悪い。悪いけど、それは、まだ待って欲しい。俺が自信をつけるまで……静、は、呼び戻さないでおいて、くれないか」

  
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