彩の縦糸

其の四 邪流

大婆様から承りし、長門日吉敷の初仕事は――
中津佐渡にある苑田家の一人娘、小夜子を悪霊から救い出す事であった。
共に仕事をするべき聖獣、筒の中の管狐も機嫌を直し、二人は改めて小夜子を見る。
目で見るのではなく、心で観た。
[憑かれてるね]
ぽそり、と管狐が呟く。
人間には感じ取れぬ気配も、聖獣である彼には感じ取れるものらしい。
「何が憑いている?」と尋ねる吉敷に黒い目を向け、管狐は答えた。
[悪霊。それも、低獣霊じゃない。使役された霊だよ]
吉敷の眉が跳ね上がる。
何者かが悪意を込めて、彼女に霊を取憑かせたということか?
なんという非道な真似をする。
[そう。この人を、最悪の場合は殺すつもりで憑かせてる]
吉敷の手の上で、聖獣が身震いする。弱々しい視線を再び小夜子へ向けた。
[……体の変化は……霊を追い払えば、治せると思う]
「治せるのか!?」
お前が、と問いかける吉敷へは、小さく首を振る。
[治すのは、ボクじゃない。吉敷だよ]
「俺は医者じゃないぞ」
不機嫌になる彼へ、こうも言った。
[正しい気を当てれば、正しい方向へ向くから。病は気からって言葉……知ってる?]

「脅されている?何故、そうお考えになるのですか」
苑田家、茶の間。
八畳半はあろうかという広い茶の間に、男が二人。
一人は吉敷。管狐は役目を終え、今は筒の中で眠っている。
もう一人は、この屋敷の主人、苑田鉄五郎。小夜子の父だ。
――誰かから脅されていないか?
吉敷の問いに対し、父親の反応は驚くでもなく怒りに赤らむでもなく、淡泊なものであった。
淡々とした語りは、認めているのか諦めているのかも、判りにくい。
「小夜子殿に取憑いている悪霊は、人為的なものだ。何者かが苑田家を狙って、わざと取憑かせたとしか思えん」
「取憑いて……では、やはり悪霊が?」
堂々とした吉敷の言葉に、父親にも僅かな変化が見られた。
膝を進め、話の続きを促す彼の表情にも一つの感情が、はっきりと表れる。
怒り。
愛娘を悪意で酷い目に遭わせた者に対する、怒りだ。
「何者の仕業なのかは判らん。だが霊が憑いていると判った以上、必ず祓ってみせる」
瞳に同じ感情を宿し、吉敷も強く頷いた。
彼女は必ず助けてみせる。
自分の知りうる聖獣全ての力を借りてでも。
「では、悪霊祓いは本日から、お始めになるので」
「その前に――先の質問に答えてもらっていないが?」

誰かから恨みを買っていないか。
脅迫を受けていないか。

そのことを再度問われ、今度は父親も正直に話した。
娘が助かるかもしれないと判り、少しは希望が出てきたものらしい。
「うちは、ご存じの通り、ここいら一帯を治めていた地主の末裔です」
あぁ、それで、と吉敷は思った。
それで、どこかで聞いたことのある名字だと思ったのだ。
「それで……ここ一帯で強い勢力をお持ちの、そちらの流派様。猶神流霊術様とは大昔から、ご懇意にさせていただいております」
今より昔は、悪霊や怨霊の類も、その数は半端ではなく。
夜道には普通に、妖怪や怨霊が歩き回っていたという。
強い権力や富を持つ者達は、力のある霊媒者と手を結びたがった。
その交流の名残が、苑田家と猶神流にもあるらしい。
今では中流以下の家庭となった苑田家だが、猶神流は金で人を差別したりしない。
小夜子がおかしくなった時も、真っ先に呼ばれたのが猶神流の霊媒師達であった。
「ですが、どなたも梨の礫でございまして……あなたが初めてでございます。小夜子の異変を、はっきりと断言して下さいましたのは」
そう言って、鉄五郎は目元を拭う。
話が少し脱線しましたな、と座り直すと本来の話筋へ戻した。
「そう、脅迫の件ですが……確かに、ありました」
どこか遠くを見つめながら小夜子の父、鉄五郎が言うには――

あれは、家の隅に悪しき気配が感じられるようになった頃だったろうか。
最初に気づいたのは、小夜子であった。
夜、寝ていると、部屋の隅から嫌な風が流れてくるという。
背筋がゾワゾワするような、寒気を覚えるような風が。
隙間風かと大工を呼んで調べてみたものの、風が入り込むような隙間もない。
おかしな状態が続き、しばらくして郵便受けに妙な手紙が届いた。

猶神流と手を切れ。
奴らの私腹を肥やさせるな。
奴らは心の闇につけこみ、汝らを騙している悪人だ。

そのような内容であったと記憶している。
猶神流へ対する憎悪、及び悪意が漂ってくるような手紙だった。
いたずらと思い、新聞と一緒にまとめて塵紙交換に出した。
それで終わりかと思っていたら、二通目が来た。
二通目も同じような文章で、鉄五郎は内心腹立たしく思いながらも破り捨てる。
だが――二通目を破り捨てた日の夜、珍客が訪れた。

はじめ、その者は旅の行商と名乗っていた。
だが客間に通されるや否や、社交辞令という仮面を脱ぎ捨てる。
「猶神流に依存する地主は、そなたか」
訥々と語る声からは、男であるか女であるかも判らない。
女物の着物に身を包み、目元まで前髪を垂らしていた。
「依存とは、穏やかではない表現ですな」
落ちぶれているとはいえ元地主の面目にかけて、鉄五郎が穏やかにやり返すと。
来客は鼻で笑い、「では何故、猶神流と手を切らぬ?」と尋ねてくる。
「今の世は、人が人を詛う時代。猶神流が影で何をやっているか、そなたも知らぬ訳ではあるまい」
人が人を詛う、つまりは呪詛である。
猶神流は人を助ける為に生まれた流派である。
人を詛って不幸にするなど、大婆様が許されるはずもないのだ。
もし行っていたとしても、大婆様の元へ度々ご機嫌伺いに行く鉄五郎が知らぬわけがない。
「どこか、別の流派とお間違えではございませんか」
にこやかに応えると、客が、いきなり立ち上がる。
バッ、と着物の裾をたくし上げ、隠されていた素足を眼下の元に晒した。
「では、この傷をなんとする!これは現頭領、猶神千鶴の呪詛による業ぞ!!」
思った以上に滑らかで白い足には。
一刀のもとに切り開かれ手術で縫ったような傷跡が、浮かび上がっていた。
「呪詛……し、しかし、きっと、それには理由が」
「理由があれば、人が人を詛ってもよいと申すのか!」
鉄五郎は、すっかり客の勢いに呑まれて上手く言い返せない。
それほどまでに客の剣幕と傷跡は、ものすごいものであった。
「つまり、そなたが今後詛われようと、理由があれば許されるということか。その言葉、忘れるでないぞ。苑田鉄五郎!」
大声で名を呼ばれ、再び鉄五郎が凍り付いている間に――
謎の客は、いつの間にか去っていた。

「その時は驚いて言い返せなかったのですが……長門日様。大婆様が誰かをお詛いになられるような事など、あるのでしょうか?」
小夜子の父に尋ねられ、しばし考えた後、吉敷は応えた。
「………呪詛返し、でありましょうな。恐らくは」
「呪詛、返し?」
オウム返しに尋ねる鉄五郎へ頷く。
「その者が誰かに詛いをかけており、大婆様が、その詛いを祓ったとする。祓われた詛いは元の術者へ跳ね返り、その者を祟る。それを呪詛返しと呼ぶ」
なるほど、と鉄五郎は頷く。
「因果応報、というやつですな」
「自業自得とも言えよう」
吉敷も頷き、しかし、と続ける。
「しかし苑田殿、貴方は自業自得ではない。だから詛われる理由もない。これは猶神流へ仕掛けられた戦いだ。貴方は、その巻き添えを食らったのだ」
すまぬ、と頭を下げた。鉄五郎の慌てる気配を前方に感じる。
「長門日様、長門日様が謝ることなどございませんっ!」
悪いのは猶神流を逆恨みしている、あの者ですから、とも付け足した。
「警察へ連絡して、さっそく手配書を回してもらいましょう」
いそいそと電話へ手をかける鉄五郎へ、吉敷は首を振る。
「まだでよい。警察へ連絡するのは、呪詛の出所を掴んでからだ」
小夜子に取憑いている悪霊は、誰かに使役されたものだと管狐は言っていた。
とすれば祓われれば、悪霊は必ず使役していた術者の元へ帰る。
後を追いかければ、術者の居場所を割り出すことも可能だ。
警察に任せるのは、その後でよい。
むしろ今、警察に動かれると、却って厄介なことになりそうだ。
「では長門日様。改めまして、悪霊祓いをお願いします」
どうか小夜子を救って下さい――畏まり土下座する父親へ、吉敷は頷いた。

再び、小夜子の寝ている部屋へ入る。
異変に気づいたのは、すぐであった。
「――!?」
小夜子がいない。
身じろぎ一つせずに、布団で寝ていたはずの彼女が。
布団に触れた途端、吉敷は眉をひそめる。
ひんやりしている――
ということは、いなくなってから、かなりの時間が経過しているのか?
続いて窓を見た。
開いてはいないが、鍵もかかっていない。ここから出たか。
「管狐!彼女がどこにいるか探れるか!?」
懐から取り出した竹の筒に話しかけると、ふわりと白いものが顔を出す。
管狐は床に降り立ち、ふんふんと畳の上を嗅ぎ回ってから顔を上げた。
[ここには居ないよ]
「そんなことは、見れば判る!どこへ行ったか探れるかと」
最後まで怒鳴らず、吉敷は口調を改めた。
怒鳴るのではなく、穏やかに。
何故なら怒鳴った瞬間、相手は慌てて筒の中へ引っ込んでしまったからだ。
「……すまない。恋人のように優しく接するんだったな。それで、小夜子殿が此処を出て、どこへ向かったか探れないか?」
傍らに時刻を見やる。
時計の針は夜の十時を指していた。
小夜子の父と話している間に、ずいぶんと時間が経ってしまったものだ。
[そうじゃない]
筒の中から怯えた顔を向け、管狐が呟く。
[元々、ここには居なかったんだ]
「……何を言ってるんだ?」
吉敷には管狐が何を言っているのか、さっぱり判らない。
先ほどまで小夜子は寝ていたじゃないか。この部屋の、この布団の上で。
服の上からだが、彼女の体にも触れた。あれは幻じゃなかった、実在していた。
[違うの。触れたと思っていたこと自体が、呪詛の仕業だったんだ]
「何だって?もう少し、わかりやすく言ってくれ」
少し焦れたように、管狐が答える。
[だから……目で見えるもの、触れるものが全て実在とは限らないってこと。ボクも吉敷も騙されたんだ。使役されてる、あいつの術に]
小夜子は始めから、この家にいなかった。
吉敷がさわったと思っていた彼女の体。
あれは、悪霊が生み出した幻だった。と、管狐は言っているのである。
「お前も?だが、お前は霊獣だろう。霊獣の心眼を騙せる霊など」
驚く吉敷に、管狐は首を振る。
さも当たり前だと言わんばかりに、小さく溜息もついた。
[霊同士だもの、騙されもするさ。向こうのほうがボクより一枚上手みたいだね]
では、管狐よりも強い悪霊を使役する術者は――更に強いということか?
とても初仕事とは思えぬ難題加減に、吉敷は目眩を感じた。
だが今は、それどころではない。失われた小夜子を捜さねば。
「では、小夜子殿を探すことは出来るのか?その、本物の小夜子殿をだ」
[彼女の霊気の波動さえ判れば。霊気の残ってるものは、ない?]
女性の部屋を無断で家捜しするなど気が引けたが、緊急事態だ。
吉敷は自分に言い聞かせ、手頃なタンスの引き出しを開ける。
目に入ってきたのは、色とりどりの下着であった。
慌てて視線を逸らす吉敷を不思議そうに見上げた後、管狐は下着の上に舞い降りる。
[うん。彼女の手のぬくもりが残ってるよ。ここから霊波が拾えるかも]
「……早くしてくれ」
明後日の方向を向きながら、吉敷が急かしてくる。
たかが下着なのに、彼は何を照れてるんだろう。
本体の裸を見たっていうんなら、照れてもいいけどさ。
少しおかしくなって、管狐は、くすりと笑った。そして吉敷を振り返る。
[もう大丈夫。追いかけられるよ。行こう]
ふわ、と窓を擦り抜けて外へ出る。
背後から吉敷の怒鳴り声が聞こえたような気がした。
「おい!俺は窓を擦り抜けたりできないんだぞ、ちょっと待て!!」

  
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