伊藤が帰ってきた。
遠慮がちに玄関のチャイムを鳴らして。
自分の家だというのに、何を遠慮しているのか。
「伊藤さん、おかえりなさい」
ガチャッと扉を開いて招き入れても、しばらく伊藤は顔をあげなかった。
泣きべそをかいて飛び出した手前、恥ずかしいのであろう。
伊藤の手を引きリビングのソファに腰掛けさせると、改めて宇佐美は話しかける。
「……すんません」
いや、謝った。
突然の謝罪に、弾かれたように伊藤が顔を上げる。
「えっ、なんでウサミッチが謝るの」
ぽつぽつと宇佐美が語る。
「いや、伊藤さん、傷ついたんでしょ。だから泣いて飛び出したのかと」
「ち、違うよ!?俺が君を傷つけたと思ったんだよ、だから飛び出して」
勢いで叫び返した後、伊藤は唾を飲み込み言い直す。
「君の涙を見た瞬間、頭が真っ白になっちゃって……あぁ、駄目だなぁ。また人間関係で失敗しちゃったんだって思ったら、足が外に向かっていたんだ。ごめんね、君をほったらかしに逃げちゃって」
それだと、やっぱり伊藤が傷ついたという結論になりはすまいか。
しかし本人は自覚していないようだし、あまり決めつけるのも何であろう。
このままどちらが悪いと言い合うのも不毛だ。
喧嘩みたいな状況は、さっさと終わらすに限る。
「俺、誰かとキスしたの初めてなんで……自分でも、よく判らないんス。なんで涙が出たのか」
再びポツリポツリと宇佐美が語るのを、伊藤は驚愕の眼差しで見守っている。
「たぶん、驚いて、その衝撃で出たんじゃないかと自分では推測してるんスけど。人体って不思議ですよね」
淡々と語る宇佐美からは、悲しみも伊藤への落胆も感じられない。
「じゃ、じゃあ、俺とのキスは嫌じゃなかったんだ?」
「はい」と頷いて宇佐美が伊藤を見やると、なんと伊藤は涙ぐんでいる。
また傷つけてしまったのかと焦ったが、涙は嬉し泣きであった。
「俺と、今後も一緒に住んでくれる……?」
「はい」
「う……」
「う?」
「ウサミッチーーーッ!」と感涙にむせぶ伊藤に抱きつかれ、思いっきりソファに沈み込みながら、宇佐美は、ようやく安堵の溜息をもらす。
伊藤は宇佐美よりも、ずっとずっと年上なのに、ずっとずっと繊細であった。
まだ交流期間が一年未満だからと余計な詮索は全て遠慮していたが、遠慮していたら、また今回のようなすれ違いが起きるとも限らない。
「あの」と宇佐美が呟くと、すぐさま伊藤は「何!?」と反応してきた。
抱きつく腕から、さらりと逃れ、宇佐美は伊藤と向き合った。
「伊藤さんのこと、もっと色々教えて下さい。俺、伊藤さんについて何も知らないんで……」
言って即座に視線を逸らす宇佐美に、ぐいぐい顔を近づけてくる。
こういった部分は生来のものなのか、伊藤に遠慮は見られない。
「何でもいいよ!何でも聞いて!?」
「え、と。じゃあ、その……」
前にも聞こうと思って遠慮した言葉を、改めて宇佐美は吐き出した。

「伊藤さんって……ゲイ、なんすか?」

聞いた瞬間、部屋は一気に静まりかえり、伊藤が応えるまでに、かなりの時間が過ぎたように宇佐美には感じられた。
「え、えぇと?」
「や、その。酔っぱらって誰彼構わずキスするって言いつつ愛してるって俺に言うってことは、やっぱゲイなんじゃないのかと」
「い、いや、違うよ?俺が好きなのは君だけであって、全般にガチホモってわけじゃ」
何やら口を滑らせたかして、途中で伊藤は、あっと口元を抑える。
瞬く間に頬が紅潮していくのを見届けながら、宇佐美は畳み掛ける。
「好きなのが俺一人だったとしても、キスするってことは俺と性行為してみたい願望があるんすよね?だったら、それはやっぱゲイなんじゃ」
宇佐美の推測に対し、ちらっと上目遣いに見つめて伊藤は否定した。
「や、だから……好きになった男ってのは君が初めてなんだって」
他の男、例えば馬原などを見ても、性的欲求は起きないと言う。
「君だけなんだ、エッチな妄想しちゃうのは……あっ!で、でも、こんなの駄目だよね。これからも同居するってのに!ごめん!今の全部忘れて!!俺も、もう二度と妄想しないから!!!」
伊藤は涙を浮かべてプルプルしており、嬉し泣きから悲し泣きに変わったようだ。
本当に繊細でデリケートな年上だ。
なにをするにも、そう、恋をするにも相手の出方を恐れている。
誰かを好きになったことのない宇佐美には、伊藤の態度が新鮮に思えた。
恋をすると誰しも遠慮深くなるのだろうか、このように。
「エッチな妄想っていうと……俺の裸が見たいとか、キスしたいとか、そんなんスか?」
「そっ、それ以上の18禁も含むよ!?俺は大人だからね。け、けど君が嫌だと言うのなら、それは絶対にしないし!!」
あのエロゲーでやっていたような行為か。
つまりは、セックスだ。
好きになった男は宇佐美が初めてという割に、妄想力が逞しい。
疑問に思ったことを、さらに宇佐美は突っ込んでみる。
「……なんで、そう思うんすか?」
「え?」
「いや、俺とシたいって。別に、しなくても一緒に住んでりゃ幸せじゃないスか」
性行為に興味がないのは今でもだ。
伊藤のことは好きだが、なにかをしたいと思ったことは一度もない。
ただ、彼が飛び出して戻らなかった晩は、ひどく不安になった。
これまで一人暮らしには慣れていたはずの自分が。
これが人を好きになる――という事なのかもしれないと考えた。
だからこそ、一緒に住む以上を求める人の気持ちが理解できない。
「あ、うん。それはそうだけど、でも」
宇佐美の顔色を伺う視線を向けてきて、それでも伊藤は自分の主張を目一杯押し出してきた。
「好きになればなるほど、身体も心も一つになりたいって思うもんだよ……えぇと、少なくとも、俺はね?」
主観の違い、というやつなのかもしれない。
それとも今は判らずとも、伊藤と暮らしていれば宇佐美にも判るようになるだろうか。
なんにせよ、ここを追い出されたら行くアテがない。
土下座してても同居させてくださいと頼み込むのは、伊藤ではない。
自分側である。
繊細な自称ウサギさんを、これからも自分の無自覚で傷つける恐れはある。
しかし、それでも――
それでも、伊藤と離れて暮らすのは寂しいと宇佐美は考えた。
しばし腕組みで考えた末に、答えを出す。
答えは最初から出ていたも同然だった。
「俺、まだ恋とか、そういうの、わかんないんで……伊藤さんと暮らして、理解しようと思います」
「えっえっ?理解って、それはどういう」
キョドる伊藤を真っ向から見据え、宇佐美は、彼にしては滑舌良く答えた。
「だから、その。伊藤さんが俺にしたい行為とか全部ひっくるめて、です。俺に妄想するの、やめなくていいです。止める権利、ありませんし、俺に」
じぃっと穴の空くほど宇佐美の顔を見つめてきたかと思うと、またまた感涙の涙が伊藤の頬を伝って落ちる。
「ウサミッチって……イイヒトすぎるよね……ッ!」
「そうスか?」
自分では、そうは思わない。
気が回らなすぎると思うぐらいだ。
だが感動した伊藤の耳には本人の否定も入ってこず、宇佐美は再び伊藤に抱きつかれた。

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