夕べは、いつの間にか寝てしまったようだ。
昨夜、逃げ出した伊藤を追いかけるか否かで散々悩んだ挙句、行き違いになっても困るから……と思っているうちに瞼が落ちてしまった。
朝になっても伊藤の戻ってきた気配は無しで、警察に捜索願いを出すべきか否かを悩む宇佐美の耳に、携帯電話の着信音が鳴り響く。
ハッとなって出てみれば、馬原の声が聞こえてきた。
『あー、宇佐美だったか?オハヨウ』
「お……おはようございます」
どことなく気まずげな挨拶をかましてから、馬原が話し出す。
『夕べな、うちに伊藤が来たんだけど、お前ら喧嘩でもしたのか?あぁ、いや、皆まで言うな、どうせ伊藤がセクハラかましてきたんだろ?こいつな、酔っぱらうと前後不覚になって誰彼構わずスキンシップを取りたがる悪い癖があんだよ。キモイと思っても、そこは同居人のよしみで』
繰り出されるマシンガントークを遮って、宇佐美は叫んだ。
「伊藤さん、そっちにいるんスか!?」
事も無げに馬原が答える。
『ん、あぁ、いるよ。ベソかきながら、やってきた』
伊藤と顔馴染みの編集者が言うには、こうした事は前にも度々あったらしく、何か落ち込む出来事があるたびに伊藤は親しい者の家へ突撃をかますのだそうだ。
『俺はまぁ、独身だから突撃されんのは構わねぇんだが同居人がいる今でも突撃してくるたぁ、驚いたね。今頃はお前が心配しているんじゃないかと思って、こうして連絡したわけだ』
相手の心の広さに感謝しながら、宇佐美は自分の不始末の如く恐縮した。
「す……すいません、ご迷惑をおかけしてしまって」
『いや、お前が謝るこっちゃねーだろ。どうせ伊藤が全部やらかしたんだろうし』
やらかす部分も日常茶飯事だったんだろうか。
伊藤とのつきあいが長い馬原に、宇佐美は尋ねてみた。
「伊藤さんの様子……今は、どうスか」
『ん〜?飯モリモリ食って元気だよ。宇佐美心配してんじゃねーの?っつったら、また泣きそうになったけど』
いい歳した大人がベソベソしながら、友人の家に押しかけて一晩泊まった。
馬原の話を総合すると、そういう事になる。
伊藤はフレンドリーな雰囲気と反して、随分と傷つきやすい性格であったらしい。
いや、自称寂しがりの兎だそうだから想定内の性格か。
伊藤にかわるか、と聞かれて宇佐美は頷いた。
しばらく向こうの電話口では揉めていたようだが、やがて相手が切り替わる。
『あ……え、っと、その……う、ウサミッチ……』
宇佐美は黙って話を聞く。
『その……ご、ごめん!ホント、夕べはごめん!!』
この場にいたら土下座でもしそうな勢いで、怒濤の平謝りが始まった。
『俺、ワイン一本あけた処までは意識があったんだけどハイボールを飲み始めた辺りから、もう全然覚えてなくて!帰ってきてから君を押し倒したところで意識が戻ってきて!!なんかもう、めちゃくちゃ嫌な思いさせちゃったよね!?気持ち悪くてごめんね!!?でもっ、出ていかないでもらえると嬉しいかなぁなんて思っちゃったり!!!お願いします!こんな気持ち悪い俺でも見捨てないで一緒に住んで下さい!!!!』
一体どれくらいのアルコールを飲んでいたのか、夕べの二次会で。
二次会は馬原も一緒だったようだが、彼は伊藤を送ってきた時も意識がはっきりしていた。
『もう二度と、あんな真似しないから!お酒も控えます!!あとっ、それとコンペの結果発表だけど、届いた!?』
「え、いや、それは、まだ」
『そっか!後で郵便で来ると思うから、来たら受け取ってね!それと同居の件、俺はウサミッチの意志を尊重するから!』
電話口の向こうからは、始終必死な叫びが聞こえる。
逃げられるという絶対の予感でもあるのか。
だが、伊藤は一つ勘違いしている。
「あ……その、気持ち悪く、ないですよ……?伊藤さんは」
ぽつぽつと言い返す宇佐美に対して、伊藤のテンションは高いままだ。
『えっ!?で、でも、泣いちゃったよねウサミッチ!あれって気持ち悪かったからじゃないの!?』
何故、泣いてしまったのか。
それは、宇佐美自身が一番知りたい。
嫌だったのは、むせかえる酒の匂いだけだ。
キス自体は嫌ではなかった。
「きっと、酒の匂いで咽せて、それで涙が」
『えっ!?で、でも、そういう泣き方じゃなかったよ!?』
『グチャグチャうるせぇな、お前は。宇佐美本人が違うっつってんだから、信じてやりゃ〜いいだろうが』
伊藤の背後にいるであろう馬原の舌打ちまでもが聞こえてきて、そいつを追い風に宇佐美は重ねて伊藤へ言い含めた。
「俺、伊藤さんを気持ち悪いと思ったこと、一度もないです。……だから、早く戻ってきて下さい」
『う……ウサミッチーッッ!!!』
伊藤は恐らく大号泣だ。声が、歓喜で震えている。
「俺も……一人じゃ寂しいんで……」
ポロリと本音を呟くと『うん、今すぐ戻る!』と打てば響く返事がきて、『いやいや、こっから会社に行った方が早ェだろ』と、すかさず馬原のツッコミも入る。
『あっ、そうか、会社……いやいや、ウサミッチに会うのが先決だろ!会社なんて一日二日休んだって、どうってこたぁない!!』
社会人にあるまじき発言が飛び出てきたので、宇佐美は言い直した。
「会社、行って下さい。んで、寄り道しないで帰ってきてくれると嬉しいス」
『ウォッケーイ!今日は早めに帰るからね、愛してるよウサミッチー!』
最大にテンション高く、電話は切れた。


「お前、愛してるとか言うからキモがられるんだぞ?」
電話を返してもらった馬原のお説教に、伊藤は少なからずショックを受ける。
最初のカノジョに捨てられてから、銀英社に入って人間恐怖症を克服した。
それからの伊藤は、すっかり距離ナシ人間になってしまったが、それでも、この会社の人間も同じぐらいの距離だった為か、同僚とは円満にやってこられた。
宇佐美のように、恥ずかしがり屋な人間との交流は初めてである。
初めてだけに、距離を測り損ねた。
「ウサミッチ、やっぱ内心じゃ気持ち悪いと思っているのかなぁ。っていうか馬原は俺のこと、気持ち悪いと思っていたんだね……」
しょんぼりする伊藤に、馬原は全く遠慮がない。
「そりゃあな、俺ァ、そっちのケがねーからな。宇佐美はどうだか知らねぇが、酒臭いオッサンにチューされて嬉しがるようなタイプにも見えねぇぜ?」
それとも、つきあいが長いからこその遠慮の無さなのだろうか。
「いや、あの、俺は別にガチホモってんじゃ」
馬原の説教は、まだ途中だったかして、伊藤の言い訳も遮られる。
「お前がホモかどうかはともかく、距離ナシなのは間違いねーだろーが。いいか?親しき仲にも礼儀ありって言うだろ。俺は、お前のそういう駄目な部分が時々嫌になることもあるんだよ」
馬原の言葉は伊藤のハートにズバズバ突き刺さり、己の酒癖の悪さを伊藤は改めて反省する。
「俺、やっぱ禁酒する……」
「あぁ、そうしろ。お前、大体、弱いくせにガバガバ飲み過ぎなんだよ。あんなペースで飲みまくっていたら、そのうち救急搬送されっぞ?宇佐美を心配させねぇ為にも、当分は酒断ちしとけ」
二次会での様子を思い返すに、馬原は節制していた。
チキンはモリモリ頬張っていたけど、お酒は、さほど飲んでいなかった。
伊藤は酒が好きだ。
ただ、壊滅的に強くない。
はっきり言うと弱い。
いつかは倒れてもおかしくないと、自分でも思う。
もう、気ままな一人暮らしではない。同居人がいるのだ。
酒断ちとまではいかなくても、節制すべきであろう。
「うん……ビール、全部ウサミッチに飲んでもらお」
「またダース買いしたってのか?兄上様にも心配かけんなよ」といった小言を山盛りにくらいつつ、伊藤は馬原と共に出社した。

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