その日の夜。
大きな物音に驚いて、宇佐美が玄関まで様子を見に行ってみると、グテングテンに酔っぱらった伊藤を担いで馬原が入ってくる処であった。
「うぇーい、亭主様のお帰りだーい」
顔面を真っ赤に染めて、伊藤が何か騒いでいる。
宇佐美の顔を見て、馬原が謝ってきた。
「悪ィ、打ち上げで飲み過ぎた」
何の打ち上げかと宇佐美が問えば、コンペの二次会だ。
「早く帰れって言ったんだがよ……ずるずる長引いて、このざまだ。見境無しにブッチュブッチュしてくるかもしんねーから、ベッドに放り込んだら、お前はどっか別の場所で寝ろよ。じゃあな」
言うだけ言うと馬原は、さっさと帰ってしまい、ベロンベロンに酔っぱらった伊藤は玄関でぐにゃんと座り込む。
「……伊藤さん、立てますか?」
ひとまず、ぐいぐい腕を引っ張ってみるも、伊藤は全然動けない。
「うへへぇ」とだらしなく笑い、にやけた顔が宇佐美を見上げた。
「おめでと〜ウサミッチ。俺は君が好きで良かったよぅ……」
何やら小声でぶつぶつ呟いているが、声が小さすぎて聞こえない。
伊藤は、相当ご機嫌だ。
宇佐美は彼が酔っぱらったザマを、初めて見た。
悪酔いするタイプだったのか。あまり飲ませてはいけないタイプだ。
ともあれ、いつまでも玄関先に放置というわけにもいかず、宇佐美は伊藤を担ぎ上げる。
伊藤は案外軽かった。
馬原が親切に家まで連れてきたのも判る気がした。

馬原に言われたとおり、ベッドに寝転がせてやる。
正体なく横たわった伊藤は幸せそうな笑顔で、むにゅむにゅクチを動かした。
まだ何か、言葉にならない言葉を呟いているのか。
二次会と言っていたから、飯は食ってきたのであろう。
なら、このまま寝かせてやってもいいはずだ。
そっと身を翻した宇佐美の服の裾を、誰かがぎゅっと握ってくる。
いや、誰かなんて暈かさずとも、この部屋には伊藤と宇佐美の二人しかいない。
「伊藤さん……?」
起きているのかと振り返り、宇佐美は伊藤の顔を覗き込む。
伊藤は、にまぁ〜と笑い、こちらを薄目で見つめてきた。
また何かクチを動かしているが、小声すぎて聞こえない。
顔を近づける宇佐美に対し、伊藤の動きは迅速であった。
あっと思う暇もなく、宇佐美は伊藤に組み敷かれる。
驚く暇もあらば、のし掛かってきた伊藤が呟いた。
「ウサミッチ……愛してる」
全面真っ赤で、どう見ても泥酔していますといった顔が、ぐんぐん近づき、何をしようとしているのか判らず困惑する宇佐美の唇に伊藤の唇が重なった。
重なったばかりではない。
唇をこじ開けて、伊藤の舌が中に侵入してくる。
口の中の空気を激しく吸われた。
伊藤の酒臭い息が己の息と混ざり合い、宇佐美の口内に充満する。
匂いと味だけで酔っぱらってしまいそうだ。
長らく無理矢理キスされながら、宇佐美は、ぼんやりと考える。


人は何故、誰かを好きになるとキスしたがるのか――?


ドラマでもゲームでも、そうだ。必ず恋人同士はキスをする。
キスしない恋愛ものなど、この世で見たことがない。
誰かを好きになったことのない宇佐美には、そこが理解できなかった。
クチとクチをつきあわせたからって、それが何になる。
DNAが子孫を残せと命じるのであれば、唇を併せる必要などない。
犬猫獣の生殖行為を見てみよ。
彼らがキスしている現場など、あっただろうか。
ネットで検索してもみたが、明確な答えは導き出されなかった。
ただ、『したいからする』のだと、誰もが回答していた。
納得いかない。
したいからするという感情が発生する原因を、宇佐美は知りたいのに。
寝取られ系マンガなどで見かける初めてのキスなのに、という表現もだ。
初めての相手が好きな相手じゃなかったからって、そこまで落胆する意味が判らない。
人類の歴史における儀式めいたものなのだろうか、キスとは。
初めてといえば、これも初めてのキスだ。
宇佐美にとって。
別に落胆したわけではないが、こんな無理矢理な形になるとは思ってもみなかった。
もっと言うなら、誰かと自分がキスする自体が予想外だった。
自分は一生、誰も好きにならないし、誰とも恋愛しないと思っていたのだから。
伊藤の事は好きだ。好きになった。
しかし恋愛として好きなのかと問われると、今でも首を傾げてしまう。
彼のために役に立ちたいと考えた事はあっても、肉体的に何か――そう、例えば性行為をしたいと思ったことは一度もない。
今、こうしてキスをかわしているのも不思議な気分であった。
嬉しいとか気持ちいいといった感情は全く沸いてこない。
しかしながら嫌だという感情も、宇佐美には沸かないのだった。
目を開いたまま、伊藤のされるがままになっている。
伊藤は正気なのか泥酔中なのか、なかなか離れてくれない。
のし掛かっていたはずが、今は宇佐美にしっかと抱きついていた。
担いだ時は軽いと感じたのに、乗っかられると意外や重たい。
息苦しいのは伊藤の体重のせいか、それとも唇を塞がれているせいか。
――不意に宇佐美の頬を、ぽろりと涙が伝い、ハッとなった様子で伊藤が身を起こす気配を感じた。
「……ご、ごめん。嫌、だよね、こんなの……」
同時に小さく呟く伊藤の声が聞こえてきて、いつの間に正気を取り戻したのだと宇佐美は驚いた。
伊藤の様子もだが、自分の頬を伝った涙にも驚いていた。
なんで自分は泣いているのだろう?
嬉しいわけでも哀しいわけでもないのに。
自分でも訳がわからない涙に宇佐美が動揺している間にも、伊藤の気配が、どんどん離れていく。
「ごめん……外で頭を冷ましてくるよ……」
小さく呟かれた言葉が、あまりにも弱々しくて、ハッと我に返った宇佐美が見たのは、どこかへ行こうとする伊藤の背中であった。
こんな時間、深夜を過ぎた真夜中に、どこへ行くのだ。
待って下さいと呟いたつもりだったが、声が声にならず、宇佐美は二、三度咳き込んだ。
酒の味のせいだ。
普段全然飲み慣れていないから。
ゴホゴホしているうちに玄関の扉が開き、そして閉まる音も聞こえて、ようやく咳が収まり、身を起こした宇佐美が玄関を開いてみる頃には、伊藤の姿は何処にも見あたらなかった――

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