act1-5 閉ざされた世界へ
ユニウスクラウニ南米支部では、夜が更けても戦いは続いていた。リーダーのアッシュが抜けても戦力の低下はない。
元々、いてもいなくても、変わらないのである。
彼がリーダーとしての義務を殆ど放棄していたので。
下位兵士は思うがまま、好き勝手に連邦軍兵士とやりあっている。
アッシュ不在の間は、アユラが司令塔を守る立場にある。
その彼女もまた、司令塔を留守にして、連邦軍兵士と戦っていた。
七対一。
数の上では限りなく不利にあるはずの少女だが、余裕の顔色を保っているのは彼女のほうであった。
「あはははは!当たらないよ!それで、狙ってるつもり!?下手くそッ!!」
周囲をぐるりと囲まれている。
それでいて、一度も銃が被弾しない。
ガサッと背後で物音。
続いて飛んできた何かに対し、アユラは一歩も動かない。
当たるかという寸前、彼女の体がグニャリと変形し、飛んできた銃弾を素通りさせた。
「くそ、バケモノめ!」
誰かの舌打ち、思わず呟いた独り言へ向けて、アユラの腕が伸びる。
草を何本か薙ぎ払った腕は惜しくも草むらの襲撃者を逃したものの、赤い飛沫を飛び散らせた。
「ふふん。草陰でコソコソ狙い撃ちしかできないくせに、大きな口をきかないでくれる?」
弱っちぃ奴らだ。
人数に任せ、影からコソコソ銃を撃つしか取り柄がないと見える。
こんな奴らに父も母も怯えて暮らしていたのかと思うと、腹立たしくなった。
もっと早く、リーガルと出会っていれば良かった。
そうすれば両親も死なずに済んだだろう。
いや、初めから反撃すればよかったのだ。
戦おうと思えば、戦えた。
能力者狩りだって全部倒してやれたのに、あの二人は最後まで力を使うなと懇願した。
能力者ではなく一人の人間として生きろと言い残し、死んでいった。
馬鹿馬鹿しい。
特異な能力を持って生まれてきてしまった以上、平穏な暮らしなんて出来ない。
能力を持たない人間が、そういう世界にしてしまったのだから。
再び飛んできた銃弾を巧みに変形して避けると、アユラは自分から攻撃に出た。
腰に捻りを加え、一気に放す。
目にも止まらぬスピードで上半身が飛んだ。
勢いに乗ったアユラの頭は草むらに飛び込み、銃を持った男の腕を食いちぎる。
「グキャァ!」
叫びを耳に残し、続いて側にいた兵士の足を、しなる腕で叩いてやった。
ごきりと嫌な音がして、兵士が足を押さえて蹲る。
馬鹿め、頭が無防備だ。
間髪入れず、アユラは男の頭に肘を入れた。
骨のひしゃげる感触が伝わってくる。
間違いない、今の一撃で兵士の頭蓋骨は陥没した。
「お前らなんかに殺されるマヌケが、いるもんか!あははは、あはははは!!」
残った兵士達も一斉に銃を撃つが、やはり少女には一発も当たらない。
そればかりか変幻自在に伸びてくる腕の反撃に、一人、一人と地に倒れる。
戦場は、すっかりアユラの一人舞台と化していた。
降下部隊が、南米支部の攻略に失敗しつつある頃。
「高峰アヤさんの証言によると、ユニウスクラウニの本拠地は巨大な移動要塞だとか」
マッド=フライヤーは特務七神専用に割り与えられた部屋で、神矢倉の報告を聞いていた。
神矢倉一朗。
『セブンゴッド』のメンバーの一人であり、能力者でもあるという。
彼だけではない。
セブンゴッドのメンバーは一人残らず、特異な能力の持ち主であった。
連邦軍の中に能力者がいたことは、無論ショックだ。
しかしユニウスクラウニとの戦いが長引いている以上、これもやむなしの配慮だとも考えた。
目には目を、歯には歯を。
そして能力者には能力者を――という事なのだろう。
同じ能力者を殺すことに抵抗はないのか?と尋ねたところ、七人は揃って首を振る。
我々と彼らは同じではありません。
そう答えたのは、神矢倉と共に戻ってきた神宮紀子であった。
我々は能力者ではなく、一人の人間として生きたい。
だから連邦軍に力を貸すのです。
そう言い切る彼女からは、確固たる信念を感じた。
少なくとも、七神メンバーはユニウスクラウニを同志と見てはいない。
彼らにとっての仲間とは連邦軍の兵士であり、能力を持たない非力な民間人なのだ。
「向こうには、こちらの探知機をごまかす能力を持つ者がいるそう……です」
自信なさげに呟いたのは、最後に合流した七神のメンバー。
名を一之神舞。
一見した処、ジンよりも年下に見える。
小柄で、病的に白く、細い手足をしていた。
艶やかな黒髪を三つ編みにまとめあげ、軍服ではなく白いブラウスに身を包んでいる。
軍隊にいるよりも図書館で本でも読んでいた方が、お似合いな印象を受けた。
それにしても女子供の多い部隊だ、とマッドは内心溜息をつく。
能力者といってもピンキリ、全ての者が戦える能力を持っているとは限らない。
この部隊でユニウスクラウニ相手に、一体何処まで戦えたものやら。
「――で、フライヤー大尉。飛行部隊の出撃要請は、どうなりましたか?」
神宮に尋ねられ、我に返ったマッドは即座に頷いた。
「あぁ、すでに手配されている。カミヤグラ、君の情報を元に大まかな場所を割り出した後、速やかに出撃するそうだ」
「ヘェ、お堅い上層部にしては随分早く動いたじゃん」
軽口を叩くジンを睨み、マッドが言う。
「奴らの本拠地が標的なんだ。迅速にもなるさ」
あぁ、それと、と彼は続けて七神メンバー全員を見渡した。
「我々も、状況次第によっては出撃命令が下るかもしれん。各自準備は怠るなよ」
「了解です」と敬礼したのは、神太郎と神矢倉、それから神宮ぐらいで。
あとはヘーイとかホイとか無言とか、それぞれに適当な返事が返ってきたのみだった。
マッドが部屋を出ていった途端、神女が神宮に走り寄ってくる。
「ねぇ、ねぇ!ノリコは、どう思う?」
「何を?ユニウスクラウニの移動要塞か、それとも」
「決まってるじゃん!新しい司令のコト!カッコイイよね!」
やれやれ、と神宮は肩を竦めた。
若い神女の頭の中身は、いつもこればかりである。
前の司令官に対しても、外見で評価を下していた。
セブンゴッドが結成されて以降、マッドで司令官を迎えるのは三人目になる。
誰もがセブンゴッドの司令塔になることを嫌がった。
さもあらん、連邦軍の敵は能力者である。
その能力者が部下になるのでは、嫌がるのも当然だ。
それに、この部隊。
特務と言えば恰好良いが、要は目には目を、歯には歯を、毒には毒を当てるつもりで集められた、いわば捨て駒部隊である。
捨て駒の司令官などに収まったところで、到底出世は見込めまい。
だから一人目も、そして二人目も、丁重に司令官の座を辞退した。
そもそも何故、能力者である神宮達は連邦軍に志願したのか?
実は彼女達、さる貴族の子息なのである。
高い身分に生まれていながら、同時に厄介者でもあった。
なにしろ、人類の敵が我が子であるのだ。
無下に殺すわけにもいかず、さりとて家に置いておくわけにもいかず。
その末、命と引き替えに己の身を軍隊へ預けた。
いや、親の命令により強制的に預けられた。
家族が無事生きてゆける安全と引き替えに、軍の捨て駒になると約束させられたのだ。
人身御供であった。だが、彼らは承諾した。
家族の保護なくして、今まで生きてこれた保証などなかった。
これまでの恩返しのために、入隊したのである。
「私は高く評価するよ。あぁ、勿論シーナのように外見だけの判断ではなくて」
髪を撫でつけ、神宮が答える。
嫌味を言われ、ぷぅっと神女は頬を膨らませた。
「私達が能力者と知っても嫌な顔一つしない。あの人こそ真の軍人だ」
すぐに同意したのは、神矢倉だ。
「飛行部隊を動かした件については、僕も評価したいですね」
「そうだな」
神宮も頷き、彼の去った戸口へ尊敬の眼差しを向けた。
「伊達に大尉ではない、ということだ」
「あの人、きっと現場叩き上げの軍人さん……ですねぇ」
ぽつりと呟いたのは、舞だ。
うっとりと夢見る表情で、天井を仰ぐ。
「……太い二の腕、盛り上がった胸板……ハァハァ、きっと下の方も逞しいのでしょうね」
乙女ちっくに両手を組んでいるが、やたら鼻息が荒い。
よく見りゃ口元からは涎が垂れていた。
「下も凄かったよ!」
間髪入れず神女が叫ぶ。
「おっきくて太くて!」
「まぁ……わたくしも、見てみたかったです」
下品な会話で鼻息荒く盛り上がる女二人に、神矢倉が肩を竦め、神宮は呆れ顔で窘める。
「全く、君達は……たまには内面で相手を評価してみたら、どうなんだ?」
少し離れた場所まで椅子ごと移動してから、神太郎も会話に加わった。
「内面で評価しろと言うのであれば、あの男は出世欲が全くないと考えるべきだろう」
「でも、大尉なんだぜ?そこそこの欲は、あるんじゃないの?」
横合いから、ジンが突っ込む。
眼鏡の奥でジロリと睨み、神太郎は続けた。
「断ろうと思えば、いくらでも断れた。それをしないというのは、大尉以上になる欲がないということではないのか」
「或いは、常に最前線で戦いたいのかもな。前は降下部隊の隊長だったんだろ?」とは、神宮。
「あの若さで大尉になるぐらいだ。さぞ多くの能力者を葬ってきたんだろうよ」
「あの若さって、いくつだよ?あのオッサン」
尋ねるジンを一瞥し、彼女がポンと手渡してきたのは分厚い資料。
連邦軍兵士が軒並み掲載されている、名簿であった。
「たまには仲間についても調べておくといい。元気君、来週の誕生日プレゼントは何がいい?」
ギクッと身を震わせ、慌ててページを捲るジン。
神宮は、くすりと微笑んだ。
「大尉の年齢は三十七、私より一つ年上だな。君の誕生日は来週の月曜日。ちゃんと覚えたよ」
出ていく神宮を目で見送り、ずっと蚊帳の外だったアリスが呟く。
「神宮さん、フライヤー大尉に興味を持ったの。彼女でも男性に興味を持つものなのね」
「まぁ、連邦軍には珍しく優秀な方のようですから」
神矢倉は眼を細めて微笑んだ。
「あなたは、誰にも興味を示しませんよね。大丈夫ですか?皆と一緒にやっていけますか」
ちら、と神矢倉を見上げて、アリスが頷く。
「大丈夫。任務の時は、皆に併せるから」
数時間後、軍は俄に慌ただしくなる。
ユニウスクラウニの本拠地が割り出せたと同時に、彼らの目的地も判明したのだ。
特務七神にも、もちろん出撃要請が下された。
行く先はバミューダ海域にあるとされる、通称”閉ざされた空間”――
肉の塊を蹴っ飛ばし、アユラはペッとツバを吐く。
「もう終わり?なぁんだ、つまんないの」
降下部隊の半分以上を、彼女が一人で仕留めていた。
足下に転がるのは、かつて連邦軍の兵士だったもの。
もはや肉体は原型を留めていない。
アユラの腕で切り裂かれ、歯で食いちぎられ、ズタズタにされた。
青々とした草木は、すっかり赤に染まっていた。
能力者達の攻撃は、原始的だ。
特にユニウスクラウニのメンバーで銃を使う者は、ほとんどいない。
己の能力に自信があればあるほど、武器など使わない傾向にある。
アユラも自信のある能力者の一人で、彼女の能力は体の硬度を自由に変化させること。
双子の妹ファニーも似たような能力を持っているが、アユラの能力とは決定的な違いがあった。
アユラの場合、鞭のように弾力を増すこともできれば、水のように物を通過させることも可能だった。
ファニーに透過の能力はない。
そこが姉と妹の大きな違いである。
アユラには、銃もナイフも通用しない。
全てが擦り抜けてしまう。
従って降下部隊が全滅したのも、当然といえば当然の結果であった。
ピピ、と小さな電子音が懐で鳴り、彼女は通信機を耳に当てる。
「はい、アユラだけどー。何?どしたの?リーガル。そんなに慌てちゃって」
通信の向こう側、ユニウスクラウニの総司令リー=リーガルは、やたら切羽詰まった声で叫んで寄越した。
『アユラ、今すぐ戻ってこい!閉ざされた空間の正確な場所が判った、今から突入する!!』
「へ?例の異次元ってやつ?それなら、あんた達だけで充分でしょ?」
『連邦軍に見つかった!攻撃を受けている、これよりクラウニフリードごと次元転移する!!』
「見つかった?連邦軍に?うそ、だってサリーナが探索を邪魔してるって」
『奴らも正確に、こちらの艦を見つけた訳じゃない!だが、大凡の目安で攻撃している!』
クラウニフリードが直接発見されたのではなく、大まかな飛行範囲が割れた、ということか。
しかし、それにしても。
今まで見つかりもしなかったのに、何故急に?
アユラが尋ねると、リーガルは舌打ちしてから答えた。
『脱走者がいたんだ。情報は、そいつから漏れたものと思われる』
「ハ?脱走者?」
――不意にキュイン、という音が耳に響き、アユラは驚いた拍子に通信機を落としてしまった。
「きゃ!」
慌てて音のほうへ振り返ると、銃を構えた人物が目に入る。
服装まで確認する必要は、なかった。
自分へ向けて銃を撃ってくる者など、断じて味方ではない。
「……まだ生き残りがいたんだね!不意討ちしかできない、ゴミヤローが!!」
怒鳴ってから、気づいた。
相手は女だ。しかも、全裸である。
キッとつり上がった瞳に、黒い髪。
どこかで見た覚えがあると思えば、あの資料じゃないか。
連邦軍の降下部隊兵士。
名前は確かナントカ、タツキ?
そいつが震える手つきで銃を構え、アユラに照準を合わせている。
「なんだ、女じゃん。あのさ、あたし達には、女を殺さないってルールがあるんだよね。だから、とっとと逃げてよ。そんで、その辺で救助信号でも出しててくれる?」
哀れみを込めた侮蔑の眼差しで見下してやると、タツキは凄味を帯びた低い声を吐き出した。
「……殺してやる……殺して、やるッ……!」
「ハァ?殺す?あんたが、あたしを殺す?あはははは!笑わせないで!!」
タツキは足下がフラフラしているし、対してアユラは一つも傷を負っていない。
どちらが有利か、なんて聞くまでもない。
しかし彼女が全裸で現れたのは、誰かの種付けが完了したことを意味している。
できることなら、殺したくはない。
タツキには、能力者の子供を産んでもらわねば困るのだ。
嘲笑するアユラを、タツキが血走った目で睨みつける。
「殺して……やるッ!!」
地面に落とした通信機からは、リーガルの怒鳴り声が聞こえた。
『あと五分で戻ってこい!五分以上は待っててやれないぞ!!』
「判った!すぐ終わらせるから、ちょっと待ってて!!」
怒鳴り返し、すぐさまアユラは能力を発動する。
五分以内で片をつけるのは簡単だ。
一分でも充分なぐらいだ。
腹でも殴って――いや、腹はマズイか。
では頭でも殴って、気絶させてやるとしよう。
グニャグニャと形を変えて、アユラの腕が、ひゅん、と唸りをあげる。
タツキの腕がピクリと反応し、夜の空に銃撃が轟く。
銃弾が当たるよりも先にアユラの腕がタツキの後頭部を勢いよく殴りつけ、勢い余って脳髄を飛び散らせた。
閉ざされた空間。人は、その異世界を、そう呼んだ。
いつの頃からだろう。
閉ざされた空間にも、能力を持つ者が住むと噂されるようになったのは。
ユニウスクラウニも、そして今は連邦軍も欲しがっている能力者。
絶対、相手には渡してはならない。
万が一、相手の手に渡ってしまうようなら、彼らはお互いに、空間の破壊も考えていた。
その空間は、ずっと前から、そこにあった。
いつからあったのか。
そして、この空間における年代は地球暦に換算すると、いつなのか。
それは誰にも判らない。
空間に住む者さえも、知らなかった。
ただ、空間にも地球と同じように人が住み、暮らしていた。
彼らは何故、自分達が、その空間に住んでいるのかなど考えたこともないだろう。
そこにいるのが彼らにとっては当たり前であり、その空間が生活の全てなのだから。
青い海に、青い空。
白い砂浜が見える絶好の場所に、その店は建っていた。
サーフボードを模った看板には『サーフィンショップ・ヒーロー』と書かれている。
「――遅れてすいませんッ、マダム!」
慌ただしく駆け込んできた青年に、老輩の女性が顔をあげた。
彼女は店の奥で新聞を読んでいたのだが、立ち上がると、沸かしていたポットの火を止める。
壁に掛かった時計を見上げた。
「十二分の遅刻ね。この程度なら、気にすることもないわね」
穏やかな声に、ゼェゼェ、と息を切らしていた青年も顔をあげた。
シン=トウガ。
この店にバイトとして通うようになってからの日は浅い。
まだ若い。
年の頃にして、二十歳かそこらに見える。
褐色に焼けた肌は、さすが海沿いの店に勤めているバイトだけはある。
だが、髪は根元から真っ白に染まっていた。
髪の毛だけではなく、眉毛も真っ白であった。
マダムと呼ばれた老女よりも、白いのではなかろうか。
白髪よりも眩しい白をしていた。
「す、すいません。明日は、遅刻しないよう心がけますんで」
「だから、気にしなくていいのよ?シン」
老女に背中を優しく撫でられて、シン青年の頬が赤く染まる。
「い、いえ!バイトが遅刻するなんて、社会人としてなっていませんから!!こんなんじゃ、アックスさんの代わりになんて、なれそうもありませんよ」
海に憧れる青年達にとって、このサーフィンショップは、ちょっとした有名スポットだ。
海沿いに建つサーフィンショップは、何も此処だけではない。
それでも、この店が有名なのは、この店を建てたのが海の英雄と呼ばれる男だったからだ。
アックス=サーランサー。
海に潜む怪物を、幾度となく撃退したとされる伝説のサーファーである。
三回度の、あの日。
怪物と相打ちになり、消息を絶った。
海の底に沈んだとも推測されているが、定かではない。
シンも彼に憧れて、この店のバイトを希望した。
アックスが消息を絶つ前に採用され、怪物との対決を彼の妻ジェイミーと共に見届けた。
波にさらわれ、あの日を最後に英雄アックスは行方不明になった。
それでもマダムジェイミーは彼の帰りを待ち続けている、今もずっと。
「あの人の代わりになるなんて、誰にもできないわ。シン、あなた、もしかして怪物と戦おうなどと考えているのではないでしょうね」
じっと見つめられ、シンは視線を逸らす。
しまった。つい、うっかり心の内を漏らしてしまった。
軽率な一言だったと気づき、彼は赤くなる。
英雄の代わりになりたい。
それはシンにとって本音そのものだが、意味はマダムが受け取ったものとは微妙に異なる。
もちろん海の怪物を倒すのは、この場所に生まれたサーファーにとっての夢である。
だが、それよりも。
この店を、マダムと一緒に守る。
そのほうがシンにとっては大事だった。
彼はアックスの代わりとしてマダムと一緒になりたいと、夫婦になりたいと願っていた。
アックスを通じてジェイミーと顔を合わせるうちに、シンは、どんどんジェイミーを好きになった。
穏やかで優しくて、でも時には厳しい一面も見せてくれる。
母親のようでありながら、恋人のような身近さがあった。
彼女の地味な風貌も、却ってシンを安心させる。
元より、派手な女性は好きではない。
親子ほど歳が離れていようと関係なかった。
彼女を、自分のものにしたい。自分だけの、女に。
だが――ジェイミーの心には、いつまでもアックスの面影がある。
英雄が本当に死んだと判るまで、彼女の心を自分に向けることは出来そうになかった。
そこまで待てる自信が、シンにはない。
いや、その前にジェイミーが寿命で天に召されることも考えられる。
彼女はけして、若くはないのだ。
彼女の心を揺り動かすには、アックスよりも自分の方が頼れる、いい男だとアピールする必要がある。
その良い土台が、海の怪物であった。
あれを完全に倒せば、マダムもシンを一人前の男として見てくれるかもしれない。
或いはアックス以上の勇者として、惚れてくれるかも。
そんな妄想を抱いた。
怪物が、いつから、この近辺の海に住み着いたのかは誰も知らない。
気づいた時には、すでに被害が出ていた。
サーファーが、丸ごと飲み込まれる事件。
海水浴に来ていた家族が一組、食べられるという事件もあった。
海の怪物は、怪物に相応しく凶暴なのだ。
図体は大きく、大型漁船ぐらいの幅がある。真横に、ぎょろりと目がついていた。
口の中には、みっちりと歯が生えそろい、一度飲み込まれた者は二度と助からない。
これまでに二度、アックスに撃退されている。
アックスほど、波に愛された男はいまい。
彼はサーファーとしても一流であった。
華麗にサーフボードを操り、巧みに怪物の一撃を避け、ボードで怪物の顔面に着地した。
何度もボードで叩かれて、終いには怪物のほうが音を上げ、逃げ去ったのだ。
老体でありながら武器を使わず怪物を追い払ったことで、アックスは一気に英雄へ祭り上げられた。
『サーフィンショップ・ヒーロー』も繁盛し、二人は幸せなまま隠居できるかと思われたのだが、三度目の戦いを最後に、マダムの心から幸せは奪われてしまった。
いつ帰ってくるとも判らない夫を待って、一人寂しく死んでいくなんて悲しすぎる。
シンは、なんとしてでも彼女を幸せにしてやりたかった。
それが行方不明となったアックスへの、雇ってくれた恩返しにもなると考えて。
「あ、はは。まさかぁ。俺はサーファーとして、まだまだですから。怪物と戦うなんて、できませんよ。無理です、無理」
引きつった苦笑を浮かべるシンを見て、マダムはやっと安心してくれたようだった。
もう一度、彼の背中を優しく撫でると、窓の外を見た。
「今日も、いいお天気ね。お客さん、たくさん入るといいんだけど」
昼になり、メシを食べてきますと言い残して、シンは外に出た。
良い天気だ。
客もひっきりなしに現れては、サーフボードを買い換えたり新品を購入していく。
この界隈は、天気が崩れることなど滅多にない。
シンが覚えている限りでも、これまでに天気が大きく崩れたのは三度だけ。
海の怪物が、砂浜近くに姿を現した時だ。
あの怪物と天候が、どう関係するのか。
少し興味を引かれるが、或いは全くの無関係かもしれない。
よく雨女なんて呼ばれるのがいるが、海の怪物も、その類なんだろう。
マダムには退治なんて、まだ無理だと言って誤魔化した。
だが、シンは実のところ、サーフィンに関しては、かなりの自信がある。
今、怪物が現れたとしても、戦える自信があった。
それを正直に言えば、マダムは心配してしまうだろう。
あの人に限って言えば、心配しない方が嘘だ。
とても優しい人なのだ、心配しないわけがない。
もし自分がうっかり怪物にやられたら、マダムは今度こそ本当に一人になってしまう。
戦うわけには、いかなかった。
彼女に早く、男として認められたい。
しかし、その為に怪物と戦うのは駄目だ。
四方を高い壁で囲まれた行き止まり思考に、シンは腕を組んで考え込んでしまう。
マダムは恐らく、シンのことを息子程度にしか思っていまい。
男としては、見ていない気がする。
なにしろシャワーを被った後にパンツ一丁でブラブラしていても、軽く窘められる程度だ。
赤くなって、キャッと顔を覆ったりはしない。
完全に家族だと思われている証拠だろう。
家族として信用されているのは嬉しいが、どうせなら息子ではなく夫になりたかった。
無理矢理犯してしまえば、どうだろう。
そんなことまで考えた。
マダムをオカズに、自慰行為に励んだ日も少なくない。
だが無理矢理犯すには、経験も勇気も足りなかった。
シンは今年で二十四歳になる。
女性と肉体関係に及んだことは、生まれて一度もない。
妄想はできても、実際には手を出す方法すら思いつかなかった。
嫌われたくない、という気持ちもある。
陵辱などしたら、マダムは一生口をきいてくれなくなるだろう。当然だが。
「……あーっ、もう!」
グダグダと女々しく考え込んでいるのも嫌になってきて、シンは大声で叫び空を仰いだ。
同時に、正面から「わっ!」という声がして、誰かと勢いよくぶつかった。
「あ、わ、悪い!」
慌てて正面を振り返ってみると、自分と同じぐらいの年頃の青年が尻餅をついている。
この界隈では、見かけない顔だ。
それにしても衝突するほどの距離まで、いつの間に接近されていたのだろう。
さっきまで、この通りを歩いているのは自分と数人のサーファーぐらいだと思ったのに。
「ごめん、大丈夫か?」
手を伸ばすと、青年はニッコリ笑って掴まってきた。
「んー。平気!がんじょいからね、俺はー」
立ち上がり、ニコニコと微笑んでみせる。
よかった、大して怪我もなさそうだ。
「悪い、ホント、ぼーっとしてて」
謝りながら、シンは彼をジロジロと観察する。
少なくとも彼は地元の人間じゃない。
ここまで鮮やかな赤い毛など、一度も見た覚えがない。
サーフボードを持っていないから、サーファーでもないだろう。
かといって海パンも履いていないから、海水浴にきたってわけでもなさそうだし……
じゃあ、観光?
でも、こんな海しかない場所を観光?
「あ、えっとね」
シンの視線に気づいたか、青年が少し照れたように尋ねてきた。
「この辺でさ、変な力を使う人、見たことない?」
「変な力?」
おかしなことを聞かれ、シンの眉が怪訝に潜められる。
奇妙なことを言っているという自覚がないのか、赤毛の青年はニコニコと頷いた。
「そう、変な力。えっと、例えば炎を出したりとか……んー平たく言えば、能力者?」
「能力者?……えーっと、何?それ」
「え?」
炎天下の中、じっと見つめ合う二人の青年。
一人は眉を潜め、もう一人は困った顔で。
「……あ、うん。今のナシ。うん、忘れて?」
しばらく経って赤毛が発言をうやむやにしてきたので、おずおずとシンも頷いた。
彼としても道の往来で、いつまでも時間を取られている訳にはいかない。
さっさと昼食を取って店に戻らないと、マダムに心配をかけてしまう。
「あ、そう。じゃあ」
素っ気なく答え、くるりと踵を返す。
追いかけてくる足音に、シンは振り返った。
赤毛の青年がついてきている。
同じ方角に用でもあるのかと思えば、彼はシンへ、にこやかに話しかけてきた。
「あのね、ね。俺、迷子になっちゃったみたいなんだ」
「えぇ!?」
この上、まだ妙な事を言い出すというのか。
しかも自分と似たような歳して迷子とか。
迷子だという自覚があるなら、交番にでも行けばいい。
「あ、俺、アッシュ!アッシュ=ロードっていうんだ。キミは?」
心なし、シンの歩く速度は速くなる。
黙々と走るシンを、アッシュが追いかけてきた。
嫌がっているんだという空気は、どうやら彼には伝わらなかったらしい。
「ねー、名前教えてよ。キミの名前〜」
「……シン」
「えー?シン、なに?」
「シン、トウガ!」
かなり乱暴に答えたというのに、アッシュが怯えた様子はない。
「んー、わかった。シン=トウガだね。ねぇねぇ、シンはドコ行くの?」
あぁ、もう、鬱陶しい。
大体、初対面だってのに、なんで、こんなに馴れ馴れしいんだ?こいつは。
シンは足を止める。交番の場所でも教えてやろうと、振り返った。
その時であった。
海の方角から、「で、でたぁッ!怪物だ、海の怪物が、来たぞぉぉ!!」という叫び声が響いてきたのは。
急速に天候は崩れ、真っ青に晴れていた空には雨雲が広がってくる。
やはり海の怪物は、雨女ならぬ雨怪物なのだ。
怪物を見物に行く気になど、ならなかった。
見に行ったところで、戦うつもりもない。
ただ、不意にマダムの顔を思い出した。
彼女が妙な気を起こして、見物に行ったりしなければ良いのだが。
シンは店に向かって走り出し、アッシュも慌てて後を追いかける。
暗く淀んだ空からは、大粒の雨が降ってきた。