喉の奥がひりつき、腹の底が苦しい。
本来は身体に良いはずのものが、劇薬の如し威力だ。
薬師は、この世界の要だ。
薬師なき世界では、茶焙師も商人も意味をなくす。
俺達衛士も薬師を守るために生まれた存在だ。
薬師の作る薬は彼らの体液そのもので、茶葉と混ぜて飲むのが流行っている。
何故、茶葉と混ぜるのか。
今日、原液を口にして、はっきり理解した。
強すぎるのだ、効力が。
だから気を利かせた薬師の誰かが、茶葉と混ぜようと考えたに違いない。
腹の底から迫り上がる不快が、吐き気を伴い上昇してくる。
何度も吐いた。黒く淀んだ唾液を。
これは何だ。なんで、こうも黒くなった?
最後に口にしたのはシェンフェンの涙で、それ以降は何も食べられずにいる。
食べようとしても飲み込めない。身体が拒絶する。
痛みを少しでも和らげるには、黒くて濁ったものを出さなきゃいけない。
床のあちこちに染みを作っているのが、そうだ。全部俺が吐き出した不浄の唾液だ。
この、黒くてドロドロした液体を見ていると、坏人を思い出す。
奴らは形状をなさない黒い煙でありながら、そのくせ手痛い攻撃を仕掛けてくるんだ。
あいつらは何処から生まれてくるのか。
発掘所の最深部にある扉を開いてくるんじゃないかと役人は推測していたが、それなら奴らは発掘所を根城とするはずだ。
役割をなくしたものは、無に還るか消滅する。それが世界の理だ。
だが――禁忌を犯すのは、役割を果たさなかった時だけとは限らないのではないか。
ちょっとした好奇心で身を滅ぼした奴も、いるんじゃなかろうか。
今まさに、この俺がそうだ。好奇心で身を滅ぼそうとしている寸前じゃないか。
熱い、痛い、耐えられない。
身体の奥からくる痛みと比べたら、坏人の攻撃なんか比べ物にもなりゃしない。
異常が起きた時こそ薬の出番だというのに、薬を置いた棚の、なんと遠いことか。
「う、ぐぅぅ」
助けを呼ぼうにも言葉が紡げない。出るのは苦悶の唸り声ばかりだ。
せめて隣に住むシェンフェン、彼が早くに気づいてくれたなら。
俺は衛士のまま、活動できたかもしれない。
もう駄目だ。
視界は薄れ、自分の身体が自分のものではなくなっていく感覚がある。
唾液だけではなく、全身が黒い汚らわしい何かで覆われていく感触――
🌔
『緊急事例、緊急事例!衛士は全員、直行せよ!場所は月路地!場所は月路地!繰り返す!衛士は全員直行せよ!場所は』
真夜中に突如響き渡った大声で叩き起こされて、僕は文字通り飛び起きた。
なんだ、なんなんだ?初めて聴いたぞ、こんな注意警報。
月路地ってのは僕が住んでいる、この一帯を指しているんだけど……
衛士が全員駆けつけなきゃいけないような事態が、ここら辺で起きたってこと?
もしかして、坏人が誰かを襲ったのかも。
僕は怖くなり、布団を頭からかぶってブルブル震える。
何が起きているのか確かめたい気持ちはあるけど、うっかり窓から覗いて坏人と目があったりしたら、どうしよう。
坏人についてはヨーヨーセンやニィカフェカから多少は聞いて、知っている。
彼らは全身真っ黒に煤けた、煙みたいな存在だ。
自由自在に体の形を変えられるから、衛士の持つ剣か商人の売り物にある粉末砲、或いは机器人しか坏人を攻撃できないんだ。
僕ら薬師と茶焙師は、どれも持っていないから、戦うすべがないってわけ。
夜は厳重に戸締まりをする。そうすれば坏人は入ってこられないんだと、ユェンシゥンが言っていた。
でも夜は大概、どの家も戸締まりするよねぇ。
それでも被害が出るってのは、どういうことなんだ。
好奇心が恐怖を上回って、つい、扉の鍵を開けてしまったとか?
まさかね……
坏人が良くないものだってのは、住民なら全員知っているはずだし。
窓の外を幾つもの足音が通り過ぎていく。
「なんてこった!グァイユェンに続いて、ユェンシゥンもかよ!」
「こうも続くとなると、呪われているんじゃないか!?月シリーズは」
なんて叫ぶ声も聴こえて、僕は布団の中で首を傾げる。
グァイユェンって誰?
それにユェンシゥン、彼の名を此処で出す意味も。
月シリーズが、この二人を指しているとして、外を走っていった衛士は何に絶望したんだろう。
衛士を全員向かわせなきゃいけないほどの大事件が月路地で起きて、衛士が仲間の名前を出して絶望する――
ま、まさかユェンシゥンの身に何か起きたんじゃ!?
居ても立っても居られなくなって、僕は布団を跳ね除けると扉へ飛びついた。
急いで鍵を開けて、外に一歩出た直後。
僕は外に出たのを瞬きのうちに後悔した。
グルルルァァァァーーーーーーーーーーーーーーーッ!
低重音の狂おしい雄叫びをあげ、月明かりを浴びて立つ大きな影。
衛士に取り囲まれても怯えを見せず、赤く輝く瞳を見開く異形。
あれは、なんだ!?
どの役割にも当てはまらない。
大きく裂けた口からは、黒くて濁った唾液が始終ボタボタ垂れ落ちている。
衛士は大勢で取り囲んでみたものの、誰も攻撃を仕掛けられずにいるようだ。
きっと彼らも初めて見た相手なんだ。
だから、どう攻撃すればいいのか判らないんだ……
赤い瞳が、ゆっくり僕のいる方角へと動いていく。
「――おい!薬師が何で外に出ている!?早く家に戻れ、逃げるんだ!」
僕に気づいた衛士の誰かが忠告を飛ばしてくれても、僕は一切動けずにいた。
足が動かない。背中を向けることすら、できない。
あぁ。
無に還っちゃうのか、僕。
こんなところで、お隣さんの安否も確認できないまま。
僕に照準を合わせた瞬間、赤い瞳が怯んだように感じたのは僕の気のせいだったんだろうか。
『シェン…………フェン…………』
くぐもった声で、ぽつりと僕の名を呼ぶと、大きな真っ黒の異形は身を翻して夜の道を疾走する。
「に、逃げたぞ!追えーッ!」
「待て、止まるんだユェンシゥン!!」
衛士の何人かが釣られて走り出し、僕はペタンと地に尻をついた。
「おい!薬師、貴様は型番種、名はシェンフェンで間違いないか!?」
駆け寄ってきた誰かが僕を助け起こしながら、耳元で怒鳴ってくる。
型番?
型番って何だ?
名前ならシェンフェンで間違っていないんだけども。
いや、それよりも。
走っていった衛士は何と呼びかけていた?
あの、黒くて大きな禍々しい異形へ向けて――