御堂順の探偵事務所

みどうじゅんの たんていじむしょ

第七話 本当のところは

光一が三階の事務室、御堂が四階へ続く踊り場で引っかかっているうちに、竜二は堂々と五階へ続くエレベーターを使い、社長室まで辿り着いていた。
奇跡的に見つからなかった、というわけではない。
廊下を走ってくる人影はトイレでやり過ごしたし、エレベーターを待つ間も空き部屋を上手く利用した。
ビルの内部を知っている人間ならではの回避方法である。
コンコンと軽くノックをすると、聞き慣れた声が返ってくる。
「なんだ?こんな時間に」
竜二は答えず、黙ってノブを回した。
鍵は、かかっていない。
音も立てずに、するりと入り込むと、前方に大きな背中が見えた。
大西敬司。
大西建設の社長にして竜二の本当の雇い主であり、尊敬する親分でもある。
「なんでェ、何の用だと聞いて――」
振り向いた大西は、そこで固まってしまう。
しばらくポカーンと大口を開けていたが、やがて大きな声で叫んだ。
「――りゅ、竜二!?おめぇ、いつ戻ってきやがったんだ!」
「戻ってきちゃあ、いけねェような言われようですね」
口元を歪めて皮肉る竜二へ近づくも、あと一歩で手が届く範囲で「止まれ!」と竜二自身に怒鳴られる。
「竜二?」
怪訝に眺めてくる大西へ、竜二は低く囁いた。
「ずっとここにいろと、あんたが言ったから俺は、ずっとここにいたんだ……だが、戻ってきやがったと聞くってこたァ、別に戻ってこなくても良かったんですね」
くるりと踵を返して出ていこうとする竜二の腕を、はっしと大西が掴んでくる。
「なっ、何をスネてやがんだ!?」
「スネてなんざ、いませんよ」と答える竜二は、振り向こうともしない。
すぐに自分の失言に気づいたか、大西が謝ってきた。
「あぁ、いや、さっきのは言葉のあやだ、あや!戻ってきてくれて嬉しいぜぇ、竜二ィ〜。おめぇがいてこその大西組だ!戻ってきて迷惑なんて思ったこたァ、俺ァ一度だってねぇよ。おめぇがいねぇ間、俺がどんなに寂しかったか判ってんのか?」
やはり竜二は振り向かないで、小さく呟く。
「今さら、おためごかしですかィ?」
「なんだ、おかめごかしって」
首を捻る大西へ振り向くと、今度は少し大きな声で尋ねた。
「御為倒し、ですよ。俺が戻ってきて嬉しいというなら何故、探しに来なかったんです?」
「探しになら、行かせただろうが」
むっとした様子で大西が口を尖らせる。
「そっちに行かなかったか?北島達がよ」
「そうじゃない」と、竜二も苛々した調子で言い返す。
「何故あんた自身が探しに来なかったのか、と言っているんです」
もはや財布奪回の件など、竜二の脳裏からは消え去っていた。
配下をおつかいによこして自分は行かなかったくせに、いざ相手が戻ってきたら都合の良い事を言う。
俺は、こんな奴を尊敬していたのか。
そう思うと、苛立ちが止まらない。
それに、悲しみもだ。
所詮自分は大西さんにとって、その程度の存在だったのか。
お前の捜索など、部下達だけで充分だ。
そう言われたら、ここを出ていこう。
出ていって、御堂探偵事務所で正式に雇って貰おう……
悲観に暮れる竜二の前で、いきなり大西が頭を下げる。
頭をさげるどころか土下座した。
これには竜二も仰天して、慌てて止めに入る。
「や、やめて下せェ、大西さん」
ヤクザの親分たる男が一介の三下如きに頭を下げるなど、やってはならない行為だ。
平伏したまま大西が詫びる。
「すまねェ、竜二!」
額を床に擦りつけ、幾度となく竜二に謝った。
「行けるなら俺自身が探しに行きたかった!だが他の奴らに止められているうちに、そのうち、俺じゃなくてもいいかな、なんて思うようになっちまった……完全に俺が悪かった!許してくれ、竜二!!」
覗き込んでみると、なんと大西は泣いている。
それも嘘泣きじゃない、真実の涙だ。
「大西さん……顔をあげて下せェ。許すも許さないも、勝手に出ていったのは俺のほうですぜ」
そっと肩に手をかけてやると、大西がガバッと顔をあげる。
「そうだ、それなんだが、おめぇはどうして突然出ていっちまったんだ!?俺が嫌いになったのか?そうじゃないよな、違うと言ってくれ!」
出ていった女房を引き留めるような言われようである。
竜二は苦笑して、答えた。
「茨城賢治を覚えておりやすか?」
「茨城ィィ〜?当ッたりめぇだろうが。おめぇに手を出そうとした、あのアホウのことは一日たりとて忘れた事なんざ、ねーよ」
途端に鼻息の荒くなった親分へ、続けて答えた。
「あいつを、窓から見かけたんです。この辺をうろついていやがったんで、目障りだなァと思いやして」
竜二にとって茨城賢治は元先輩だが、同時に組を追い出された厄介者でもある。
その茨城が大西建設のまわりをうろついているのは、あまり好ましい状況ではない。
報復のチャンスを伺っている可能性もあるし、悪い芽は早めに摘んでおくべきだ。
――そう考えて、竜二はビルの外に出た。
大西に何も言わず黙って出てしまったのは、後悔している。
だが、それ以上に彼を守りたいという気持ちのほうが強すぎた。
茨城に追いつき、うろついていた理由を尋ねた途端、殴る蹴るの喧嘩に発展し、挙げ句に負けた。
ボロ雑巾と化して路上で転がっている間に御堂順に拾われて、以下は探偵事務所へ――という訳である。
「馬鹿!ばか、バカ、バカヤロウ……」
身を起こした大西が、がばっと抱きついてくる。
竜二の背中を何度もさすって、「バカ」を繰り返した。
「おめぇ一人で勝てる相手かよ。しかも俺の為に無茶しやがって、おめぇは本当に馬鹿だ、チクショウ」
馬鹿を連呼しつつも嬉しそうな大西に、竜二の口元も自然と綻んでしまう。
「……すいません。でも、俺は」
「いいんだ、ありがとうよ。でもな、あいつのことは俺に任せておきゃ〜良かったんだ。もうちょっとすりゃあ、あいつを含めた山口組包囲網が出来上がる予定だったんだからよ」
「山口組……包囲網?」
きょとんと見つめてくる竜二へ頷くと、大西は自信たっぷり言い切った。
「そうだ。あァ、言わなかったか?あいつ今は山口賢治ッつゥんだ、五十鈴の奴と結婚しやがったのよ。でな、山口組を潰す算段を水面下で続けていたんだが、そいつがようやく形になってきたんだ」
五十鈴というのは山口組の女親分であり、大西組とは縄張り争いの件で対立している。
その山口組を叩き潰す為の策を、大西は水面下でずっと進行させていたという。
初耳だ。茨城が山口組に入っていたのさえ、知らなかった。
それならそうと言ってくれれば、竜二だって一人で先走って出かけたりしなかったものを。
竜二が文句を言うと、もう一度ぎゅぅっと抱きしめられて謝られた。
「すまん、言わなかったのも俺のミスだな。おめぇには痛い思いや苦しい思いを、させたくなかったってぇのに……」
だから、ずっと部屋に閉じこめて、作戦が無事に終わるまで出したくなかったんだろうか。
大西の優しさは、ありがたい。
だが、どうせなら、その作戦とやらに自分も混ぜて欲しかった。
「ありがとうございます、でも仲間はずれは勘弁して下さいよ。俺だって大西組の一員です。あんたと一緒に戦わせて下せェ」
竜二は、そっと身を離して頭を下げる。
彼の頭をナデナデしながら大西は満面の笑顔で頷いた。
「おうとも、判った。でないと、また、おめぇは一人で飛び出していきかねねぇからな」
一件落着した――と思ったところで、いきなり扉が激しく開く。
「たっ、大変です親分!妙な、妙な奴らが乗り込んできやがりましたァッ!!」
駆け込んできたのは若手の一人、手には木刀を持っているが途中でボッキリ折れている。
何にやられたのか額からは血を流し、服も切り裂かれてボロボロだ。
「妙な奴らァ?」と首を傾げる大西の横で「あっ!」と竜二が声をあげ、飛び込んできた手下も「あっ!」と竜二を指さして大声をあげた。
「りゅっ、竜二さん、いつ戻ってこられたんですかィ!?」
「そんなことよりも、妙な奴って、どんな奴だ?」
親分に遮られ再び、あっとなった手下の言うことにゃ。
一人は狼の皮を被った男。
もう一人は、おかしな突風を武器にするオッサンが、この事務所へ乗り込んできたらしい。
「なんだ、そりゃ?」
訳のわからないといった顔の大西に、竜二が話しかけてくる。
「大西さん、昼間、次郎から財布を預かりませんでしたか?」
「財布?財布ってな、これの事か?」
大西が懐から取り出したのは、皮の財布。
中身は万札が合計八枚、加えて銀行のカードとキャッシュカード、Suicaも。
竜二は銀行のカードを取り出して確認する。
間違いない、カードには依頼主の名前が入っている。
「この財布、他にも何か入っておりやせんでしたか」
中身を取り出して逆さにバサバサ降ってみたけれど、写真らしきものは落ちてこない。
「あぁ、写真か?そいつなら取り出して、とっくに燃やしちまったよ」とは、大西談。
「燃やした?」
オウム返しに聞き返す竜二へ頷くと、親分は肩をすくめた。
「何のつもりか知らねぇが、あんな写真をバラまかれちゃ〜向こうさんに取っちゃ困るんでね」
向こうさんというのは、この場合、財布の持ち主ではなく一緒に映っていた女優の事であろう。
一緒にいる写真を撮られて困るって事は、やはり、やましい気持ちがあったのか?
竜二の顔を見て大西が苦笑した。
気持ちが表に現われていたらしい。
「言っとくが、不倫じゃねぇぞ?ましてや密会でもねぇ、金を貸せっつーから貸してやっただけだ」
世界に名だたる有名女優なのに?
「表向きは、な。裏じゃ、あいつァ借金まみれな生活だぜ。そこをブン屋に嗅ぎつかれて、普通のトコじゃ金も借りれなくなっちまったってわけさ」
ヤクザと一緒にいたからと、あらぬ噂を立てられるのも女優としては非常にマズイ。
そうしたわけで写真を握りつぶしネガも消去しておこうと思って、非行少年達を送りつけたという次第だ。
「なんだよ、写真、燃やしちまったのかよ」
不意に戸口から声が届き、大西も竜二もボロボロの奴も一斉に振り向くと、誰かの首根っこを掴んだまま、御堂順が入ってくるところであった。
背後には狼男こと、妻賀光一の姿も見える。
ビルの壁を登ってくるとか言っていたような気もするが、堂々と廊下から入ってきた。
「おめぇらか?妙な侵入者ってのは」
尋ねる大西に、御堂が手を差し出す。
「財布、返してくれや」
話が、まるで噛み合っていない。
「そっちのやつは、カブリモノか?」
御堂の弁を無視して尋ねる大西に、狼男が答えた。
「いぃや、ホンモノさ。ま、そいつはどうでもいいから、さっさと財布を返せ」
ふぅ、と大きく溜息をつき、大西は言う。
「財布は返してやってもいい」
ちらと後ろを見てから、付け足した。
「だが俺の社員を傷つけた謝罪ぐれぇは、先に聞かせて貰いたいもんだな」
「あぁ〜判った判った、悪かったよ。あんたの部下どもを傷つけちまって悪かった!」
悪いなんて一ミリも思っていないほど、ぞんざいなノリで謝ると、御堂は再び手を出す。
「ホイ、謝ったぜ?さぁ、財布を返してくれ」
これにはボロボロにされた奴も、そして大西の腹も収まるはずがなく、場がピリピリしかけた処へ竜二が水を差した。
「あの、俺も謝ります、すいません大西さん。ですから、彼らに財布を返してあげちゃくれませんか?」
「彼らって、おめぇは、こいつらが何者か知ってんのか?」
言われて、もう一度、竜二は二人を振り返る。
……なるほど。
一人は帽子を目深に被っていて、もう一人に至っては人間の格好ですらない。
たとえ北島が探偵について報告していたとしても、これでは大西には判るまい。
「世話になったんです。俺を介抱してくれました。御堂探偵事務所の所長サンと、その助手です」
「探偵?ってぇと、おめぇの奪回を邪魔した奴らか!?」
一旦は目を剥いたものの、必死な竜二と狼男達を見比べて、そのうち大西は豪快に笑い出した。
「仕方ねぇ、竜二の顔に免じて財布を返してやらぁ」
かと思えば不意に真面目な顔になり、御堂を真っ直ぐ見つめる。
「おめぇらは竜二をヤクザと察しながら、サツにも病院にも連れて行かず匿ってくれた。こいつの礼を返さにゃ〜、極道としての仁義に欠けらぁな」
実際のところ竜二がヤクザだと勘づいていたのは所長だけだが、光一は大人しく黙っておいた。
ポンと手渡された財布を受け止め、御堂が頷く。
「ありがとよ、話の判る親分さんで助かったぜ」
大西も鷹揚に頷き、傍らの竜二を促した。
「おぅ竜二、こいつらを一階まで送ってやんな。ただし、その後おめぇは戻ってくるんだぞ?」
「はっ……はい!」
嬉しそうに頷く竜二に、悠々と部屋を出てゆく二人。
大西組の手下にポカンとした顔で見送られながら、一階の出入り口まで到着した。
「では、俺はここでサヨナラです」
深々と頭をさげる竜二に、光一が問う。
「また監禁生活に戻るつもりかよ?竜二はいいのか、それで」
いいえと首を振り、竜二は言う。
「大西さんが俺を部屋に閉じこめていたのは、俺を守る為だったんです。でも、明日からは違います。俺も一緒に連れていってくれると、あの人は約束してくれやした」
「そうかい、良かったな」
頭を上げると、笑顔の所長と目があった。
「それもこれも、お二人のおかげです。本当にありがとうございやした」
「おいおい、よせよ。俺達は何もしてねーぞ?」
再び頭を下げる竜二に、おどけてみせる所長。
彼を真っ直ぐ見つめて、竜二が笑う。
「二人が俺を匿ってくれたから、無事に戻ってくる事ができたんだ。この恩は、一生忘れやせん」
「そうかい。んじゃまぁ、俺らが困った時は、手を貸してくれよな」
ひらひらと手を軽く振りながら、白々と空が明るみかけた中を御堂と光一が帰っていく。
その後ろ姿を竜二は、いつまでも見送った。


――数分後、上半身裸の光一が「ねぇ、なんかシャツを一枚貸してくれる?」と戻ってくるまで、ずっと。