キタキタ
6.タイツの客人
ビアノが出て行ってからというもの、ソラの日常はすっかり平穏に戻り、取り戻した平穏に彼が飽き始めてきた頃、とんでもない事件が都心を騒がせた。
なんと北方との境界線を守る門兵達が、全員病院送りになったというのだ。
しかも意識のある兵士の話によると、襲撃をかけてきたのは、たった一人。
歳幼い少年だったというから、報道連中の食いつかないわけがない。
ニュースは連日、謎の襲撃事件で賑わい、学校でも、その話題で持ちきりになった。
どんなに警備隊が手を尽くしても逃走した襲撃者は見つからず、次第に皆の関心も薄れてゆき、たまに捜索の動きがニュースにあがる程度になった、そんなある日のこと。


「あ〜ん、ソラァー!会いたいよー!会って、んっチュゥゥ〜〜ン、したぁぁい!!」
のっけから破廉恥に大騒ぎしているのは、誰であろう。
言うまでもなく、ビアノである。
時子の紹介で住み込みメイドとなったのだが、仕事をしていても、休憩していても、頭に浮かぶのはソラのことばかり。
メイドになってから、一度もソラの元へ帰っていない。
帰りたくても向日田家の連中、ビアノの監視役としてつけられたヨネ婆さんが許してくれないのだ。
外出するには、彼女の許可をもらう必要がある。だというのに。
「ビアノさんや、窓の隅が汚れていますよ。こんな手抜き仕事でお暇を貰おうなんて、厚かましい娘だこと」
今日も婆さんには姑の如き嫌味をたっぷり言われ、外出許可が下りなかった。
本来の雇い主にして、ビアノの働く別荘の持ち主である時子は、あれ以来一度も姿を見せていない。
ヨネ婆さんの話だと学業でお忙しいらしい、とのことだが……
今頃はアカデミーでソラと一緒にキャッキャウフフしているのかと思うと、悔しくて歯がギリィッと軋んだ。
――クッ、我慢よビアノ。
もうすぐ給金が一万を越える。せっせと真面目に働いたおかげだ。
最初の頃こそ、料理は焦がす、洗濯物は縮めると、ろくな働きをしていなかったビアノだが、三ヶ月も働くうちに、ようやく仕事のコツを覚えて、今じゃそれなりに役に立つメイドになったと自負できる。
……そう。
三ヶ月間、ソラと全然会っていない。ソラ禁状態である。
「ソラの体に触りたいよォ〜ッ、こう、モミモミキュッキュしてね?あぁん、おっきくなってきたところを」
でっかい声で妄想に浸っていると、バタンと激しくドアの開かれる音が響いてくる。
てっきりヨネ婆さんが買い物から帰ってきたのだとばかり思い、ビアノはびくんと跳ね上がった。
――が、緊張して待てども、婆さんがこちらへやってくる気配はない。
「え……?何、今の音……」
ヨネさんではない。としたら、誰がドアを開けたのだ?
まさか、ようやく時子のお出ましか。
それにしては、入ってきて何も言わないというのは、おかしすぎる。
一番考えたくない可能性がビアノの脳裏をかすめ、喉をゴクリと鳴らす。
まさか、まさか……泥棒!?
箒を両手に持ち替えて、ビクビクしながらドアのほうへ近づいてみると、扉の影からさっと黒い影が飛び出して、襲いかかってきたので、ビアノは咄嗟に箒で応戦した。
「キャッ!ちょっと、何よあんた、一体――」
「久しぶりだな、ビアノ!こんな処で遊んでいるとは、思いもしなかったぞ」
鋭い少年の声が飛んできて、「はぁうっ」と叫んだビアノは一転、箒を相手に投げつけるや否や、窓ガラスに体当たりして外へ転がり出る。
「待てッ」
反応が一瞬遅れた少年も、すぐさま開いたドアから出ていって、別荘はもぬけの空となった。

翌日。
ビアノの逃亡と賊侵入は時子の耳にも伝わって、時子経由でソラの通うアカデミー全生徒の知るところとなった。
「脱北者をかくまっていたなんて、すごいよ。さすがは時子サンだね」
加賀見のお世辞に時子は笑った。
「あら、でも、あのコを一番最初に見つけたのは、あたしじゃないのよ」
「じゃあ、誰が?」との問いにも、あっけらかんと隠すことなく話してしまい、ソラの手柄までもが瞬く間に学園中へと広まった。
普段そう仲良くない生徒までもが群がって、しきりに「すごいな、ソラ!」と褒め称えてくるもんだから、最初の頃こそテレていたソラも次第に面倒になってきて、講義もそこそこにアパートへ逃げ帰った。
ビアノ脱走を聞いた時は、てっきりソラの住むアパートへ戻ってくるものだとばかり思ったが、時子の話によると、脱走してから既に一日が経過しているらしい。
いくら別荘とソラのアパートとで距離があるといっても、半日もすれば戻ってこられるはずだ。
一体どこまで逃げていってしまったのだろう。
「脱走、か……」
ソラはポツリと呟き、遠方の景色へ目をこらす。
目をこらしたところで高層建物が視界を遮っており、ここからでは何も見えないのだが。
「脱北者が更に脱走って、何考えてんだ?」
改めて考えてみれば、何故ビアノは北を抜け出してきたのだろう。
北で何があったのか。
北部は長いこと謎に包まれている地域だ。
伝承によれば、彼の地に魔王が封印されているのだとか。
でも、そんなのは御伽噺だとソラは思っている。
そう思っているのはソラだけじゃない。
都心、都外に住む誰もが伝承など信じちゃいなかった。
今でも北部は軍人以外の立ち入り禁止区域になっていて、境界線には門番が立ちふさがっている。
門の向こうは荒れ地だという話だから、好きこのんで北部へ行ってみたがる者などいない。
「北へ帰った、とか?まさかね……」
北へ行くにも戻るにしても、必ず境界線を通過しなければいけない。
脱北者が門の前に現れたなら、なにかしらニュースにあがってもいいはずだ。
脱北者――
本来なら入れないはずの向こう側の住民が、何故か、こちら側へ渡ってくる事がある。
見つかり次第、特殊な施設に放り込まれる――なんてのは過去の話で、今は丁重に扱われ軍部の保護下に置かれると、もっぱらの噂だ。
「ま、どうせ二、三日したら戻ってくるんだろうけど」
ハァ、と溜息をついて自分ちのアパートのドアを開けようと、ソラが鍵を差し込んだ時だった。
真後ろから聞き慣れぬ、低いがまだ少年らしき声に呼び止められたのは。
「おい、貴様。貴様からは奴の匂いがプンプン臭うぞ。一体何者だ?」
「ハァ?」となって振り返ると、正面の壁の上に少年が一人、腰掛けている。
体にぴったりフィットする薄くて黒いシャツ。
それから下は、やはり黒いタイツのような物を履いていた。
この寒空にしては、やけに薄着な格好だ。寒くないのだろうか。
「答えろ。奴を匿っているのか?」
「奴って誰」
「奴と言ったら、決まっている。ノクタールの娘だ」
「ノクタールって誰だよ」
聞いたことのない名前を、突然出されても困る。
仏頂面のソラに、少年も苛々した様子で答えた。
「知らないのか?魔王だ、七つの世界と二十の配下を従える、魔王ノクタール!」
「知らない」
というか、魔王って。
魔王なんてもんは、北部のどこかに封印されているはずではなかったか?
「魔王も知らないし、その娘も知らないよ」
「そうか……だが、貴様の体から匂う奴の匂い、それはなんだ?」
なんだと聞かれても、ソラが知るよしもない。
似たような匂いってだけではなかろうか。
少し好奇心を持ったソラは、自分から尋ねてみた。
「娘には名前、ないのか?」
「……ある」
かすかに頷き、少年が続ける。
「娘の名はビルゾアラノクタール。本人はビアノ、と名乗っているようだが」


ずいぶん長いこと間をおいて、ご近所一帯にソラの絶叫が響き渡った。
「え、えええぇーーーーーーーーーーーッッ!?」
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