キタキタ
5.なんという
時子と出会ってアパートへ帰るまでの道のりを、出来るだけソラは伸ばしたいと考えた。
だが距離とは無情なもので、あっという間に到着してしまう。
当然だ、元々帰り道の途中で時子と出会ったのだから。
「ビアノ〜、いるか?」
それでも一分一秒でも二人きりでいたくて、ソラはゆっくり鍵穴に鍵を差し込んで回す。
だからバァーン!と勢いよくドアを開けられた時には、とっさに身を庇うことも出来なかった。
「おっかえり〜、ソラァ〜!」
「ぶッ!」
玄関に鍵は、かかっていなかった。
ドアで思いっきり顔面を殴打され、ソラは玄関口で蹲る。
「そ、ソラくん、大丈夫!?」
時子には心配されたが、大丈夫じゃない。
鼻の頭がジンジンして、涙がこぼれそうだ。
「もぉー、あなたがいなくて寂しかったんだからァン♪ねね、お風呂にする?ベッドにする?それともキッスゥ〜〜ン?」
チュウッと蛸のように伸ばした口で迫ってから、相手がソラじゃないと知ると、ころっとビアノは発情期から平常に戻って「あらっ?あんた誰」と尋ねてよこした。
「あたし?あたしは向日田 時子よ。ソラくんとはアカデミーで一緒なの、あたしのほうが先輩だけどね」
じろじろとビアノを眺め回し、時子がニコッと微笑みかける。
「へぇ〜。噂以上に可愛いじゃない、あなた」
「あら、そう?エヘヘ、それほどでもあるけどォ〜」
両手を組んでモジモジと恥じらうビアノは、正体を知らなければ普通の少女に見える。
歳は十代前半だろうか?
北から一人で逃亡を謀ったにしては、随分と幼く思えた。
「ねぇ、あなた脱北者なんですってね」
興味津々に時子が尋ねると、ビアノはキョトンとして頷く。
「そうよ。どうして知ってるの?ソラから聞いた?」
「えぇ、ソラくんから一通り、あなたのことは聞いているわ。行くあてがないってこともね」
そう言うとビアノはポッと、はにかんで、通路に蹲ったソラへ目線を落とす。
「うん……でも、もう、いいの」
「もういいのって、何が?」
オウム返しに尋ね返す時子へ、ビアノが顔をあげて微笑んだ。
「ソラと同居するから、もういいの!あたし、ソラのお嫁さんになるっ」
「冗談じゃないッ」
ガバッと立ち上がり、勢いで頭をクラクラさせながらソラは叫んだ。
「言ったはずだぞ、君を住まわせるのは一時的にだって!家賃の問題もあるし、見た目は女の子と同居するなんて世間体にも差し障るからな」
「見た目はって、何よぉ〜。女の子だもん!」
「女じゃないだろ、オカマだろ!?」
「オカマじゃないもん!!」
だんだんエスカレートしてきた口喧嘩を遮ったのは、時子だ。
「あー、はい、はい。そこまで、そこまでにして、お二人さん。ほら、通路で喚いていると、ご近所さんの迷惑にもなるし……まずは一旦、部屋に入りましょ?」
互いに言い足りない二人の背を押し、ソラの住む部屋に入った。

部屋に入って、すぐに時子が用件を切り出した。
「でね、今日あたしが此処へ来たのは、ビアノちゃんの住まいを提供しようと思って」
「住まい?いいのに」
驚くビアノの横では、すかさずソラがツッコミを入れる。
「俺はよくないッ」
ぶすっとむくれるソラを手で宥め、ビアノに反撃させまいと時子が付け足した。
「ほら、ソラくんの懐事情もあるし。二人分の生活費を払うって大変なのよ、判るでしょう?」
「それは、そうだけどォ……」
一瞬は勢いをなくしたビアノだが、次の瞬間にはパッと顔を輝かせる。
「あっ、そうだ!あたしが働けば、ソラが払わなくて済むよね」
そんな簡単に働き口が見つかるかよと、ますます仏頂面になるソラの耳に、時子の声が被さった。
「そうね、すごく良い考えだわ。ねぇ、ビアノちゃん。働いてお金がもらえる、い〜い仕事があるんだけど、やってみない?」
「ホント!?」
たちまち瞳を輝かせ飛びついてくる相手に、声をひそめて時子は微笑んだ。
「本当よ。ただし、そのお仕事は住み込みだけどね」
先ほどソラにも話したメイドの仕事を、本当にやらせるつもりか。
如何に寛大な時子とてビアノの仕事っぷりを見たら一日、いや一時間でクビにしたくなるに違いない。
トーストを焼く程度の料理は出来ても、それ以上の調理は無理。
掃除をさせれば、ゴミをまき散らす。
洗濯?ノー、ノー。
ビアノに洗濯なんて、させたくない。下着が全部消滅する。
かわいいだけが取り柄の奴だった。他に何も出来ない。
だからこそ、ソラは追い出したくて躍起になっているというのに。
「住み込み、かぁ……ソラと離ればなれになっちゃうのね」
ビアノは悩んでいる。
ここぞとばかりに時子が畳みかけた。
「でも、このままだとソラくんの貯金がつきて、ソラくんが都外へ帰っちゃう。そうしたら、あなたは住む家ばかりかソラくんまで失っちゃうのよ。それでもいいの?」
この話は、ビアノには意外だったようだ。
「えっ!?ソラ、お金がなくなったら、どっかに帰っちゃうの?」
バッと勢いよく振り返ったビアノへ頷くと、ソラは付け足した。
「そりゃそうだ。俺は元々こっちに家を持っていないからな、借りる金がなくなったら実家に戻るしかないよ」
じゃあ、あたしもついていく!と言い出される前に、しっかり釘も刺しておく。
「あぁ、勿論実家にお前を置いておく余裕はないからな。俺の実家は、仕送りも出来ないほど貧乏なんだ」
こんな話を時子の前でするのは、たまらなく惨めで嫌だった。
が、今は場合が場合だ。
ビアノとの同居は貞操の危機や精神上の不安もあるが、もっか一番の問題は財政難だ。
とにかく自分が貧乏だとアピールしなければ、こいつを追い出すことも、ままならない。
ビアノは、しばらく悩んでいたようであったが、やがて顔をあげると、きっぱり言った。
「判った。あたし、働く」
「そうこなくっちゃ!」と喜ぶ時子を横目に、ビアノの視線はソラに集中。
「だって、ソラとは一生一緒にいたいもん。待っててね、ソラ。あなたを一生暮らしていけるぐらいのお金を稼いでもどってくるから!」
「……へっ?」
何を言われているのか判らず呆けるソラの両手を取り、ビアノが熱く語りかけてくる。
「だからァ〜、あたしとあなたの結婚資金を稼いでくるって言っているの。あたしに任せて!バァーンと稼いで、必ず戻ってくるから」
どうやら戻ってくる気でいるらしい。
冗談ではない。
半永久的にビアノはメイドでいてもらわないと、こっちの身がもたない。
「い、いや、俺は」
「そしたら、こんなボロアパートすぐに出て、あたし達二人で愛の巣を築きましょ?うふふ、毎日ソラと一緒にお風呂に入って、一緒のお布団で寝て……うふふ、うふふふ」
いやらしい笑みを浮かべる自称少女から、ソラはそっと視線を外す。
「いいよ、遠慮する」
「やだぁ、遠慮しなくていいのよ?あたしとあなたの仲じゃない」
「別に、遠慮なんかしていないし」
「もぉ、ソラッてば謙虚なんだからぁ〜。そういうトコも大好きだけど」
ダメだ、こりゃ。完全に話を聞いていない。
一人蚊帳の外に置かれていた時子が、会話に混ざってきた。
額には冷や汗を滲ませながら。
「と、とりあえず、そういうことで決まりね。それじゃビアノちゃんは、これから、あたしと一緒に行きましょ?」
夢の世界から呼び戻されたビアノが首を傾げる。
「えっ?行くって、どこに?」
「もちろん、あなたの住み込む仕事場よ。さぁ、行きましょ」
「え〜、今から?あたし、今日はソラと最後の一日を……」
「急いで行かないと、別の人に仕事を横取りされちゃうわよ?さぁ、急いで急いで!」
我が儘など一ミリも許さない時子の強引かつ弾丸トークに押されるようにして、ビアノは渋々、ソラのアパートを出て行ったのであった。
「じゃあ……またね、ソラ。あたしがいなくなっても寂しがらないでね?」
「うん、じゃあ」
早く行け、と言いたいのを堪えて無表情に送り出した後、誰もいなくなった部屋でソラは大きく伸びをした。
「……はぁーっ!やったー!
彼にしては大声で、ガッツポーズなどを繰り出しながら。
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