3.初めてのKiss
今日は、あいにくの曇り空。
そんなのはお構いなしに、ソラは自分のアパートを元気よく飛び出していった。
――何故って?
決まっている。
彼の敬愛する時子が、今日は午前中の講義に参加するからだ。
情報は昨日の講義終了後、食堂でキャッチした。
同じく彼女の追っかけをやっている奴らが噂しているのを聞いたのである。
時子が受ける予定の講義は、ソラにとって全く興味のない『帝王学』だ。
だが講義内容は大した問題ではない。
急いで家を出たのは、別の理由だ。
すなわち、それ――席の問題。
ソラが到着した時点で、すでに講義の教室は満員になっていた。
学校のアイドルが受けるというだけで、こうも違うものか。
普段は帝王学なぞ鼻毛の先ほども興味のなさそうな輩が、ぎっしり詰まっている。
心なしか、この部屋だけ南国の如き暑さである。
席が並ぶ中央に目を向け、ソラは心の中で「あ〜っ」と絶望の声をあげた。
中央列の一番真ん中に座っている時子、その両脇は、とっくに埋まっている。
両方とも男子、一人は憎き我がライバルの加賀見だった。
時子が出る講義は、このように、いつも大人気である。
厳密に言うと皆、講義の内容には興味がなく、時子の隣に座るのが目的だ。
そしてソラも漏れなく、その一人で、座り損ねた彼は渋々最後列の空いた席に腰掛けた。
くっつきそうになる瞼を無理矢理開き、なんとか講義を終えた後、ふぁぁーっと大きく伸びをして興味なさそうなフリをしながら、ソラは立ち上がる時子の姿を眺めていた。
彼女の周りには、常に男が群がっている。
時子より美人、或いは頭のいい女性は、他にも沢山いるだろう。
けど時子より男性に人気のある女生徒は、今のところ見かけたことがない。
「ハァイ、ソラくん。君も来ていたのね」
こちらの方など見てもいないと思っていた相手が、唐突に振り向き声をかけてくるもんだから、ソラは内心ドキッとする。
気づかれていたのか、講義を受けていた事に。
なので「はい」と緊張しまくって頷くと、時子が近づいてきた。
ソラの座っていた席の机に肘を乗せ、前屈みにソラの顔をのぞき込んでくる。
「どうだった?帝王学は。君には少ぉし難しかったんじゃないかなぁ?」
今日の時子のファッションは、きわどいカットのショートブラウスで、やばい、この角度だとモロに胸元が見えてしまう。
ソラは一生懸命目線をそらし、見ないようにと心がけた。
おかげで返事をするのに遅れたが、時子はソラが答える前に格好を崩す。
「アハ、実を言うとね、あたしもチンプンカンプンなのよ。けど、お父様が受けろ受けろっていうから、仕方なく受けてやってんの。これも将来の為だ、ってね」
「そうなんですか」
自分でも全く気の利かない返事だな、とソラは思った。
だが時子は、そうは思わなかったらしく、仏頂面のソラへウィンクすると「そうなのよ」と締めくくった。
「将来の為、なんでも将来の為、って押しつけてくるのよね〜。あたしの将来って何なの?お父様の為に生きているんじゃないっつ〜の!」
金持ちの娘にも、金持ちの娘なりの悩みがあるようだ。
眉間にしわ寄せ愚痴っていた時子が、からっと笑顔に戻る。
「な〜んて。いきなり愚痴ったりしてゴメンね。ねぇソラくん、君は将来について考えたこと、ある?」
「え?あ、はい……一応は」
「そうなの!?」と何故か瞳を輝かせ、時子が食いついてくる。
「どんなの?ソラくんの将来って!」
「え、と……無難な働き口を見つけて、食べていけるだけの給料を貰えたら、と」
言っていて、自分でも悲しくなるほど凡人の未来だ。
見れば時子の取り巻き達も、彼女には見えない角度でニヤニヤ失笑している。
しかし時子の反応は違っていて。
「すご〜い!もう就職を考えているのねっ。あたしも見習わなきゃ」
就職しなくても一生親の財産で食べていけるセレブが何を見習うつもりか、彼女は興奮して言った。
「将来って、遠いようで近い未来よね……うん、決めた!あたしも今から将来を考えておこっと。じゃあね、ソラくん」
「あ、はい。さよなら」
手を振られたので、手を振り返す。
時子は颯爽と歩いていき、その後を取り巻き達がゾロゾロとついていき、教室は、あっという間に閑散とした。
話せた時間は、ほんのちょっとだったけれど、ほんのり幸せ色に染まりながら次の講義へ向かう途中、誰かが自分を呼ぶ声に、なんとなく振り向いて、そしてソラはギョッとする。
「ソォ〜ラァ〜?お弁当、届けにきたわよぉぉ〜〜」
とてつもなく大声で叫びながら、こちらへ突進してくる少女。
見間違えようはずもない、あれはビアノじゃないか!
どうしてビアノが、ここにいるんだ?
本人は弁当を届けに来たと言っている。
だが、ソラの通うアカデミーは弁当制じゃない。ちゃんと食堂がある。
「ソォォ〜ラァァ〜〜!愛の籠もったお弁当を、召し上がれぇぇ〜〜!」
周りの人達も何事かと注目しているし、恥ずかしいこと、この上ない。
ドン引きしつつも逃げるチャンスを失い、仕方なくソラはビアノの到着を許した。
「ソラ、あたしね、お弁当作ってみたの。渾身のデキだから、食べてみてよね」
さっと差し出された弁当箱を嫌々受け取ろうとした瞬間、「うっ」と呻いてソラは後退する。
くっ、臭い。何だ、この匂い。
例えるなら真夏のゴミ収集場な匂いが、弁当箱から漂ってくる。
その臭さたるや、いつもは鉄面皮なソラでさえ鼻の上に皺が寄るほどだ。
常人なら吐いていても、おかしくないだろう。
そんなものを突きつけられては、さしものソラでも受け取れない。
引きつった笑みで、そっと押し戻して辞退した。
「いや、今は俺、腹減ってないから」
「え〜?せっかく作ったのに食べてくれないのぉ?」
「ごめん」
「やぁ〜〜ん、食べて食べて、食べてくれなきゃビアノ泣いちゃうぅ〜ん」
公衆の面前で駄々をこねられても、無理なものは無理だ。
というか、匂いは既に公害レベル。
近くを歩く人の中には気分を悪くしたのか青い顔の者も続出で、迷惑この上ない。
それに今はまだ、昼飯時間じゃない。
急がないと次の講義が始まってしまう。
ソラは「俺、次の講義があるから」と話もそこそこに逃げだそうとするが、ビアノに腕を掴まれる。
「ひ、酷い……ソラの……」
ひくっ、とビアノが、しゃくりあげる。
じわあっと目元に大粒の涙が浮かんできて、やばい、と思う暇もなく。
「ソラの、ばかぁ〜〜〜!!」
ビアノはびゃんびゃん泣き出して、ソラの足下に座り込んでしまう。
これじゃ一方的に、こっちが悪者みたいじゃないか。
道を歩く人達が皆ソラとビアノを見ており、責められているようで居心地が悪い。
だからといって悶絶弁当を受け取る気にはなれず、ソラが困っていると、救いの手は案外近くから差し伸べられた。
「あの……ソラくん」
声をかけてきたのは、繭優だ。
彼女も午前の講義に出ていたのか。
「あ、倶利伽羅。おはよう」
内心ホッとして、だが表面上は無表情で応えるソラへ微笑むと、繭優は言った。
「もし良かったら……お昼、ご一緒しませんか?」
「あぁ」と即座に頷くソラを見て、「よかった」と繭優は嬉しそう。
反面、ビアノはムスッと繭優を見上げて、ぶーたれた。
さっきまで泣いていたはずだが、目元は、すっかり乾いている。
さては、さっきのも嘘泣きか。
「ちょっとォ。あんた、今までのやりとり聞いてなかったの?あたし、ソラにお弁当作ってきたって言ったのにィ」
すぐ折れるかと思いきや、繭優は穏和に微笑んで言い返す。
「あら、ごめんなさい。でもソラくん、今はお腹がすいていないとも、おっしゃっておりましたわ。お腹のすいていない人に無理矢理食べさせるのは、拷問ではありませんこと?」
大人しそうに見えて、大人しいだけではないようだ。
案外、お嬢様とは気の強い面も兼ね備えていなければ、やっていけないのかもしれない。
ソラは、ちらりと腕時計を見る。
やばい、もう講義開始まで五分を切っている。
「ビアノ、それはお前が食べていいから。俺は彼女と食堂で飯にする」
「え〜〜?せっかく作ったのに食べてくれないのぉ?」
また壊れたボイスレコーダーが始まる前に、ソラは逃げ出した。
「ごめん、次の講義始まっちまう!じゃあな、ビアノ気をつけて帰れよ?倶利伽羅も、また後で!」
「はい、ソラくん、また後で」
繭優に見送られて、ソラが慌ただしく走っていった後、五分後には講義開始のチャイムが鳴り響き、やがて道に残ったのは繭優とビアノの二人だけとなる。
ビアノへ振り返った繭優は一転、鬼の形相と化して少女へ詰め寄った。
「な、なによぅ」
ビアノが少々ビビッて何か言うのへは、冷たい声でぴしゃりと言い放つ。
「もう二度と、ソラくんに近づかないで下さいませ」
「な、何ですってぇ?」
「ソラくんは私のものです。あれは入学式……花吹雪舞うキャンパスで、わたくし達は出会ったのです。凛々しいお顔、寡黙なお人柄に、わたくしは一目惚れを致しました」
夢見る瞳で語られて、ビアノは場違いに「あははっ」と笑う。
むっとする繭優へ笑いかけた。
「あたしと同じね☆あたしもソラに一目惚れしたんだよ。あたしが会ったのは商店街だったけど、ソラってやっぱ誰が見ても格好いいんだぁ」
「誰が見ても、ではありませんわ!」
とげとげしい声で遮ると、繭優はビシッとビアノの顔へ指を突きつける。
「ソラくんを格好いいと評して宜しいのは、わたくしだけの特権です」
「そんなの、あんたが決めるこっちゃないわよ!」
度々喧嘩腰で言い寄られては、ビアノだっていい気はしない。
つられて刺々しく言い返すと、殺気のこもった視線をぶつけ合う。
「あたしだってソラのこと、大大大大大〜っ好きなんだから!あんたこそ、ソラに馴れ馴れしく声をかけないでよね」
「なんですって!?ちょっと街で出会って一目惚れしただけの、にわかの分際で!」
「自分だって一目惚れだったって、今言ったじゃない!!」
「一目惚れでも、あなたとは年季が違います!」
「何がどう違うっていうのよ!どーせ、あたしと同じ片想いでしょぉ!?」
「片想いでは、ございませんッ!!」
ムキになって言い放った言葉に、ビアノも、そして繭優自身も硬直する。
しまった。売り言葉に買い言葉で、つい言うべき言葉を間違えてしまった。
片想いじゃない、と言いたかったんじゃない。
同じ程度の片想いではない、と言いたかったのだ。
「え……片想いじゃないって、どういうことなの……?」
呆然と聞き返され、具合の悪くなった繭優は視線をそらして、ぼそぼそと答えた。
視線をそらして小声で答えるのは、意識して嘘をつく時の彼女の癖だ。
「それは、つまり……せ、接吻したことがあると申し上げたかったのですわ」
むろん、嘘だ。
そんな真似ができるほど仲が良ければ、今頃は毎日一緒に登校している。
「なっ、なんですってぇぇー!?」
だが苦し紛れについた大嘘はビアノをショックに至らしめるには充分すぎる爆弾で、ナンデスッテーのポーズで硬直したビアノを置き去りに、そそくさと繭優は去っていった。
ただ、去り際、召使い達へ命じておくのも彼女は忘れなかった。
「あの少女について判ることを出来る限り調べておきなさい、いいですわね?」
――夕暮れ時。
とぼとぼとアパートへ向かう道を、ビアノが歩いている。
「ソラが……あんな女とキス……あんな女と経験済みだったなんてぇ……うっ、うっ、うっ」
どこをどう歩いてきたものか、ソラよりずっと遅い時間での帰宅だ。
玄関を開けたらソラと鉢合わせて、ビアノはガラにもなく焦ってしまう。
「あ、やっと帰ってきたのか。一体どこをほっつき歩いていたんだよ?」
一応心配してくれては、いたようだ。
彼の顔を見た途端、ぶわっとビアノの両目に涙が溢れる。
「ソラァ〜〜!」
「な、なんだ?」
「なんで早まっちゃったのよォ、あたしと出会う前に、あんな女とキスするなんてぇ〜〜」
……話が見えてこない。
玄関先で座り込んでビービー泣くビアノを落ち着かせようと、ソラは腕を引っ張って立ち上がらせる。
「とにかく落ち着けよ。最初から話してみろって」
半ば引きずられる形で椅子に座らされても、ビアノの癇癪は止まらない。
「えぐっえぐっ……ソラは、あたしより、あんな女がタイプなのね?だから、お弁当より食堂のご飯を選んだんでしょ、そうなんでしょ。彼女がいるのに純情な少女の乙女心をからかうなんて、あなたって酷い人!」
涙と鼻水でグチョグチョになりながら、根も葉もない言いがかりをつけてくる。
ソラはすっかり困惑し、ガリガリと頭をかいた。
こいつは一体、何の話をしているんだ?それに、あの女って誰だ?
女子でよく話をする相手といえば、真っ先にソラの脳裏に思い浮かぶのは時子だ。
もしビアノが時子を『あの女』呼ばわりしているんだとしたら、問題だ。
変な噂を流さないよう厳重注意しておかないと。
「あのな、俺が誰とキスしたんだって?」
「だからぁ!あの女よ、ソラと一緒にいた髪の長い女!」
「えっ、倶利伽羅?」
意外な名前を出されて、ソラはきょとんとする。
繭優と自分がキス?時子とキスするより、突拍子もない。
そりゃあ、繭優とも時々話はするけれど、友達というには微妙な距離感だ。
繭優を友達と認識していなかったソラは、ぽかんとして目の前の自称少女をマジマジと眺めた。
「ビアノ、そんなデマを何処で聞いてきたんだ……?」
「デマじゃないわ!」
憤慨してビアノが机をドンと叩く。
「あの女が言っていたんだから!ソラとキスしたことがあるって!!」
「いや、ないけど?」
「嘘!」
全然信じてくれない。
全然知らない女の話は鵜呑みにするくせに、どうしてソラの言うことは信じてくれないのだろうか。
ソラは、だんだんイライラしてきた。
誰が面倒を見てやっていると思っているんだ、こいつは。
「嘘じゃないって。ホントに倶利伽羅が言っていたのか?悪いけど俺、倶利伽羅とは全然仲良くないぞ。たまに話をする程度のつきあいだし」
「でも今日だって、お昼一緒に食べたんでしょ!?」
「そりゃ、まぁ。誘われたからね。でも、そんなの普通だろ?他の友達とだって食べることあるし」
「じゃあ、本当に恋人じゃないのね?」
ビアノに念を押され、内心のイライラを隠しながらソラは頷く。
「当たり前だろ。俺、他に好きな人がいるんだから」
「そっかー、良かった〜♪」
ホッと胸をなで下ろし、かと思えば明後日の方向を向いて、ビアノがプンプン怒り出す。
「何も知らないと思って、あたしを騙そうとしたのね、あの女!次にあったら、ただじゃおかないんだから」
「あ、そうそう」とソラも思いだし、ビアノを注意する。
「ビアノ、君、今日勝手にアカデミーに来ただろ。やめてくれないかな、そういうことするの」
「どうして?」との問いには、苦笑して肩をすくめた。
「どうしてって、君は、うちの学生じゃないだろ。学生じゃない奴は学校の敷地内に入ってきちゃ駄目なんだぜ」
「でも、誰にも止められなかったわよ?」
判っていない顔のビアノに、さらに釘を刺すソラ。
「今日は、たまたまガードマンに見つからなかっただけだろ。部外者は立ち入り禁止って校則なんだ。大人しく俺の帰りを待っていてくれよ、ここで」
嘘ではない。生徒手帳を見れば、書いてある項目だ。
そうでなくてもビアノの存在を学校の連中に知られたくないソラである。
「ぶ〜、判ったわよぅ」と渋々ながらも承諾するビアノを見て、ようやくホッと溜息をついた直後、同じ口から「え〜〜っ!?」と絶叫があがり、ソラは心臓が飛び出すかと思った。
「なっ、なんだよ!?」
慌ててビアノを見てみれば、眉毛をつりあげ怒っている。
「ちょっと!じゃあ、ソラの好きな人って誰?あの女以外にも仲の良い女がいるってぇの!?」
しっかり、さっきの失言を聞いていたようだ。
ソラは「さ、さぁな?そんなこと言ったっけ」と惚けると、追及から逃れる為、自室へ逃げ込んだ。
そんなのはお構いなしに、ソラは自分のアパートを元気よく飛び出していった。
――何故って?
決まっている。
彼の敬愛する時子が、今日は午前中の講義に参加するからだ。
情報は昨日の講義終了後、食堂でキャッチした。
同じく彼女の追っかけをやっている奴らが噂しているのを聞いたのである。
時子が受ける予定の講義は、ソラにとって全く興味のない『帝王学』だ。
だが講義内容は大した問題ではない。
急いで家を出たのは、別の理由だ。
すなわち、それ――席の問題。
ソラが到着した時点で、すでに講義の教室は満員になっていた。
学校のアイドルが受けるというだけで、こうも違うものか。
普段は帝王学なぞ鼻毛の先ほども興味のなさそうな輩が、ぎっしり詰まっている。
心なしか、この部屋だけ南国の如き暑さである。
席が並ぶ中央に目を向け、ソラは心の中で「あ〜っ」と絶望の声をあげた。
中央列の一番真ん中に座っている時子、その両脇は、とっくに埋まっている。
両方とも男子、一人は憎き我がライバルの加賀見だった。
時子が出る講義は、このように、いつも大人気である。
厳密に言うと皆、講義の内容には興味がなく、時子の隣に座るのが目的だ。
そしてソラも漏れなく、その一人で、座り損ねた彼は渋々最後列の空いた席に腰掛けた。
くっつきそうになる瞼を無理矢理開き、なんとか講義を終えた後、ふぁぁーっと大きく伸びをして興味なさそうなフリをしながら、ソラは立ち上がる時子の姿を眺めていた。
彼女の周りには、常に男が群がっている。
時子より美人、或いは頭のいい女性は、他にも沢山いるだろう。
けど時子より男性に人気のある女生徒は、今のところ見かけたことがない。
「ハァイ、ソラくん。君も来ていたのね」
こちらの方など見てもいないと思っていた相手が、唐突に振り向き声をかけてくるもんだから、ソラは内心ドキッとする。
気づかれていたのか、講義を受けていた事に。
なので「はい」と緊張しまくって頷くと、時子が近づいてきた。
ソラの座っていた席の机に肘を乗せ、前屈みにソラの顔をのぞき込んでくる。
「どうだった?帝王学は。君には少ぉし難しかったんじゃないかなぁ?」
今日の時子のファッションは、きわどいカットのショートブラウスで、やばい、この角度だとモロに胸元が見えてしまう。
ソラは一生懸命目線をそらし、見ないようにと心がけた。
おかげで返事をするのに遅れたが、時子はソラが答える前に格好を崩す。
「アハ、実を言うとね、あたしもチンプンカンプンなのよ。けど、お父様が受けろ受けろっていうから、仕方なく受けてやってんの。これも将来の為だ、ってね」
「そうなんですか」
自分でも全く気の利かない返事だな、とソラは思った。
だが時子は、そうは思わなかったらしく、仏頂面のソラへウィンクすると「そうなのよ」と締めくくった。
「将来の為、なんでも将来の為、って押しつけてくるのよね〜。あたしの将来って何なの?お父様の為に生きているんじゃないっつ〜の!」
金持ちの娘にも、金持ちの娘なりの悩みがあるようだ。
眉間にしわ寄せ愚痴っていた時子が、からっと笑顔に戻る。
「な〜んて。いきなり愚痴ったりしてゴメンね。ねぇソラくん、君は将来について考えたこと、ある?」
「え?あ、はい……一応は」
「そうなの!?」と何故か瞳を輝かせ、時子が食いついてくる。
「どんなの?ソラくんの将来って!」
「え、と……無難な働き口を見つけて、食べていけるだけの給料を貰えたら、と」
言っていて、自分でも悲しくなるほど凡人の未来だ。
見れば時子の取り巻き達も、彼女には見えない角度でニヤニヤ失笑している。
しかし時子の反応は違っていて。
「すご〜い!もう就職を考えているのねっ。あたしも見習わなきゃ」
就職しなくても一生親の財産で食べていけるセレブが何を見習うつもりか、彼女は興奮して言った。
「将来って、遠いようで近い未来よね……うん、決めた!あたしも今から将来を考えておこっと。じゃあね、ソラくん」
「あ、はい。さよなら」
手を振られたので、手を振り返す。
時子は颯爽と歩いていき、その後を取り巻き達がゾロゾロとついていき、教室は、あっという間に閑散とした。
話せた時間は、ほんのちょっとだったけれど、ほんのり幸せ色に染まりながら次の講義へ向かう途中、誰かが自分を呼ぶ声に、なんとなく振り向いて、そしてソラはギョッとする。
「ソォ〜ラァ〜?お弁当、届けにきたわよぉぉ〜〜」
とてつもなく大声で叫びながら、こちらへ突進してくる少女。
見間違えようはずもない、あれはビアノじゃないか!
どうしてビアノが、ここにいるんだ?
本人は弁当を届けに来たと言っている。
だが、ソラの通うアカデミーは弁当制じゃない。ちゃんと食堂がある。
「ソォォ〜ラァァ〜〜!愛の籠もったお弁当を、召し上がれぇぇ〜〜!」
周りの人達も何事かと注目しているし、恥ずかしいこと、この上ない。
ドン引きしつつも逃げるチャンスを失い、仕方なくソラはビアノの到着を許した。
「ソラ、あたしね、お弁当作ってみたの。渾身のデキだから、食べてみてよね」
さっと差し出された弁当箱を嫌々受け取ろうとした瞬間、「うっ」と呻いてソラは後退する。
くっ、臭い。何だ、この匂い。
例えるなら真夏のゴミ収集場な匂いが、弁当箱から漂ってくる。
その臭さたるや、いつもは鉄面皮なソラでさえ鼻の上に皺が寄るほどだ。
常人なら吐いていても、おかしくないだろう。
そんなものを突きつけられては、さしものソラでも受け取れない。
引きつった笑みで、そっと押し戻して辞退した。
「いや、今は俺、腹減ってないから」
「え〜?せっかく作ったのに食べてくれないのぉ?」
「ごめん」
「やぁ〜〜ん、食べて食べて、食べてくれなきゃビアノ泣いちゃうぅ〜ん」
公衆の面前で駄々をこねられても、無理なものは無理だ。
というか、匂いは既に公害レベル。
近くを歩く人の中には気分を悪くしたのか青い顔の者も続出で、迷惑この上ない。
それに今はまだ、昼飯時間じゃない。
急がないと次の講義が始まってしまう。
ソラは「俺、次の講義があるから」と話もそこそこに逃げだそうとするが、ビアノに腕を掴まれる。
「ひ、酷い……ソラの……」
ひくっ、とビアノが、しゃくりあげる。
じわあっと目元に大粒の涙が浮かんできて、やばい、と思う暇もなく。
「ソラの、ばかぁ〜〜〜!!」
ビアノはびゃんびゃん泣き出して、ソラの足下に座り込んでしまう。
これじゃ一方的に、こっちが悪者みたいじゃないか。
道を歩く人達が皆ソラとビアノを見ており、責められているようで居心地が悪い。
だからといって悶絶弁当を受け取る気にはなれず、ソラが困っていると、救いの手は案外近くから差し伸べられた。
「あの……ソラくん」
声をかけてきたのは、繭優だ。
彼女も午前の講義に出ていたのか。
「あ、倶利伽羅。おはよう」
内心ホッとして、だが表面上は無表情で応えるソラへ微笑むと、繭優は言った。
「もし良かったら……お昼、ご一緒しませんか?」
「あぁ」と即座に頷くソラを見て、「よかった」と繭優は嬉しそう。
反面、ビアノはムスッと繭優を見上げて、ぶーたれた。
さっきまで泣いていたはずだが、目元は、すっかり乾いている。
さては、さっきのも嘘泣きか。
「ちょっとォ。あんた、今までのやりとり聞いてなかったの?あたし、ソラにお弁当作ってきたって言ったのにィ」
すぐ折れるかと思いきや、繭優は穏和に微笑んで言い返す。
「あら、ごめんなさい。でもソラくん、今はお腹がすいていないとも、おっしゃっておりましたわ。お腹のすいていない人に無理矢理食べさせるのは、拷問ではありませんこと?」
大人しそうに見えて、大人しいだけではないようだ。
案外、お嬢様とは気の強い面も兼ね備えていなければ、やっていけないのかもしれない。
ソラは、ちらりと腕時計を見る。
やばい、もう講義開始まで五分を切っている。
「ビアノ、それはお前が食べていいから。俺は彼女と食堂で飯にする」
「え〜〜?せっかく作ったのに食べてくれないのぉ?」
また壊れたボイスレコーダーが始まる前に、ソラは逃げ出した。
「ごめん、次の講義始まっちまう!じゃあな、ビアノ気をつけて帰れよ?倶利伽羅も、また後で!」
「はい、ソラくん、また後で」
繭優に見送られて、ソラが慌ただしく走っていった後、五分後には講義開始のチャイムが鳴り響き、やがて道に残ったのは繭優とビアノの二人だけとなる。
ビアノへ振り返った繭優は一転、鬼の形相と化して少女へ詰め寄った。
「な、なによぅ」
ビアノが少々ビビッて何か言うのへは、冷たい声でぴしゃりと言い放つ。
「もう二度と、ソラくんに近づかないで下さいませ」
「な、何ですってぇ?」
「ソラくんは私のものです。あれは入学式……花吹雪舞うキャンパスで、わたくし達は出会ったのです。凛々しいお顔、寡黙なお人柄に、わたくしは一目惚れを致しました」
夢見る瞳で語られて、ビアノは場違いに「あははっ」と笑う。
むっとする繭優へ笑いかけた。
「あたしと同じね☆あたしもソラに一目惚れしたんだよ。あたしが会ったのは商店街だったけど、ソラってやっぱ誰が見ても格好いいんだぁ」
「誰が見ても、ではありませんわ!」
とげとげしい声で遮ると、繭優はビシッとビアノの顔へ指を突きつける。
「ソラくんを格好いいと評して宜しいのは、わたくしだけの特権です」
「そんなの、あんたが決めるこっちゃないわよ!」
度々喧嘩腰で言い寄られては、ビアノだっていい気はしない。
つられて刺々しく言い返すと、殺気のこもった視線をぶつけ合う。
「あたしだってソラのこと、大大大大大〜っ好きなんだから!あんたこそ、ソラに馴れ馴れしく声をかけないでよね」
「なんですって!?ちょっと街で出会って一目惚れしただけの、にわかの分際で!」
「自分だって一目惚れだったって、今言ったじゃない!!」
「一目惚れでも、あなたとは年季が違います!」
「何がどう違うっていうのよ!どーせ、あたしと同じ片想いでしょぉ!?」
「片想いでは、ございませんッ!!」
ムキになって言い放った言葉に、ビアノも、そして繭優自身も硬直する。
しまった。売り言葉に買い言葉で、つい言うべき言葉を間違えてしまった。
片想いじゃない、と言いたかったんじゃない。
同じ程度の片想いではない、と言いたかったのだ。
「え……片想いじゃないって、どういうことなの……?」
呆然と聞き返され、具合の悪くなった繭優は視線をそらして、ぼそぼそと答えた。
視線をそらして小声で答えるのは、意識して嘘をつく時の彼女の癖だ。
「それは、つまり……せ、接吻したことがあると申し上げたかったのですわ」
むろん、嘘だ。
そんな真似ができるほど仲が良ければ、今頃は毎日一緒に登校している。
「なっ、なんですってぇぇー!?」
だが苦し紛れについた大嘘はビアノをショックに至らしめるには充分すぎる爆弾で、ナンデスッテーのポーズで硬直したビアノを置き去りに、そそくさと繭優は去っていった。
ただ、去り際、召使い達へ命じておくのも彼女は忘れなかった。
「あの少女について判ることを出来る限り調べておきなさい、いいですわね?」
――夕暮れ時。
とぼとぼとアパートへ向かう道を、ビアノが歩いている。
「ソラが……あんな女とキス……あんな女と経験済みだったなんてぇ……うっ、うっ、うっ」
どこをどう歩いてきたものか、ソラよりずっと遅い時間での帰宅だ。
玄関を開けたらソラと鉢合わせて、ビアノはガラにもなく焦ってしまう。
「あ、やっと帰ってきたのか。一体どこをほっつき歩いていたんだよ?」
一応心配してくれては、いたようだ。
彼の顔を見た途端、ぶわっとビアノの両目に涙が溢れる。
「ソラァ〜〜!」
「な、なんだ?」
「なんで早まっちゃったのよォ、あたしと出会う前に、あんな女とキスするなんてぇ〜〜」
……話が見えてこない。
玄関先で座り込んでビービー泣くビアノを落ち着かせようと、ソラは腕を引っ張って立ち上がらせる。
「とにかく落ち着けよ。最初から話してみろって」
半ば引きずられる形で椅子に座らされても、ビアノの癇癪は止まらない。
「えぐっえぐっ……ソラは、あたしより、あんな女がタイプなのね?だから、お弁当より食堂のご飯を選んだんでしょ、そうなんでしょ。彼女がいるのに純情な少女の乙女心をからかうなんて、あなたって酷い人!」
涙と鼻水でグチョグチョになりながら、根も葉もない言いがかりをつけてくる。
ソラはすっかり困惑し、ガリガリと頭をかいた。
こいつは一体、何の話をしているんだ?それに、あの女って誰だ?
女子でよく話をする相手といえば、真っ先にソラの脳裏に思い浮かぶのは時子だ。
もしビアノが時子を『あの女』呼ばわりしているんだとしたら、問題だ。
変な噂を流さないよう厳重注意しておかないと。
「あのな、俺が誰とキスしたんだって?」
「だからぁ!あの女よ、ソラと一緒にいた髪の長い女!」
「えっ、倶利伽羅?」
意外な名前を出されて、ソラはきょとんとする。
繭優と自分がキス?時子とキスするより、突拍子もない。
そりゃあ、繭優とも時々話はするけれど、友達というには微妙な距離感だ。
繭優を友達と認識していなかったソラは、ぽかんとして目の前の自称少女をマジマジと眺めた。
「ビアノ、そんなデマを何処で聞いてきたんだ……?」
「デマじゃないわ!」
憤慨してビアノが机をドンと叩く。
「あの女が言っていたんだから!ソラとキスしたことがあるって!!」
「いや、ないけど?」
「嘘!」
全然信じてくれない。
全然知らない女の話は鵜呑みにするくせに、どうしてソラの言うことは信じてくれないのだろうか。
ソラは、だんだんイライラしてきた。
誰が面倒を見てやっていると思っているんだ、こいつは。
「嘘じゃないって。ホントに倶利伽羅が言っていたのか?悪いけど俺、倶利伽羅とは全然仲良くないぞ。たまに話をする程度のつきあいだし」
「でも今日だって、お昼一緒に食べたんでしょ!?」
「そりゃ、まぁ。誘われたからね。でも、そんなの普通だろ?他の友達とだって食べることあるし」
「じゃあ、本当に恋人じゃないのね?」
ビアノに念を押され、内心のイライラを隠しながらソラは頷く。
「当たり前だろ。俺、他に好きな人がいるんだから」
「そっかー、良かった〜♪」
ホッと胸をなで下ろし、かと思えば明後日の方向を向いて、ビアノがプンプン怒り出す。
「何も知らないと思って、あたしを騙そうとしたのね、あの女!次にあったら、ただじゃおかないんだから」
「あ、そうそう」とソラも思いだし、ビアノを注意する。
「ビアノ、君、今日勝手にアカデミーに来ただろ。やめてくれないかな、そういうことするの」
「どうして?」との問いには、苦笑して肩をすくめた。
「どうしてって、君は、うちの学生じゃないだろ。学生じゃない奴は学校の敷地内に入ってきちゃ駄目なんだぜ」
「でも、誰にも止められなかったわよ?」
判っていない顔のビアノに、さらに釘を刺すソラ。
「今日は、たまたまガードマンに見つからなかっただけだろ。部外者は立ち入り禁止って校則なんだ。大人しく俺の帰りを待っていてくれよ、ここで」
嘘ではない。生徒手帳を見れば、書いてある項目だ。
そうでなくてもビアノの存在を学校の連中に知られたくないソラである。
「ぶ〜、判ったわよぅ」と渋々ながらも承諾するビアノを見て、ようやくホッと溜息をついた直後、同じ口から「え〜〜っ!?」と絶叫があがり、ソラは心臓が飛び出すかと思った。
「なっ、なんだよ!?」
慌ててビアノを見てみれば、眉毛をつりあげ怒っている。
「ちょっと!じゃあ、ソラの好きな人って誰?あの女以外にも仲の良い女がいるってぇの!?」
しっかり、さっきの失言を聞いていたようだ。
ソラは「さ、さぁな?そんなこと言ったっけ」と惚けると、追及から逃れる為、自室へ逃げ込んだ。