キタキタ
2.お風呂で一緒
ソラの朝は鍵をかけた寝室の中、壁に貼られたB全ポスターへ話しかける事から始まる。
健康的に焼けたプロポーションを惜しげもなく晒している、水着の美女だ。
向日田 時子。
アカデミーの先輩にあたる三期生で、誰に対しても隔てなく明るく、優しい。
「おはようございます、トキコさん」
ボソボソと話しかけ、ちらっと素早く左右を見渡してから、恐る恐るポスターに顔を近づけ、そっと唇を指でなぞる。
それだけで、ソラは満足してしまう。
ポスターにキス?とんでもない。
いくらポスター、しかも自分しかいない部屋の中とはいえ、そんな恐れ多い真似、ソラには出来っこない。
本物に触れることのかなわない現状、ポスターの顔に触れるだけで充分だ。
彼女は高嶺の花、ソラ以外にもカレシの座を狙っている奴はごまんといる。
最大手ライバルは加賀見 優二、ソラにとっては同じく先輩のアカデミー生。
奴はソラと違って都心出身だし、生まれついてのセレブでもある。
つまり、時子さんと同じ世界の住民だ。
――住む世界の違う人。
そういう人なのだ、時子さんという人は。
社長令嬢にして実家が大豪邸の一人娘、加えて、完璧な肉体に美貌。
これで食いつかない男など、男ではない。
頭の回転は早いし、どちらかというとアウトドア系だから体力もある。
少々我が儘で強引なところもあるが、そんなのは女としての魅力の一部だ。問題ない。
そんな住む世界の違いすぎるセレブな女性と、都外出身の田舎者が街中で出会ったのは、神の悪戯か。
出会って以降、ソラは彼女を『命の恩人』として慕っている。
彼女が望む事なら何でも叶えてやりたい。
命だって投げ出す覚悟がある。時子のために死ねるなら、本望だ。
そして彼女がもし、もし百万分の一の奇跡が起きて、彼女が自分を欲してくれたなら、残さず己の全てを捧げたいと、ソラは願っている。
そんな奇跡は今のところ全く起きそうにないのだが。
時子は会うたび、いつもソラに優しくしてくれるけど、その優しさは、ソラ一人だけに与えられるものではない。
彼女の笑顔、彼女と一緒の時間を独り占めできたら……
だが、それは身の丈を過ぎた願いだと、自分でも判っている。
「あ〜ぁ〜なぁ〜たぁ〜?朝ご飯ができましたよォ〜?あ〜ぁ〜なぁ〜たぁ〜?起きてるぅ〜?」
ソラの想いは、ドンガドンガと激しく叩かれるドアの音によって四散する。
声の主を思い浮かべ、ソラは眉をひそめた。
街で偶然出会った少女ビアノは今、ソラの家で居候を決め込んでいる。
曰く、ビアノは脱北者なのだそうだ。謎に包まれた北部からの脱走者である。
行く場所がないというので、ひとまず置いてやっているのだが、これがまた、予想以上に馴れ馴れしい子供で、御飯の時には口移しを要求するし、風呂が沸いたら一緒に入ろうと騒ぎ、夜は一緒に寝ようと言い出す始末。
あまりのベタベタっぷりにソラは辟易して、最終的には鍵をかけた寝室へ逃げ込んだ。
ベタベタしてくる女の子は嫌いだ。
しかも、さしてコチラは好きでもないのに。
だが、これがもし、時子だったら――?
ソラは一瞬妄想の世界へ旅立ちかけるが、ドアの向こう側の騒音が、それを許すはずもなく。
「あ〜ぁ〜なぁ〜たぁ〜?鍵を開けてちょぉだぁ〜い?御飯が冷めちゃうわよォ〜?」
再び扉ドカドカ攻撃にあい、渋々寝室の鍵を開けたソラであった。

「御飯が冷めちゃうって、パンじゃないか」
「そうよ。でもトーストだから冷めちゃう事には変わりないでしょ?」
食卓に落ち着いて、すぐにビアノが「あ〜ん」と差し出してくるスプーンをかいくぐり、トーストに手を伸ばす。
今日の講義は午後からだから、急いで食事をする必要はない。
そう思ってゆっくりしていたのに、ビアノのせいで、ゆっくりする暇もありゃしない。
ソラはトーストを片手にぱくつきながら、傍らのサイドテーブルに重ねてあるチラシの山を一瞥した。
「君の住む部屋も、早いトコ探さなきゃな」
「いいのよ?あたし、ここにずっと住んでいても」
「俺が嫌なんだ」
「あら、どうして?」
「どうしてって」
チラシの一枚を手に取り、ソラがぼやく。
「朝はのんびりしたいし夜は落ち着いて勉強したいんだよ、俺は。君がいたんじゃ、それが出来ない」
「いいのよ?あたしに構わず勉強すれば」
なら始終ベタベタ後をつけ回したり、扉をドカドカ叩かないで欲しいものだ。
彼女がきてから、ソラは一日たりとて安眠できた試しがない。
ビアノが来た初めての夜、鍵をかけずに寝て、酷い目にあったのだ。
いや、酷い目にあいかけた……というべきか。
深夜にゴソゴソ物音が聞こえ、寝入りばなだったソラは目が覚めてしまう。
その時に見たのだ。
今にもキスせんばかりに、己の顔へ距離ゼロ接近したビアノの大アップを!
ご近所一帯に響くんじゃないかって程の悲鳴をあげたソラはビアノを追い出すと、速効で鍵をかけた。
以来、ずっと寝室の鍵は欠かせない。
鍵のかかる寝室のある部屋を借りて良かった、と心底思ったぐらいである。
そうでなくても、隙あらばトイレにも侵入してこようとする相手だ。
気の休まるはずがない。
当然、風呂に入る時も鍵はかけている。
一人になれる場所では、一人になりたかった。
「元々この部屋は一人暮らし用なんだ。君を泊めているのは一時的な処置なんだぞ」
そう言い続けて、もう一週間が経つ。
ビアノの気に入る安い物件は一つとして見つからず、さりとて高い物件となると、お手上げで、ソラは自分の借りたアパートで、ビアノに追い回される日常を送っていた。
「でも、あたしとあなたは運命の赤い糸で結ばれたカップルなのよ?だから一緒にいないと駄目」
「それは、君が勝手にそう思いこんでいるだけじゃないか。もう、行くよ」
「えっ?今日の講義は午後からじゃ」
「行ってきます」
気の休まらない家にいるぐらいなら、少し早いがアカデミーで時間を潰した方が遥かにいい。
ソラは会話も食事もそこそこに席を立つと、ほとんど何も入っていない軽いカバンを手に出ていった。


アカデミーのキャンパスは人もまばらで、ソラの他には、ちらほらと人影が見える程度である。
それもそうだろう。今の時間は、何の講義もないのだから。
「あ……ソラくん、こんにちは」
背後から声をかけられ、振り向いてみれば。
同期生の倶利伽羅くりから 繭優まゆゆがモジモジしながら立っている。
特別仲がよくも悪くもなく、せいぜい講義や食堂で出会う程度の顔見知りだ。
繭優も都心の人間で、生まれついてのお嬢様である。
普通に考えたら、田舎者のソラと仲良くなるメリットなどない。
にも関わらず、いつも彼女のほうから声をかけてくるのは、お嬢様の血が成せる礼儀作法か。
「よぉ、倶利伽羅。早いな」
「ソラくんも」と言った後は途切れてしまい、そこでいつも会話が一旦停止する。
共通の話題も殆どない、その程度の相手である。
「俺、今日は機械工学の講義があるんだけど、倶利伽羅は?」
仏頂面で尋ねるソラへ、繭優が、はにかみながら答える。
「あ、今日は恋愛心理学の講義を受けに……教室、違っちゃうね」
「そうだな」
繭優とアカデミーで出会う時は大抵、同じ講義を受けるのだが、別々とは珍しい。
どことなく寂しげな彼女を見て、こいつって実は友達が少ないのかな?と思ったソラであるが。
だからといって、友達でも恋人でもない女生徒のために講義内容を変える気など更々なく、「んじゃ」と手をあげて、繭優へ背を向けた。
「あ、うん……」
振り返ってみても、やはり寂しげに見えるのはソラの気のせいではないようだ。
あからさまに落胆している繭優が気にかかったものの、今日の講義は絶対に外せない。
もうすぐ最初のテストがある。
講義内容をどれくらい吸収したのか、確かめる為の第一学力テストが。

講義が終わった後も、しばらくソラは校内をブラブラ歩き回っていた。
しかし目当ての時子は登校しておらず、他の友達とも出会いそうにないので、帰る事にした。
家に帰るのは苦痛だ。
ビアノが居候するまでは、憂鬱になることなど一度もなかったのに。
だが、仕方ない。彼女に居候を薦めたのは、他ならぬ自分なのだし。
のろのろペースで歩く自分を叱咤しながらソラがアパートに辿り着いたのは夕刻で、その頃にはビアノも甲斐甲斐しく夕飯の支度を終えて玄関先で待ちかまえていた。
「あなたぁ〜、お帰りなさぁい。御飯にする?それとも」
「メシ」
一言返事で靴を脱ぎ散らかし、ソラはとっとと食卓へ向かう。
「あんっ。靴はきちんと揃えなさいって、いつも言っているでしょォ?」
初耳な小言をスルーして、いただきますも言わんと食べ始めた。
「もう、ダーリンったらテレ屋で無骨なんだから……でも、そうゆうトコが素敵ッ」
このビアノという少女、どれだけソラが邪険にしても全然堪えていないようである。
邪険にすればするほどソラはシャイなのだと勝手なイメージを膨らませて、脳内妄想に浸っている。
ますます陰鬱な気分に落ち込み、ソラは急いで夕飯を食べ終える。
一分一秒でも早く、一人になりたい。
鍵のかかった寝室で。
或いはトイレ、風呂でもいいから。
「お風呂、沸いているから先に入ってね」
ソラは「あぁ」と短く頷いて、ビアノの顔も見ずに風呂場へ向かう。
だから、不覚にも気付かなかった。
彼女の目が、怪しくキラーンと輝いたのには……

前に風呂からあがった時には、ソラの脱いだ下着を頭にかぶったビアノと遭遇した。
彼女曰く「好きな人のパンツって、かぶりたくなるもんじゃない?」との事だったが、さっぱり理解できない。
パンツはかぶるものではなく、履く物だ。
それに洗濯前のパンツなど、頭にかぶったら汚いじゃないか。
まぁ、そういった珍事が起きた後。
洗濯籠に服を放り込む時、下着は必ず一番下に丸めて入れるようになったソラであった。
浴室の鍵をきっちり降ろしてから、ソラはシャワーの前にどっかと腰を降ろす。
鏡に映った自分を見て、思わず苦笑いが漏れた。
家に帰っても仏頂面のままだなんて。
一人で住んでいた頃は、もっと気が緩んでいたはずだ。
「早く探してやんなきゃな……俺のほうが限界来そうだ」
ぽつりと愚痴って、シャワーのコックをひねる。
熱い湯を浴び、頭を洗っていると、不意に背後の扉がガラガラと音を立てて開け放たれた。
「えっ!?」と慌てて振り向くソラの視界に入ってきたのはバスタオルを巻いたビアノの姿で、身構える暇もなく風呂椅子ごと押し倒されて、浴室の床に嫌というほど頭をぶつける。
だが、痛がっている場合ではない。
モロに見られちゃっているではないか、少女に見られちゃマズイものを。
「あ、わわわ」
股間を両手で隠したソラは、馬乗りしたビアノに顔を近づけられて、うっと青ざめる。
キスされるんじゃないかと危惧したのだが、ビアノはソラの体を惚れ惚れと眺めただけだった。
「あぁん、ダ〜リンって意外と細マッチョなのねぇ」
「ほ、細マッチョって何だよ?つーか、入ってきていいって誰が言ったんだ!」
お腹を指でなぞられて、ぞわっと鳥肌が立ってしまう。
逆セクハラだ。警備隊に訴えてもいいレベル。
「そ・れ・に、アソコの大きさも合格点だしぃ〜!」
ビアノは全然ソラの抗議を聞いていないばかりか、視線は両手で隠された場所に一点集中だ。
「ねぇ、綺麗にしてあげる。だから隠さないで、もう一度見せて」
「駄目!駄目ったら、駄目!」
両手を引っ張られ、ソラは精一杯、抵抗する。
「もぉ〜見せてくれないと、チューしちゃうわよ?」
先ほどの予感が今頃的中だ。
ビアノの顔が接近してきて、ソラは無茶苦茶に暴れ、片膝が偶然ビアノの股間を直撃する。
「ぎゃわっ!?」とカエルの断末魔みたいな悲鳴をあげて、ソラの上から転がり落ちたかと思うと、ビアノは股間を押さえてピクピクと痙攣した。
「え……?」
思わぬ事態に、起き上がったソラも呆然としてしまう。
女の子でも、股間に一撃くらうのは致命傷なんだろうか。
「ご、ごめん」と謝るソラに、口から泡を吹き出したビアノが金切り声をあげる。
「ま、まだ取っていないんだから勘弁してよ!」
「えっ?」と、もう一度ソラはキョトンとなった。
驚く彼の前でビアノは、己の股間を両手でもみほぐす。
手の隙間からチラチラ見える、自分の股間についている物と同じ物を見つけて、ソラは三度、驚かされたのであった。
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