キタキタ
1.キタカラ、キタ
スクールを卒業してアカデミーに入れば、新しい変化が訪れると思っていた。
だが実際に入ってみたら、スクールの延長が、どこまでも広がっているばかりで。

期待していた自分が、馬鹿みたいだ。
――否。
何がどう変われば、自分は満足したのだろう。

軽く溜息をつき、向井野むかいの 空はアカデミーの敷地を歩いてゆく。
入学後、一通りクラブと名のつく物には体験入部し、それのどれにも入部を決めずに終わった。
どれもソラを満足させる活動内容ではなかったのだ。
スクールでやっていたクラブと一緒で、目新しい物が何一つない。
友達は、それなりに居る。男友達が、たくさん。
しかし何処か皆には距離を置かれているような気が、ソラにはしないでもない。
何を話していても、最終的には「ソラは堅物だなぁ」で締められてしまう。
自分は堅物なんかじゃないのに。不服だ。
女子で仲の良い人は居ないのか?と言われたら、一人だけ思い当たる人物がいる。
二年先輩の三期生、向日田むこうだ 時子さんだ。
だが仲がよい――などと言ってしまうのは、少々照れくさい。
だって彼女はソラにとって、恩人である。
あの時の出来事など、たぶん本人は全部さっぱり忘れてしまっていると思う。
でも、自分は絶対に忘れない。
彼女に命を救ってもらったからこそ、ソラは今、こうして生きているのだから……


ソラが都外から都心に引っ越して、もうすぐ一年になる。
自立を条件に、両親にアカデミー入学の許可をもらった。
その代わり、仕送りは一切なし。完全独立生活である。
一人暮らしは大変で、特に大変なのが食糧の管理だと、ソラは思っている。
最初の頃は買い込みすぎて腐らせてしまったり、かと思えば、少なすぎて慌てて近くの店まで買い出しに出かけたり。
それに、ここは故郷と比べて物価が高い。
そうでなくても仕送りはゼロなソラにとって、生活資金は死活問題。
食べるためには、たとえアカデミー生といえど働かねばならない。
昼間はアカデミーに通い、夜は労働に精を出す。
その生活に慣れてきたな、と思えるようになったのは、つい最近のことだ。
手にした買い物メモにちらり一瞥をくれ、ソラは一人呟いた。
「あとは……MURUDAに寄ってシャツと下着の補充でもしておくか」
MURUDAムルダは、衣料品を扱っている店。
時々セールと称して、五十パーセント半額販売を行っている。
数少ない庶民の味方だ。
ソラは基本、ここで衣類を調達している。
生まれついての金持ちには見下される格好だが、ソラの通うアカデミーには都外からの移住者も多い。
つまり、ムルダー仲間がいっぱい居るというわけだ。
店内で友達の誰かに出会うことを期待して、ソラはMURUDAに一歩入りかけた。

そんなタイミングだった。
突然、グイッと引っ張られる感触を背後に受けたのは。

「待って!」
甲高い呼びかけに振り返ると、鮮やかな桃色の髪の毛が視界に飛び込んでくる。
頭二、三個分は小さいんじゃないかって女の子が、しっかりソラの服の裾を掴んでいて、迷子かな?という考えが一瞬、彼の脳裏を横切った。
なので「君、迷子?お母さんは?」と尋ねたのだが、返ってきたのは百八十度ほど方向の違う返事だった。
「見つけたわ、運命の人!あなたとあたしは結ばれる為に生まれてきたの!」
「……はぃ?」
ソラの前で、少女が語り出す。瞳をキラキラ輝かせて。
「遊歩道で、あなたを見かけた時から気付いてしまったの!これは運命の出会いだって。きりりと結ばれた口元、灼熱の赤い瞳、澄み渡る空の如し鮮やかな青の髪……あぁんっ。これこそ、あたしがずっと求めていた理想の旦那様に間違いない!って思ったのッ」
少し釣り目の大きな瞳で、なかなか可愛い顔立ちではあるのだが、おつむのネジは残念ながら、お母さんのお腹の中に置き忘れてきてしまったようだ。
内心唖然としながらも、口はむっつりへの字に曲げたソラの手を取り、少女は尚も熱く語りかけてくる。
「寡黙なのね、そんなトコも素敵……!大丈夫よ。あなたが話すのを苦手としていても、饒舌なあたしをお嫁さんにすれば!ほら、よく言うじゃない。凸凹コンビって。あたし達の相性はバッチリね!」
――もしかして、ナンパされているのか。
そう気付いた時には、すっかり二人のまわりは人垣で覆われており、ソラは猛烈に恥ずかしくなってきた。
「それは、ともかく。店の前で立ち話ってのもなんだし、どこか座れる場所へ移動しないか?」
焦って切り出せば、少女はぎゅぅっとソラの手を熱く握りしめたまま、頬を染めて俯いた。
「やだぁ、座れる場所に移動して、どうするつもりなの?そんなの、まだ早いじゃない……あたし達、まだ知りあったばかりなのにィ」
お互い名乗りもしない内から、お嫁だのお婿だのと騒いでいた奴には言われたくない。
それにまわりの人垣。心なしか、増えてきた気がする。
「いいから、行くぞ!」
やや強引に少女の手を取り、ソラは大股に歩き出す。
「きゃっ。もぉっ、強引なんだからぁ〜」と喜ぶ少女にも一切お構いなく。
あまりにも急いでいたので、だから彼は気付かなかった。
群がる人垣の中で、異様なほど剣呑な目つきで二人を見つめる人物が、一人二人居たことに。

MURUDAのある通りから、三本ぐらい道を離れたアーケードの一角。
ステラハウスと看板の掛かった喫茶店に落ち着くと、ようやくソラは汗ばんで気持ち悪かった手を放す。
「一体なんなんだ、君は。ナンパなのか?それとも、宗教の勧誘?」
むっつり尋ねるソラに対し、少女は潤んだ瞳を向けてくる。
「さっきから言っているでしょ、運命の人だと思ったって。チョー好みなのよ、あなたって!」
「要するに、ナンパ?」
「そうよ」
あっさり認められ、ますますソラの口元はへの字につり上がるが、少女は構わず名乗りを上げた。
「あたし、ビアノ!あなたは?」
「……ソラ。向井野 空」と答えてから、ソラも聞き返す。
「苗字は、何?」
「苗字?」
ビアノはキョトンと小首を傾げる。
「苗字って何?」
今度はソラがキョトンとする番だ。
「えっ?苗字、ないのか?でも、苗字がないと不便だろ。住民登録や宅配の受け取りに……」
それに、ビアノだって?どういう字を当てるのだろう。
美亜乃?媚彼埜?いや、もしかして鼻蛙布とか……まさかね。
首を傾げるソラに対し少女ビアノは、あっけらかんと正体を明かす。
「あたしね、北から来たの」
「北からって……都心の北?」
「そっ」
都心の人間だったのか。
それにしちゃあ、全然垢抜けていないけど。
むしろ、この無知さ加減、てっきり都外の僻地から来た人間かと思ったのに。
僻地になら苗字のない連中もいるというのを、今更ながら思い出す。
でも彼女は都外の住民ではないから、関係ないか。
「具体的には、都心のどの辺?」
ソラの問いに、ビアノが答える。
「んっとね、国境の向こう側」
ソラの目が点になった。
いや、見た目は不機嫌なままだが、心の目が。
「……はいィ?」
確かに都心の北には、国境がある。
この大陸、エムルブログ大陸の北部と南部を分かつ境界線だ。
北部には魔王が眠るとも戦争の傷跡が残るとも言われ、事実上、封鎖されている。
何人たりとも、国境を越えることは許されない。
つまり、その国境の向こう側から来た、ということは……
「だっ、脱北者!?」と叫んでしまってから、ソラは自分で自分の口元を勢いよく塞ぐ。

脱北者だっぽくしゃ……

北部側から国境を越えてやってきた者を指して、そう呼ぶのであるが、本来ならば存在してはいけない人物である。
法で国境越えが禁止されている以上は。
脱北者だと判った途端、差別を受けることもある。そういう扱いだ。
「そうよ」と、しかしながらビアノの返事は軽快で。
「あたし、北から来たの。ここじゃ北部って言ったほうが判りやすいかな?」
そこからは脱北者の鬱屈や悲壮感は、全く伺えない。
「そっ……そうなのか……」
うまい相づちが思いつかず、ソラは冴えない言葉を漏らすばかり。
「それでね」とビアノの話はまだ続いていたので、目線で彼女を促した。
「あたし、行くトコないんだ。だから、ね?ソラの家に置いてくれると助かるんだけど」
「えっ……?」
ポカンとするソラの手を握りしめ、ビアノは、もう一度繰り返す。
「あたし、行くトコないんだ。だから、ね?ソラの家に置いてくれると助かるんだけど」
「い、いや、しかし」
「あたし、行くトコないんだ。だから、ね?ソラの家に置いてくれると助かるんだけど」
「……何回も言わなくても、聞こえているし」
何を言われているのかも、充分理解している。
ただ、あまりにも突然すぎて返事に迷っていただけだ。
「あたし、行くトコないんだ。だから」
壊れた蓄音機みたいに繰り返される台詞を遮って、ソラは答えた。
「わ、判った!判ったから。ちゃんとした住まいが見つかるまでの間は、俺の家に居てもいいよ」
警備隊に突き出すってのは、真っ先に考えた。
しかし彼女が脱北者である以上、それも躊躇われた。
北部から来た連中が連日政府から厳しい取り調べを受けているという噂も、聞き及んでいる。
目の前の少女は歳の頃、ざっと見て十代か、そのくらいだ。
そんな若い子を拷問へ追い立てるのは、ソラとしても心苦しい。
それに、せっかく南部へやってきたのだ。
ビアノには、南部の良さを知ってもらいたい。
少々言動のおかしな子ではあるが、突き放してしまうのも薄情といえよう。
「ホント!?やったぁ〜!」と、ビアノは大喜び。
引き受けて良かったと自己満足に浸るソラの耳に続けて聞こえてきたのは、こんな言葉で。
「これでもう、結婚フラグは回収されたも同然ねっ。ふつつか者ですが、よろしくお願いしま〜す。ダーリン!」
うるうると瞳を潤ませ、頬を赤らめたビアノと目があった。
「え、ちょ、ちょっと、違うぞ!?そういうつもりで言ったんじゃないっ。君の住む場所が見つかるまでの間だって!なぁ、聞いているのか!?俺の話!」
喫茶店に響いたソラの悲鳴は、ほぼ百パーセント、ビアノの耳には届かなかった。
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