毎日が同じリズムの繰り返し――
そう思っていた時期が、柳にもあった。
だが、その日。
柳は、いや、三課の全員が目を丸くして異常事態と遭遇する。
その事態とは……
「おはようございまーす!」
「やぁ、おはよう。今日も早い……」
須藤へ振り返った長田は、早いねの「ね」を言い終わる前に硬直する。
なんだ、あれは。
自分の見た物が信じられず、二度三度、目を擦ったが、そんな程度じゃ消え去らない。
背後で缶コーヒーを落とす音、これは多分内木巡査だろう。
同じく視線は前を向いているはずだ。ポカーンとした顔つきで。
「す、須藤くん」
震える声で呼び止めると、今まさに自分の席へつこうとしていた須藤が振り返る。
「はい?なんでしょう」
「なんでしょうじゃないだろ。その、背中の物は一体……?」
「あぁ、それは」と言って、須藤はヨイショッと背中をひと揺すり。
背中のものが「だァだァ」と可愛らしく鳴いた。
「お隣の奥さんに頼まれたんです。どうしても今日一日、預かって欲しいって」
そう。
須藤は赤ん坊を背負ってやってきたのだった。ここ、三課の部署へ。
「な……何考えているの!?ここは託児所じゃないのよ、警察よ!」
ヒステリックに内木が喚くのへは、真剣な顔で受け答える。
「けど、市民が困っている時は俺達が助けてあげなきゃ駄目でしょう?」
「いや、それは……確かに、そうなんだが」
ぶつぶつと呟き、長田は近くの机に寄りかかる。いかん、目眩がしてきた。
これまでずっと須藤の成長を見守ってきた。
可愛い後輩であり、模範的な警官でもある。
一度として問題を起こした事などない。
それが何故、今になって、こんな面倒を引き起こしてくれるのか。
「君自身が託児所へ行って預けてくるという手段はなかったのかい?」
「それが、出がけに頼まれてしまって。遅刻してはいけないと思ったものですから」
「遅刻したって構わないよ、署に赤ん坊を背負ってくるよりは」
「でも」と一旦言葉を切り、須藤は背中の赤ん坊へ目をやった。
「任されたのは自分です。今日一日は俺が守ってあげないと」
「なんや、隣の奥さんに弱みでも握られとるんかいな?」とは柳の茶々にキッと振り返ると、須藤は鼻息荒く答えた。
「あの人には、お世話になっているんだ。あのアパートに越してきた時から!人として恩返しもできない人間に、正義なんて語れるもんかッ」
かと思えば今度は長田のほうを振り向き、眉尻をあげて尋ねてくる。
「ですが、職場に幼児を連れてくるなと言うのでしたら従います。今日は休ませてもらいますが、宜しいですね?」
何事にもまっすぐなのは須藤の長所だが、反面、応用性がないのは困りものだ。
良くも悪くも、融通が効かない。
どこまでも定められた軌道の上でしか行動できないのだ。
困っている人を助けるのが警察の義務だから、育児を引き受けた。
遅刻してはいけないから、出がけで時間のない時に任された幼児を連れてきた。
連れてきてはいけないと長田に言われたので、赤ん坊の為に休暇を取る気だ。
頑なすぎる。
ある意味、一番扱いに困る人物である。
この一年、ずっと彼を見守ってきた長田の出した結論は、それであった。
しばし天井を仰いで考えた後、長田はポツリと撤回した。
「あー……いいよ、判った。赤ん坊の面倒は皆で見よう。今日は休まなくていい、須藤くんの責任感に免じて幼児の入室を許可するよ」
「ちょ、ちょっと、長田くん!いいの?トンヌラさんに許可取らなくて」
内木からは抗議の声があがったが、長田はヒラヒラと手を振って力なく笑う。
「大丈夫、田沼さんは寛大だから許してくれるさ。あの人、子供が好きだしね」
「長田さん!ありがとうございますッ」
勢いよく頭を下げる須藤にも、いいよいいよと手を振って、長田は人知れず小さく溜息をついた。
後輩の子守だけでは飽きたらず、本物の子守までするハメになるとは。
人生って、何が起きるか判らない。
いつもは早く終われと思いながらパソコンと向かい合っているのだが、この日の柳は水を得た魚の如く生き生きとしていた。
「は〜い、ミルクでちゅよ〜。あ〜ん」
赤ん坊を抱きかかえ、ほ乳瓶をあてがっている。
「うわぁ、きめぇ」と横で小泉が眉をひそめるが、それにもお構いなしだ。
「お前、子供好きだったのかよ?」
意外なものを見る目で同僚の宮坂が問えば、柳は自信満々な顔で応える。
「あぁ、そらぁ、よう世話しとったやさけ。昔はな」
「もしかして、下に弟か妹がいるとか?」と、これは小池の質問へ。
「ちゃうちゃう、昔つきあっとったオンナが子持ちやったんや」
事もなげに問題発言を繰り出すと、ミルクを飲んだ赤ん坊の背中をトントン叩く。
「よう子守しとったで。おかげで育児に関しては百戦錬磨になってもうた」
「へー、じゃあ、お前と結婚したら育児しなくて済むってわけだ、奥さんは」
妙なところで小泉も感心している。
「てなワケやねんで、真ちゃんは心おきなく仕事しぃや」などと言っているが、仕事をしなければいけないのは柳や小泉達も同じなはず。
世話を言い出したのは須藤だが、赤ん坊は、すっかり柳達に取り上げられてしまった。
彼らがやるはずだった仕事の山は、今は自分の机に積み重なっていた。
仕方なく、一人モニターと睨めっこしながら須藤は考える。
もしかして、自分は貧乏くじを引いたのではないか?
だが、そんなモヤモヤは唐突に泣き出した赤ん坊の声で四散した。
「おい!百戦錬磨、しっかりしてくれよ」
「しゃーないやん、おもらししよったんやもん!真ちゃん、オムツ持っとる?」
そんなもの、持っているわけがない。
「買ってくる」と席を立ちかけた宮坂を制し、須藤は戸口まで駆けていった。
こんな時ぐらいは役に立たなきゃ、誰が子守を任されたんだか判らない。
須藤が出てすぐ、田沼が血相を変えて入ってきて、荒々しく部署内を見渡した。
「赤ん坊は、赤ん坊は……どこだぁっ!」
「ここにおりまっせ」
ハーイとあげた柳の手を引っつかみ、田沼が精一杯凄んでみせる。
「赤ん坊を連れ込んだ張本人は何処にいる?」
柳は「オムツ買いに行きよりましたで」と肩をすくめ、田沼はグギギと歯がみした。
「ここは、いつから託児所になったんだ!?お前ら、仕事はどうした仕事は!」
「あ、えぇと、その、仕事は先輩達が任せろとおっしゃいまして、それで、そのぅ、我々は赤ん坊のお守りをすることになりました。今日一日いっぱい」
しどろもどろに小池は言い訳を試みるが、田沼の怒りは収まらない。
「とにかく!一時間以内に、その子を何とかしろッ。三島警部補に見つかる前にだ!!」
何のことはない、警部補に見つかったら自分が怒られるから憤っているのだ。
全く、何が子供好きだから寛大に許してくれるんだか。
文句を言おうにも、言い出しっぺの長田は事件対応に出ていて留守の身である。
だが一時間以内に何とかしろと言われても、こっちだって困るというもの。
「買ってきたぞ、オムツ!」
息せき切って戻ってきた須藤を呼び寄せ、新米一同は額をつきあわせる。
「どうする?三島さんが来る前に片付けろってよ、この赤ん坊」
「なんや、トンヌラはんにナシつけといてくれなかったんか長田はん」
「仕方ないだろ?長田さんは電話で呼び出されて出てったっきりなんだから」
「それより早く託児所に電話したら?」と切り出したのは櫻井で、受話器を取った宮坂から、さらに受話器を奪い取ると、強い調子で須藤は拒否った。
「駄目だ!今日一日は俺が預かるって約束したんだから」
「そんなこと言って、お前、クビになっても知らないぞ?」
心配する小池へは、柳が無責任な調子で受け応える。
「こんな程度じゃクビにゃ〜ならんやろ、せいぜい自宅謹慎がエェトコや」
「どうしよう、でも」と話は最初まで戻り、押し問答。
そうこうしているうちに、廊下を見張っていた宮坂が叫んだ。
「三島さんがコッチくるぞ!」
「須藤、隠せ!赤ん坊をっ」
「えっ?ど、どこに?」
足下に潜り込み、小泉が赤ん坊を須藤の股の上に押し込んでくるもんだから、くすぐったさに須藤は「あふんッ」と情けない声を漏らし、仰け反った。
「じっとしてろっての!いいか、絶対隠し通せよっ」
「くぅ……わ、わかった」と、須藤が答えるか答えないかのタイミングで三島が入ってくる。
入ってすぐに違和感を覚えたのか、警部補は部署内をぐるりと見渡した。
長田を始めベテラン連中だけが外出しているとあれば、どんな鈍感上司でも気づくはずだ。
「どうした?何故全員が残っている。留守番を命じられたのか?」
「は、はいッ!」
立ち上がり、ガチガチに緊張しながら小池が答える。
「本日、我々は書類整理を任されました。そ、外回りからは除外されております」
「本当か?」
「ハイッ、本当であります!」
嘘は言っていない。
外回りは任せろと先輩諸氏が言ってくれたのは本当だ。
ただし部署で待機する本当の理由は書類整理ではなく、子守だったのだが……
「……須藤巡査」
名を呼ばれ、須藤はビクッと体を震わせる。バレたのかと思ったが、そうではなかった。
「どうした、背中が痒いのか?先ほどから落ち着きがないようだが」
「い、いぃえ、ただ、その、にょ、尿意が近くて」
股の上を赤ん坊の手が、もちゃもちゃ動いていて、それがくすぐったくて堪らない。
「ならトイレへ行ってくればいいだろう。我慢する必要はない」
「い、いえ、でも先に打ち込みを完了させないと、いけませんから」
「尿意を我慢してまで仕事を優先する必要はないと言っている。いいから、早く行ってこい」
三島の背後では宮坂が下手な言い訳しやがって、とでも言いたげな顔で、こちらを睨んでいる。
確かに今のは自分でも上手くなかったと須藤は考え直し、慌てて取り繕った。
「あ!にょ、尿意おさまりました、もう大丈夫ですっ!」
三島は「そうか……?」と、尚も怪訝な表情を崩さず尋ねてくる。
「全員で任されているという割に、書類の束が置かれているのは君の席だけだな。まさかと思うが、連中は君一人に全てを押しつけていったのではあるまいな?」
答えるかわり、須藤の口から漏れたのは「あふぅんっ」という気持ち悪い喘ぎ声で、三島も一歩退き、気味悪そうに声をかけてよこす。
「ど、どうした?」
「な、なんでもあり、ま、せんっ」
返す言葉も震えている。須藤はたまらず、背中を丸めた。
まさか亜美可さんちの次女が須藤のオマタをモミモミしているなどとは、さしもの三島でも予想できまい。
ぶるぶる震える須藤の姿に、ただならぬものを感じたか、三島が彼を抱き起こそうとした時、実にタイミング良く長田が戻ってきて、須藤の名を呼んだ。
「須藤くん、表玄関に面会希望者が来ているよ。市川さんというご婦人で、君に預けた――」
三島に気付いた長田が口元を抑えるのと、須藤が立ち上がったのは、ほぼ同時で。
「お、おいっ!?その、その両手に抱えたモノは何だッ!?」
珍しく取り乱した三島の怒号を背に、須藤は「失礼しまァす!」と廊下を駆け去った。
助かった。
一日だけなら何とかなると思っていたけど、とんでもなかった。
今度頼まれることがあったら、絶対に休みを取ろう。
赤ん坊を抱きかかえて廊下を走りながら、そう思った須藤であった。