「おい、須藤。今日、お前んち開けとけよ」
昼下がりの署内にて。
一課の広瀬巡査に呼び止められた須藤は、思わず素で「ハァ?」と返してしまった。
「ハァ?じゃねぇよ、ハァ?じゃ。ったく、いつになっても先輩への口の訊き方を覚えやがらねぇな、お前は」
すぐさま広瀬には怒られて、須藤は慌てて謝ると、改めて聞き直す。
「はっ、いえ、す、すみませんでした!それで、家を開けろとは一体どういう意味ですか?」
「文字通りの意味だよ。お前、今日はカノジョを連れ込んだりするんじゃねーぞ」
「いっ、いませんよ!カノジョなんて!!」
うっかり須藤は大声で叫んでしまい、廊下で注目の的となる。
おかげで「いねぇのか?」と広瀬にまで可哀想なモノを見る目で見られてしまい、内心、須藤はブゥ垂れる。
広瀬だってフリーのくせに、カノジョの件でどうこう言われたくない。
「お前んちが一番見張る場所に適しているんだ」
「見張るって、何をですか?」
「容疑者をだよ!お前も刑事なら、すぐにピンと来い」
なかなかどうして、広瀬も無茶を言う。
要するに、事件に関わる容疑者を見張る場所として、須藤のアパートが選ばれた。
そういう事だろう。
ようやく納得した須藤を廊下へ置き去りに広瀬は去っていき、代わりに長田と三島が声をかけてきた。
「須藤くん。今日、君の家に一課の連中が押しかけるそうだ」
「えぇ、聞きました。あの、俺も一緒に見張らないと駄目ですか?」
須藤は長田に尋ねたのだが「いや、」と首を真横に振ったのは三島警部補で。
「事件は一課の管轄だ。君は部屋を貸すだけでいい。捜査の邪魔になりそうだと思うのならばホテルを手配するが、どうする?」
「い、いえ!そこまでしてもらうわけには……」
遠慮のつもりで辞退する須藤へ、三島の反応は遠慮がない。
「しかし管轄外の人間など、いても邪魔になるだけだ」
「じゃっ、邪魔って!俺は、いえ自分は邪魔したりなどッ」
ついカーッとなって言い返したら、見かねたのか長田が割り込んできた。
「俺も行っていいかい?須藤くん」
えっ、となったのは須藤一人じゃない。三島も怪訝な表情で部下を諫める。
「遊びではないんだぞ」
「判っています」
真面目な顔で頷いたかと思うと、須藤には笑顔を向けて長田が言う。
「須藤くん一人じゃ何かと大変だろうしね。彼らの食事も用意してあげないといけないし。俺も手伝うよ」
恐らく今の長田は、天使のように映っただろう。須藤の視界には。
「なっ、長田さぁぁん!」
羨望のまなざしですがりつく須藤に気をよくする長田とは裏腹に、三島は呆れた。
こいつがホテル宿泊を拒否したのは、長田のフォローをアテにしていたからか?
上司に勘違いされたのにも気づかず、降ってわいた幸運に有頂天な須藤であった。
車で帰宅するのは、初めてだった。
「へぇ。いかにもな安アパートに住んでんだな」
広瀬に軽口を叩かれて、須藤はムッとなる。
何か言い返すよりも先に、長田が広瀬を窘めた。
「そんなふうに言っちゃ、住民の皆さんに失礼だろ」
折しも一階の住民が顔を出し、品定めするかのように眺めてくる。
「おぅ、悪かった。んじゃあ須藤、お前の部屋に案内してくれや」
さすがに巡査だのと呼び合うわけにもいかず、長田も広瀬も呼び捨てだ。
「あ、はい。じゃ、こちらです」
「なんだよ、エレベーターもないのかよ」
ぶーたれる一課の刑事を引き連れて、須藤は自部屋の鍵を開ける。
一歩入った途端、広瀬が露骨に眉をひそめた。
「うわっ、汚ェなぁ。なんだこれ、靴が脱ぎっちらかされてんじゃねーか。お前、一人暮らしで玄関先がグチャグチャって、どんだけ整理整頓できねぇんだ?」
「きょ、今日は遅刻しそうだったから……いつもは、こんなんじゃ」
「おーい、須藤。カップ麺のカップ、洗ってもいねーのかよ?」
今度は台所へ入り込んだ先輩諸氏の声が聞こえてきて、靴を脱ぐのも、もどかしく、須藤は慌てて台所へ飛び込む。
「だからっ、今朝は急いでいたから洗う暇がなかったんです!」
「朝からカップ麺かい?バランスの悪い食事は駄目だよ、須藤くん」
長田までもが覗き込んできて、お説教をかます始末。
「す、すみません」と項垂れる須藤を横目に、何人かは窓に張り付いた。
「やっぱな。こっからだと、よく見えるぜ」
「張り込み場所にして正解だったな」
須藤も広瀬の肩越しに覗き込もうとすると、怒られた。
「おい、そっから覗き込んだら向こうに気づかれっちまうだろうが!いいから、お前は部屋の隅っこに座ってジッとしてろ」
家主に対して、あんまりな言いようである。
さっそく長田が飛んできて、しょげる須藤をフォローした。
「須藤くん。見張りは皆にお任せして、俺達は食事でも作ろう」
「は、はい……」
そこへ割り込んできたのは、広瀬の声。
「厚志、ツマミはいつもので頼むわ」
視線は窓へ向けたまま、手だけをヒラヒラさせる彼へ、長田が頷く。
「うん、判っているよ」
"いつもの"だけで通じてしまうツマミって何?
そんなに毎日毎日、長田は広瀬の為にツマミを作っているのか?
須藤は釈然としないものを感じたのだが、聞き返す暇など与えられるはずもなく、台所に引っ張り込まれた彼は、長田に囁かれた。
「須藤くんも作り方を覚えておくといい。夜食に最適だからね」
そう言って、ウィンクする。
一課の連中には聞こえぬよう、須藤も小声で尋ねた。
「長田さんは、いつも広瀬さんにツマミを作ってあげているんですか?」
「いつもって訳じゃないよ。たまにね、遊びに行った時に」
そうか、遊びに行ったりするほど仲良しなのか。
ますます不機嫌になる須藤を余所に、長田は鼻歌など歌ってご機嫌だ。
しかし、それにしても。実に手慣れている。
卵を片手で割り、目分量で油を入れて、ジャッと軽くフライパンで炒める。
流れる動作に、ぼぉっと須藤が見とれていると、広瀬達のボソボソ声が聞こえてきた。
「ヤロウのご帰宅だ」
「一人か……仲間は部屋、かな」
「いや、部屋に人の影はない。やっこさん一人らしいな」
「おい須藤、電気はつけんじゃねぇぞ?」
広瀬に言われ、電灯のスイッチへ手を伸ばしかけていた須藤はビクッとなる。
どうして判ったんだろう?こっちを見てもいないのに。
ツマミの乗った皿を持って、長田が足音を忍ばせて近づいてくる。
「須藤くんは俺の手元を案じてくれたんだろ?でも大丈夫、これでも夜目は利くほうなんだ」
窓際からは舌打ちも聞こえてきて、須藤は恥ずかしさと申し訳なさで顔もあげられない。
張り込み場所で灯りを使わないのは、刑事なら誰でも知っている初歩のルールだ。
須藤だって、もちろん知っていた。
それでも長田が包丁で怪我したら、という思いが先走り、暗黙ルールを破りそうになった。
もし灯りをつけていたら、容疑者に感づかれるなり逃げられるなり、したかもしれない。
三島の言葉が脳裏をかすめる。
――管轄外の人間など、いても邪魔になるだけだ。
「も……申し訳、ありません」
深々と謝罪する須藤の肩を抱き、長田は慰めた。
「そこまで謝る必要ないよ。それより、俺を気遣ってくれてありがとう」
「長田さん……」
うるうるする須藤と長田、二人の時間を一課の刑事が打ち壊す。
「おぅ、感動の師弟愛は、そこまでにしろ」
「どうしたんだ?」
すぐさま長田は刑事の顔に戻り、まだ戻り切れていない須藤も潤んだ瞳で暗闇を覗く。
「女だ。女と男が一人ずつ、入っていったぞ」
「よし……情報通りだな」
などと、一課の連中だけで頷きあっている。
管轄外の部外者だから、事件のあらましを教えてもらえないのは仕方ないとしても、少しぐらいは何が起きているのか、状況を説明してくれてもいいのに。
なんて須藤がむくれていると、広瀬がゆっくり後退する。
広瀬だけじゃない。一課の刑事全員が、緩やかな動作で扉へ向かっている。
「の、乗り込むんですか?」
須藤の問いには目線で返し「いくぞ」の合図をきっかけに全員が表へ飛び出していき、部屋には須藤とツマミと長田だけが残された。
「……ま、後は高明達が上手くやるのを祈ろうか」
「は……はぁ……」
張り込むって聞いた時はワクワクしていたのに、いざ終わってしまうと何だか呆気ない。
気の抜けた須藤を横目に、長田は小さく微笑んだ。
「ツマミ、食べる?」
皿ごと差し出され、「あ、はい……」と受け取った須藤は一口食べてみる。
スパイシーでありながら、甘みも感じる。
ビールの欲しくなる味だ。
「……おいしい」
「そう。良かった、須藤くんの口にも合って」
「こんなおいしいのを、広瀬さんは毎日」
「だから毎日じゃないって。時々だよ」
長田には苦笑されたが、時々だろうと嫉妬の炎だ。
「こんなおいしいのを、時々でも食べていたんですね……」
尚もブツブツ呟く須藤へ、長田が耳打ちした。
「なら、今度作りにきてあげるよ。リクエストがあったら、材料を君のほうで揃えてくれると有り難いな」
「えっ?」
何事も、言ってみるものだ。
その日を境に、帰宅後の楽しみが一つ増えた須藤であった。