その日は、朝から署内が賑わっていた。
「えっへっへー♪」
皆に囲まれて得意満面で立っているのは、新人女性警官の櫻井である。
なんでも昨日、商店街で引ったくりを現行犯逮捕したらしい。
「やるじゃん、櫻井!」
「お手柄だな!」
普段は彼女をからかってばかりの面々も、今日は手放しで褒めている。
先輩方に褒められて、櫻井は頬が緩みっぱなしだ。
「へっへっへー、やるときはやりますよ、私だって!ほらほら、柳くんに小泉くん?チミ達、頭が高いぞよ〜」
「へへー、ひらにー、ひらにぃーっ」
彼女の冗談に乗っかって、土下座の真似をする二人組。
そんな光景を微笑ましく眺めていた長田は、ひとしきり沸いた場を取り仕切る。
「皆も櫻井さんに負けないよう、精進してくれ。けして犯罪を見逃したりしないように」
「ハイッ!!」と綺麗に新人諸君の返事が重なって、場は解散となった。
先輩方の前では良き後輩を気取っていた面々も、自分の席に帰ってくるなり素に戻る。
「ったく、いいよな櫻井は。俺も偶然、引ったくりの現場に出くわしてみてえわ」
「犯罪の現場って、ありそうでなかなか見ないよな」
警官にあるまじき、不謹慎な会話を繰り広げているぐらいだ。
すごいな櫻井と褒めていた裏では、皆、彼女を羨ましがっていたのは言うまでもない。
警官にとって大切なのは、市民の平和を守ること――とは、表向きの建前であり。
本音では、名声や勲章を得ることが、何よりも彼らの間で重視されている。
従って比較的扱う事件の多い課に入りたいという者も多いのだが、希望した部署にすんなり入れるなら誰も苦労しない。
須藤だって、本当は第一課を希望していたのだ。
だが実際に配属されたのは三課であり、華々しさとは、およそ無縁な部署だった。
「リアタイで見とった人達の話やと、キレェ〜な背負い投げ一本やったらしいで」
「へぇー」
柔道なら警察学校で嫌というほどやってきたから、投げた事自体には驚かない。
驚いたのは、先ほどの話では微塵も出てこなかった状況を、柳が知っていた点だ。
「あ、でも捕まったのって五十から六十ぐらいの、初老の男性だったんだろ?よく投げられたなぁ、櫻井さん」
櫻井は、身長百六十センチそこそこの小柄な体格だ。
そうでなくても女性が男性を背負い投げする瞬間なんて、滅多に見られるもんじゃない。
「櫻井が地面にオッチャン叩きつけた瞬間、周りから『一本〜!』って声あがっとったわ」
「そこまで詳しく知ってるってこたぁ、お前、リアルタイムで現場にいたな?」
背後からの声に「トーゼンや」と柳が堂々暴露した瞬間、後ろから羽交い締めにされた。
ひっ潰れた蛙の如く「ぐぇぇっ」と呻く柳の首をグイグイ締め上げているのは、広瀬だ。
猪刑事と悪名を取る、一課の名物刑事である。
「どうせ、お前はサボリだったんだろーがっ。厚志が血相変えて探し回っていたぞ、あんま先輩に迷惑かけるんじゃねぇ」
「せ、せやけど俺も見回り行きたかったんやけど、どなたも誘ってくれへんから」
なかなか素直に謝らない柳を、ぽいっと解放すると、広瀬は往生際の悪い後輩を見下ろした。
「だったら、次からは先輩を誘って出ていくこったな」
「ハ、ハイ。肝に銘じときますわ……」
柳の事だから、恐らく制服も着ないで出ていったのだろう。
民間人に紛れていたんじゃ、櫻井が気づかなかったとしても無理なきこと。
一連の大騒ぎをニヤニヤ眺めていた須藤は、ふと長田の姿が見あたらないことに気づく。
「あれ、長田さんは?」
「厚志か?あいつなら、櫻井のお嬢ちゃんと一緒に廊下にいたぞ」
ありがとうございます、と広瀬に頭を下げて須藤が廊下へ出てみると、あぁ、いたいた。
確かに二人とも廊下の端で何か話している。
聞き耳を立てるつもりはなかったが話すタイミングを伺ううち、須藤の耳に入ってきたのは……
「しかし、すごいな本当に。櫻井さん、お手柄だったね」
「ありがとうございます!」
「もう、これなら俺の世話もいらないかな?」
「え!いえっ、まだまだ長田さんには教えてもらいたいことが、イッパイあります!!」
「そう言ってくれると嬉しいね」
「え、えへへ。……あ、あのっ。長田さん、今日の帰りは空いていますか?」
「今日の帰り?」
「は、はい。あの、もしよかったら……良かったら、なんですけども」
「何だい?」
「い、一緒にお食事とか……ど、どうかなぁーと思って。駄目ですか……?」
もじもじと恥じらう櫻井に、長田はしばし考えた後。
「いいとも」
にっこり微笑む姿に櫻井はウルウルと瞳を潤ませ、須藤は――
くるりとUターンし、早足にその場を立ち去った。
ショックだ。
いや、何がショックなのか自分じゃよく判らないが、とにかくショックだった。
櫻井の誘いをOKする長田を見た瞬間、ゲンメツしてしまったのだ。長田に。
尊敬する先輩に幻滅するなんて、それもショックだ。
自分にも幻滅してしまい、訳の判らない感情を抱いた須藤は、警察署を飛び出していった。
「柳、須藤くんは何処に行ったんだ」
長田が自分の席へ戻ってきた時、須藤の姿は何処にもなく、爆睡中だった柳は揺すり起こされ、しばらく不機嫌そうにしていたが、投げやりに応えた。
「知りまへんがな、俺ァ真ちゃんのお守り役ちゃいますし。トイレとちゃいまっか?」
手を拭き拭き入ってきた別の同僚が「いや、トイレには居なかったぞ」と間髪入れず否定する。
「なるほど……ありがとう。なら、どこへ行っちゃったのかな」
たちまち心配する長田を、ちらりと横目で一瞥し、柳は大あくびをかました。
「心配しすぎとちゃいまっか?そのうちヒョッコリ戻ってきまっさ」
「心配するさ」
じろっと柳を睨み返し、長田が溜息を漏らす。
「まぁ、須藤くんは誰かさんみたいに、勝手に出ていく奴じゃないとは思うんだが……」
長田の心配を受けて、須藤の机を調べていた小泉が言った。
「ケータイも無線も置きっぱなしですね。署内にいるんじゃないですか?」
そこへ入ってきたのは、科捜研所長のさくらさん。
「須藤くん〜?須藤くんなら、さっき外へ飛び出していくのを見たけどォ。事件でもあったのォ?でも、それにしては皆揃っているしぃ〜ノンビリしてるわよね〜」
たちまち皆に取り囲まれ、長田にはガックガクと肩を揺さぶられた。
「本当ですか!? 彼、出ていく理由は何か言っていませんでしたか!」
「は、はわわわ、な、何も聞いてないわよぉ〜特にはぁ〜」
ただね、と彼女は付け加える。
すれ違う瞬間に見た須藤は涙ぐんでいたようだった。
「探してくる!」
颯爽と出ていこうとする長田へ、小泉が慌てて呼びかける。
「お、俺も手伝います!皆で手分けして探しましょう!!」
皆が騒然とする中、柳だけは平然と鼻毛を抜きつつ呟いた。
「皆、心配しすぎや……五歳の子供やあるまいし」
一方、勢いで署を飛び出してきた須藤は。
「ここ……どこだろ?」
なんと見知らぬ地域で迷子になり、途方に暮れていた。
「あ、あの……すみません。ここって、どこらへんですか?」
仕方なく歩いていた人を呼び止めて道を尋ねようとすると、相手には大爆笑される始末。
「やっだ、おまわりさんに道を聞かれたのなんて初めてだわぁ!」
自分の格好を思い出し、かぁっと赤面する須藤を見て、さすがに哀れと思ったのか、おばちゃんは笑うのをやめて、現住所を教えてくれた。
予想通り、全然聞いたことのない場所だ。せめてGPSがあれば、何とかなるのだが。
「駅までなら送ってあげるけど、どうする?」とも言ってくれたのだが、これは丁重に断った。
いくら迷子とはいえ、民間人に迷惑をかける訳にはいかない。一介の警察官として。
おばちゃんと別れ、須藤はぐいっと目元を拭う。涙は、とっくに乾いていた。
「……さてと。確か、こっちの方から走ってきたんだよな」
どっちを向いても閑静な住宅街が続いていて、本当にこっちで良いのか不安になる。
何故外へ飛び出す前に、携帯電話か無線機のどちらかを持ってこなかったのだろう。
否、何故あんなにカッとなって飛び出してきてしまったのか。
可愛い後輩、それも手柄を立てたばかりの後輩から食事に誘われたんだ。
先輩なら、ご褒美としてつきあうのは当然じゃないか。
櫻井が女性だから、何だって言うんだ。警官に、男も女も関係ない。
なのに自分は、女の誘いをOKしたというだけで、長田に幻滅してしまったのだ。
今となっては全てがバカみたいで、自分でも自分が嫌になってくる。
「はぁ……」
溜息つきつきトボトボ歩くうちに、それでも次第に大きな通りが見えてきた。
既に足はクタクタだが、ここでのんびり休んでいるわけにもいかない。
きっと今頃、長田は須藤のことを心底心配しているに違いない。
電信柱で番地を調べた須藤は、ようやく光明が見えてきた気がした。
「……よし、あとちょっとで戻れるぞ!」
ガッツポーズで気合を入れた直後、勢いよく走ってきたパトカーが須藤の隣に横付けされる。
「お前、何やってんだよ、こんなトコで!」
窓から顔を出したのは、同僚の小泉だ。
「皆、心配してんぞ?ほら、さっさと後ろに乗り込んでくれ」
「あ……え、っと……な、長田さんは?」
乗り込みながら尋ねてみれば、小泉は振り返りもせずにムスッと答えた。
「長田さんも心配してるよ。たく、お前のせいで今日は一日仕事にならなくなりそうだって」
あの長田が、そんな愚痴を吐いていたとなると非常に戻りづらい。
幻滅されるだけならまだしも、二度とお世話してもらえなくなりそうな危機を孕んでいる。
真っ青になる須藤とは裏腹に、しかし小泉の小言は、まだ続いていたようで。
「お前、帰ったら田沼さんか三島さんトコに行けよ?どうせ怒られるなら早い方がいいしな」
「な、長田さん……じゃ、駄目なのか?」
「はぁ?長田さんが何だって?」と、バックミラーで小泉が須藤を見てみれば、須藤ときたら二十四歳にもなって、じんわり涙ぐんでいるではないか。
多少は口調を和らげて、小泉が小声で付け足した。
「……長田さんは忙しいんだよ、お前と違って」
赤信号で止まり、不意に彼が振り返る。
「あ、ちなみに仕事にならなくなりそうだって言ってたの、違うから」
「えっ!? な、長田さんじゃないのか?」
信号が青になり、須藤の質問を宙に浮かせたまま、車は再び走り出す。
無事署へ戻ってくると、パトカーから降りた小泉は須藤の目を見て、さっきの質問に答えた。
「仕事にならなくなりそうって言ってたのは三島さんだよ、長田さんじゃない」
言われた瞬間、全ての緊張が解けてしまい、須藤はヘナヘナとへたり込む。
「なっ……なぁんだぁぁぁ〜〜っ」
「お前、長田さんが愚痴ってたと思いこんでただろ?言うわけないじゃん、あの人が!」
「だ、だって、お前の言い方だと、長田さんが言ってたように聞こえたんだ」
また涙が出てきた。
でも、今度のは悲しい涙じゃない。安堵の涙だ。
駆け寄ってくる長田の姿が、須藤の滲んだ瞳に映った――