そろそろ、夏の近づく季節になってきた。
入ったばかりの頃は見えなくても、勤務するうちに見えてくるものもある。
田沼さんが、皆からは『とんぬらさん』と陰口を叩かれていること。
本人はそれを『愛称』だとポジティブに勘違いしていること。
そして長田先輩の家は、どうやらお金持ちであり、両親はどちらもエリート官僚。
そのせいか彼は周りの女性巡査から、それなりに人気がある事も判ってきた。
……といっても、本人に直接尋ねたわけじゃない。
まさか「長田さんちって、お金持ちなんですか?」なんて失礼極まりない質問、堅真面目な須藤に出来るわけがない。
全ては噂。憶測の域であり、ネタは全て、柳や同僚が拾ってきたものだ。
準キャリアの長田が何故、未だに巡査なのかも柳は知っていた。
「本人が、昇進は嫌や言うて現場に残っとるらしいで」
「それって、長田さんに出世欲がないって事か?」
須藤の問いに肩をすくめ、柳は呟いた。
「そやろな。でなきゃ準キャリで万年巡査は、ありえんわ」
キャリア、準キャリアとは、主に国家上級試験を突破してきた者達を指している。
すなわちエリートだ。警察学校を出ただけの須藤達、凡人とは違うのである。
彼らには当然輝かしい未来が待ち受けており、飛び級昇進も充分あり得る。
つまり本来ならば、今頃は本庁の課長や部長になっていてもおかしくないはずなのだ。
にも関わらず、長田が巡査に甘んじているのは、特別な理由があるに違いない。
柳は、それを『本人の意志』だと人づてに聞き知ったようであった。
「でも、なんで現場がいいんだろう」
真面目に首を傾げる須藤へ、同僚の小泉が知ったかぶりで答える。
「ドラマでもいるじゃん、刑事は現場が命!みたいな奴。ああいうんじゃないの?」
ドラマと現実を一緒にされては、困る。
須藤が困惑していると、野太い声が乱入してきた。
「なぁに、あいつも俺も、本庁で書類まみれになるのが嫌なだけさ」
制服の上着を肩にかけ、シャツの袖を腕まくりした中年のオッサンだった。
制服を着ている以上は警官なのだろうが、全然見覚えのない顔だ。
そこへ「高明!」と須藤の頭上を飛び越えて、長田の弾んだ声が聞こえてきて、「たかあき?」と振り向いた須藤の横で、柳がアッと声をあげた。
「タカアキて……もしかして、第一課の広瀬高明巡査ッ!?」
見れば、何が起きても自分のペースを崩すことのない柳が、わなわなと震えている。
「な、なんだ、知っているのか?柳」
慌てる須藤へは、小泉が耳打ちした。
「バカッ、一課の広瀬巡査っつったら有名人だろ!? 通称猪刑事だよ!」
言われて、もう一度須藤は、マジマジと相手の顔を見やる。
太い眉毛に、まばらな無精髭。二の腕は逞しく、日に焼けている。
猪刑事の噂なら、多少は知っていた。
どんな事件でも果敢に突っ込んでいき、かなり無茶な手段でホンボシをあげる。
やり方の乱暴さや猪突猛進っぷりから、皆に『猪刑事』と陰口されている刑事だ。
この人が、そうなのか?
「ヘッ」
広瀬が笑った。
「俺の顔を知らねぇ野郎が、警察にいるたぁな」
近づいてきた長田にも広瀬は笑いかけ、親指でグイッと須藤を指さした。
「オイ、厚志。後輩指導はちゃんとやってんのか?」
「やっているよ。それより高明、今日はどうして、ここに?」
厚志に高明呼びとは、いやに気安い間柄である。
それに先ほどから、広瀬と話す長田が嬉しそうなのも気にかかる。
むすっとする須藤の耳元で、柳が囁いた。
「嫉妬しとんの?」
「しっ、してないよ!!」
すぐさま大声で喚いたら、広瀬と長田、双方に怪訝な目で見られてしまい、恥ずかしさと図星を指された悔しさとで須藤は消えてしまいたくなった。
赤面する新人をニヤニヤと眺めながら、広瀬が言う。
「その様子だと、まだこっちに話は届いてねぇのか……内木やトンヌラさん辺りが、しゃべった頃だと思ったんだがな」
「何の話だ?」と、長田は首を傾げている。
「地元のイベントに特別参加してこいっつー話だ。仕事っちゃ聞こえはいいが、要はボランティアだな」
「ボランティアですか?」と、今度は新人警官も口を揃えて聞き返す。
「そうだ。俺達警官も参加して欲しいって頼まれたんだよ」
――そんなわけで。
須藤と長田、広瀬の三人は、警備と称して地元のイベントへ参加した。
一課は君だけなのか?と尋ねる長田に対して、広瀬曰く。
「俺に無理矢理押しつけやがったんだよ、部長の野郎が」とのこと。
「なるほどね、始末書の代わりか」
肩をすくめ、長田が苦笑する。
「うるせぇよ」と広瀬は渋面で応え、かと思えば須藤を横目にニヤついた。
「お前こそ、なんでコイツを誘ったんだ?内木は、どうした。フラれたか?」
コイツと指をさされ、須藤は内心ムッとしたのだが。
「コイツじゃないよ。彼は須藤くん、俺の大事な後輩だ」
きちんと長田に紹介された時には、真面目に戻って敬礼した。
「須藤真作です。まだまだ未熟者でありますが、よろしくお願い致します!」
その横では長田が件の女同僚に断られた経緯を話し、広瀬のニヤニヤ笑いを強くさせる。
「お察しの通り、フラれたよ。ボランティアは御免だってさ」
「あいつの言いそうなこった。んで従順な後輩を、無理矢理拉致ってきたってか」
長田も皮肉で返そうとするが、それを遮った者がいた。
「お言葉ですが、無理矢理ではありません!」
「あァン?」
新人に割り込まれるとは思っておらず機嫌を悪くする広瀬へ、なおも須藤が言いつのる。
「自分は、自ら志願しました。たとえボランティアといえども、与えられた仕事は忠実にこなさなければ、いけません。これは地元の人間と交流をはかる大切な仕事だと、自分は判断しましたッ」
きりりと眉を上げて見つめてくる須藤に何を思ったか、しばし黙りこくっていた広瀬は、だしぬけに大笑いした。
「だっはっはっ!なんだよ、三課にも根性のありそうな奴がいるんじゃねーかっ」
「そうだよ」
長田は、すまして受け応える。
「だからこそ、彼を誘ったんだ。須藤くんには外回りのほうが向いているからね」
実を言うと、またデータ入力をやらされそうになっていた時に持ちかけられた話であり、一も二もなく須藤が飛びついたというのは、広瀬には内緒にしておきたい。