小春日和

3.とんぬらさん

須藤の朝は早い。
住んでいる場所が遠い為、朝の早い時間にでなければ間に合わないせいだ。
同僚は寮に入れと誘ってくれるが、須藤としては自活でやれるところまで頑張りたい。
慌ただしく着替え、朝食をかっこんだ後は、速やかにアパートを出るのが日課となっていた。
「おはようございまーす」
家を出ると同時に、見知った顔へ頭を下げる。
向こうも「あら、おはようございます、須藤君」と、にこやかに挨拶を返してきた。
お隣に住んでいる主婦、市川亜美可だ。
いつも、この時間帯になると、ゴミ出しに出てくる彼女と廊下でバッタリ鉢合わせる。
引っ越してきたばかりの頃はドキマギしたものだが、今や、すっかり顔見知りだ。
「毎朝ご苦労様です」
ゴミ捨ての労をねぎらうと、彼女も笑って受け返す。
「須藤君こそ、毎朝早い時間にご苦労様」
「いやぁ……俺は、好きでやっていることですから」
照れる須藤に、亜美可が言う。
「警察官になったんでしょ?大変ねぇ、やっぱり犯人を追い詰めた後はドンパチやったりするのかしら」
ドラマと、ごっちゃになっている。
「い、いえ。ドンパチは、しません。俺は第三課ですし」
「第三課?でも、殺人犯を追っかけたりするんでしょ?」
「いえ、あの、俺が追っかけるのはスリや万引きで……」
亜美可はキョトンとしている。
この説明をするのは、今日が始めてではない。
何度となく彼女には説明してきたのだが、未だに理解してもらえていない。
「あっ」
不意に彼女が小さく声をあげ、戸口の向こうの時計を振り返る。
「引き留めちゃって、ごめんなさい。あたしったら、いつもこうね。君の顔を見ると、つい長話したくなっちゃうのよねぇ」
言われて須藤も我に返る。彼女との雑談で、うっかり電車に乗り遅れる処だった。
「い、いってきま〜す!」
慌てて挨拶もそこそこに、須藤が走り出す。
その背へ向けて、亜美可が大きく手を振った。
「急いで、いってらっしゃ〜い!車には、気をつけてね〜っ」


「――遅くなって、すみません!」
駆け込んできた須藤に、誰もが振り向いた。
実際には、それほど遅刻していないのだが、一分一秒でも遅れが許せない。
それが須藤の性根であり、幼い頃から友達に苦笑される生真面目さであった。
「いいよ、いいよ、ここは会社じゃないんだ、須藤くん」
ぽむ、と肩を叩かれ顔をあげると、長田の笑顔と目があった。
「しかし、一分でも三分でも遅刻は遅刻ですっ!」
「うん、じゃあ、次からは五分前行動を取るように」
「はいッ!」
ビシッと敬礼をかます須藤に、長田は苦笑を浮かべて時計を振り返る。
一分三分の遅刻、か。
そんなものに目くじらを立てていたら遅刻の常習犯、柳の立場がない。
なにしろ、あいつときたら、遅刻魔の上に忘れ物キングでもあるのだ。
須藤の言うように時間を厳守していたら、とっくにリストラされている。
「……あれ、田沼さんは……?」
ふと我に返ったようにキョロキョロする須藤へ、長田は一言。
「まだだよ。今来ているのは俺と内木と君と、後はご覧の通りさ」
部署内は、休み時間と見間違うほど人の気配がない。
さっき言ったメンバーを含めても、現在出勤しているのは五、六人ぐらいだ。
「なにか、事件でもあったんですか?」
何故か嬉々として問いかけてくる須藤へは、長田の代わりに内木が答えた。
「とんぬらさんは、いつも社長出勤よ。他の皆も似たようなものね」
「えっ……」と拍子抜けした表情の須藤へ、畳みかけるように長田も言う。
「ほらね、だから言っただろう?君も、少しぐらいは遅れたっていいんだ」
ただし俺よりは早く来て欲しいな、とも言われて、須藤は少し安心する。
他の奴らと違って、長田は時間通りに来ることが多いと知ったからだ。
「あ、ところで……」
不意にまた、なにかを思いついた須藤が、長田へ尋ねる。
「うん?」
「報告書って、書かなくてもいいんですか?」
「報告書?何の?」
「あの、この間の万引きの件です」
「あぁ、あれね」
一日に何十件も同じような事件を担当しているというのに、長田は一発で判ったようだ。
「あれなら、俺が出しておいた。君が心配する必要はないよ」
「えっ、でも」と言いかけて、須藤が言いよどむ。
「でも、なんだい?」
長田に促されて、思いきったように尋ねた。
「でも、そういう雑用って、俺達みたいな新人がやる仕事じゃないんですか?」
「君達新人は」
肩に手を置かれ、須藤はドキリとする。
怒られるのではないかと危惧したが、見上げた先の長田は微笑んでいた。
「まず、現場の雰囲気に慣れるのが先だ。始末書だの報告書だのってのは、後から覚えればいい」
警察学校を出たばかりの須藤にとって今の長田の姿ときたら、後光でも差しかねないほど美化フィルターで輝きまくっていた。
学校では、いつでも時間厳守を強いられてきた。
決められた時間に食事を取り、決められた時間に就寝、起床。
おまけに教官には絶対服従で、逆らったりサボろうものなら、すぐさま叱咤が飛んでくる。
それが当たり前だった日常から、ポンと優しい先輩の下へ送り込まれたのだ。
後光の差さない訳がない。
「は……はいッッ!」
「ははっ、気合入りすぎだよ」
軍人さながら踵を合わせる須藤に、長田はもう、苦笑するしかない。
そんな微笑ましい光景に、内木巡査が茶々を入れてきた。
「あら、気合が抜けきっている誰かさんよりはマシじゃない」
「誰かさんって?柳のコトか?」
受け答える長田へは、真横へ首を振る。
「違うわ、とんぬらさんよ」
「うーん、まぁ、あの人には、あの人のやり方があるから……」
煮え切らない返事をしていると、横からヒソヒソと囁かれた。
「あ、あの、どうして田沼さんのこと、『とんぬらさん』って呼ぶんです?」
田沼は、タヌマさんではない。田沼と書いて、デンヌマと読む。
初めて自己紹介を聞いた時、珍しい苗字だな、と須藤は思ったものだ。
だが、部署に入ってから気づいたのだが、先輩は揃って彼を別の名前で呼んでいた。
デンヌマさんではなく、トンヌラさん……と。
それも田沼がいない時に限って、だ。
「とんまだからよ」
そう答えたのは、もちろん長田ではなく、内緒の質問をバッチリ聞いていた内木であった。
「とっ……!とんまだなんて!!」
カッとなった須藤は思わず彼女に掴みかかろうとしてしまい、長田に寸前で止められる。
「だって、本当のことですもの」
「本当のことって、酷いじゃないですか!田沼さんは、俺達のまとめ役でしょう!?」
内木は鼻息荒く詰め寄ってくる須藤をチラリと一瞥してから、長田を見やる。
「彼が私達の、まとめ役ですって?あなたが、そう教えたの?」
「まぁね」
頷く長田に、内木の眉間には皺が寄る。
「冗談やめてよね。彼はまとめ役じゃないわ、ただの窓際巡査でしょ」
バッグを手に取り何処かへ行こうとする彼女を、長田が呼び止めた。
「で、田沼さん、平時通りに来るって言ってた?」
「連絡がなければ、ね。いつもと同じ正午ぴったりに出てくるわよ」
「オーケー。じゃあ、となると柳は、それより二時間後の二時頃……か」
時計を眺めて計算する長田を、内木はフンッと鼻でせせら笑う。
「聖人君子の準キャリも大変ね。とんぬらさんに厄介者を押しつけられて」
真っ向からの嫌味に対しても、長田は無言で肩をすくめただけである。
颯爽と髪をなびかせ出ていく先輩女巡査を、須藤はムッスリ顔で見送った。
「……なんなんですか?あの人。内木さん。酷いじゃないですか、田沼さんばかりじゃなく柳くんや長田さんまでバカにして!」
頭で目玉焼きが焼けそうなほどカッカきている後輩を、長田は優しく宥めてやる。
「まぁ、そう怒るなよ。彼女だって悪意で言っているわけじゃない。柳が時間にルーズで忘れっぽいのは事実だし、田沼さんが社長出勤なのも事実だ。ただ、そういった二人の短所を、内木さんは許せないんだよ。君と同じで真面目だからね」
ここで長田と押し問答をするのは無駄だ。
彼を困らせるのは、須藤としても本意ではない。
それに言われてみれば、彼らのルーズさを認められない気持ちが自分の中にも存在していた。
内木ばかりを責められない。そう思った須藤は、話題を変えた。
「そういや、長田さんは呼ばないんですね。田沼さんのこと、とんぬらさんって」
「ん?あぁ、まぁ、俺は……昔、田沼さんには、お世話になったからね」
「そうだったんですか……」
新人時代の恩を忘れないなんて、良いところがあるじゃないか。
準キャリアというぐらいだから、ずっと超エリートだと思って緊張していたけれど、この長田という男、意外や気質は須藤達庶民寄りの男であるようだ。
ますます須藤の脳内美化フィルターは輝きを増し、羨望の眼差しで見つめられた長田も、まんざら悪い気はしなかったが、ひとまず雑談を打ち切ろうと立ち上がった時。
「おはよーっす。あれ?とんぬらさん、まだ来てへんやん。アカン、ちっと早すぎたかァ〜。もちっと寝とけば良かったわ……」
学校卒業と同時に礼儀をポイした、もう一人の後輩が、やっと出勤してきたのであった。


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