合体戦隊ゼネトロイガー


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act4 愛を学べ

養成グランプリ参加まで、残り六日間。
三人のうちの二人は他の教官へ押しつけて、ツユはミィオを徹底的に鍛えることにした。
「ミィオ、あいつらに目に物見せる意味も込めて、頑張んなよ?」
「はい、判っておりますわ、ツユお姉様」
優雅に微笑む少女を見下ろしながら、まず、ツユが彼女に課した課題とは集中力をつける為の特訓だった。
ミィオの欠点は、集中力の欠如である。
動かす才能を持ちながら持続しないのは、余計な煩悩に気が散りすぎるせいだ。
煩悩はゼネトロイガーを動かすにあたり必要不可欠な感情だが、過剰に余りすぎていても良くない。
大会では操縦をツユが担当するので、ミィオはエンジンとなって稼働し続けなければいけない。
動力源を途切れさせない為にも、集中力を鍛える必要があった。
これまでの授業では、煩悩を高める方法ばかり教えてきた。
根本から授業内容を変えなくてはならない。
次に二人が移動した場所は、シミュレーションルームであった。
「恋愛シミュレーションをするのですか?お姉様」
ミィオの疑問を軽く受け流し、ツユが一つの機材に陣取りシステムを立ち上げる。
「昔から集中力を高めるには、リラックスすればいいだのイメージトレーニングすればいいだのと適当な事が言われてきたけど、そんなもんで高まれば誰も苦労しないってのな。集中力を持続させるには、地道な特訓が必要さ。ってなわけで、これを応用して使ってみるよ」
恋愛シミュレーターは本来、疑似映像を用いて感情を発達させる筐体である。
映像で脳に情報を伝達することによって、動的な反応を植えつける。
簡単に言えば、死んだことのない者でも死の疑似体験が出来るというわけだ。
これまでは、恋愛感情を発達させるために使ってきた。
いわゆる疑似性的体験である。
「これから五分間、動いているものを表示する。あんたは、その動いているものに書かれた数字を覚えて、出てきた順番通りに答えるんだ」
これを何度も繰り返すんだとツユに言われ、ミィオは眉をひそめる。
「うっ……記憶力テストですか?苦手なのですけれど……」
ツユには冷淡に言い返されただけであった。
「苦手なもんを抱えてちゃ、なんでもありな大会では勝ち抜けないよ?」
大会だけじゃない。
この先、正規パイロットを目指すのであれば、短所などなくしてしまったほうがいい。
「すらすら答えられるようになるまで続けるよ。判ったら、ゴーグルを装着しな」
記憶力テストは地味且つ、忍耐力をも鍛えられるものだ。
画面いっぱいに、くるくると回転しながら飛んでくる立方体がある。
立方体の一面には数字が記されており、それが幾つも飛んでくるのだ。
十から二十近くの立方体が脳内を飛び交い、ミィオの脳が覚えきれなくなった頃に終了の合図がかかる。
仕方なく記憶に残っている限りで答えるのだが、途中からは怪しくなってくる。
そのたびにツユには怒られ、六回目を越える頃にはミィオの集中力も、やる気もつきかけてきた。
「どうも駄目だね。あんた、適当に映像を見てないかい?」
溜息をつかれたって、溜息をつきたいのは、こちらのほうだ。
くるくる回る立体を何度も見てきたせいか、心持ち気分が悪くなったようにも思う。
3D酔いというやつだ。
「そんなつもりは、ございませんけれど」
ミィオが青い顔で抗議すると、ツユは、しばし考え、結論を出した。
「……あぁ、もしかして回転に目を取られている?数字を見るんだ。どうしても気が散るっていうなら、次は平面に数字を表示してあげるよ」
無駄だ。平面だろうと立体だろうと、この特訓自体にミィオの脳が拒絶反応を示している。
数字が飛んでくる前に、彼女は一つ提案する。
「お姉様。たとえ数字をすらすら言えるようになったところで、煩悩の高まりとは無関係ではございませんこと?」
「なんだ、何が言いたいんだい、ミィオは」
「私の集中力が途切れるというのであれば、他へ気が散らないぐらい煩悩を高めれば宜しいのですわ」
「そうだよ。だから、集中力を鍛えようとしているんじゃないか」と口を尖らせる教官へ、まったをかける。
「違います。集中力ではなく、煩悩です。煩悩が持続すれば、ゼネトロイガーも動き続けますでしょう?」
何を言いたいのかが判らず、ツユは彼女の言い分を聞いてやることにした。
先を促すと、ミィオは、どこかしら得意げになって続ける。
「私の煩悩が途切れるのは、私の集中力が原因ではございません。いえ、私に限らず、これは、どの候補生にも言えることですけれど、なにかを行なっている時に集中力が途切れるというのは、その行動自体が飽きを誘いやすいものであるという証拠にも、なりえますわよね。結論を申し上げますと、ツユお姉様が、私を上手くリードして下されば宜しいのですわ。そうすれば、私も他へ気を散らすことなく、お姉様だけに集中できると思いますの」
「あたしの愛撫に問題がある、と……そう言いたいんだね?ミィオは」
「はい」と、ミィオが頷く。
まさか彼女に頷かれるとは、予想していなかった。
飛鳥と相模原が自分の授業に対して反抗的なのは、知っていたつもりであったが……
ミィオに指摘され、これまでの自分の手順をツユは脳内で確認する。
御劔の元で教官となり、ゼネトロイガーが、ああした操作であると伝えられた時、徹夜で医学を紐解いて人体の構造を理解する。
どこを触れば、快感へと繋がるのかを頭に叩き込んだ。
多少の個人差はあるが、大体において性器と乳に集中している。
愛撫も女性器に集中して行なっている。
そうやってミィオの煩悩を高めて撃退したのではないか、シンクロイス戦は。
陰核に触れると、ミィオは喘いで体をひくつかせた。
乳首をつまみ上げると、切ない声をあげて身をよじらせた。
汗だくになって自分を見上げる様は、演技には見えなかった。
彼女は確実に感じていたはずだ。
考え込むツユの耳に、ミィオの声が入ってくる。
「愛撫の時、お姉様は無言で行なっておりますわよね。それが、私には退屈と感じることもございます」
「……退屈?」
思わぬ意見に、ツユは片眉を跳ね上げる。
退屈と言われても、作業中に話す事など特にないのだから、無言になるのも仕方ないではないか。
えぇ、と頷いた彼女が言うには。
「会話にならずともよいのです。私の気を惹きつけるために、愛の言葉を囁くだけでも」
「愛の言葉?」
「えぇ。『愛している』とか、『好きだよ』と囁かれるだけでも、乙女は胸をときめかせるものですわ」
彼女にしては、えらく感傷的だ。
普段のミィオは、どちらかというと女性を対象に性欲で漲っている。
ツユのことも両性具有だと思いこんでいるようで、その上で性行為を求めてきた。
「あんたも一応乙女だったんだね」
ツユが素直な感想を述べると、彼女は傷ついた表情を浮かべた。
「一応、だなんて。一応も何も、私は乙女です」
小さく溜息と共に漏れた言葉に、ツユは耳をそばだてる。
「……以前、飛鳥お姉様のおっしゃっていたとおりですわ」
「何?飛鳥が何を言っていたのさ」
尋ね返す教官を見上げ、ミィオは眉根を寄せて答えた。
「ツユお姉様は女性への思いやりが欠如している、と。今なら、私も同感します」
今日のミィオは、どうしたことか反抗的だ。
先ほどから、ツユの神経を逆撫でする事ばかり言う。
一対一の気安さから、遠慮までなくなってしまったのだろうか?
いや、そうではない。
ツユを見つめる彼女の視線は、思った以上に真剣であった。
「ツユお姉様。この際ですから、はっきり申し上げさせていただきます。私達が一段階上へあがるには、お姉様のレベルアップも必要不可欠です。お姉様は、本当に愛を理解しておいででして?」
愛。愛だって?
愛なんか、育成の途中過程に必要か?
教官と生徒の間に愛が発生してしまっては、逆にまずかろうと思うのだが。
授業に支障が出かねないし、依怙贔屓が発生すれば、きっと他の生徒達は面白くない。
それに、愛と言われても。
ツユは今まで誰かを愛したことが一度もない。
鉄男のように心の中に壁を作っていたわけではなく、単純に興味が沸かなかっただけだ。
興味の沸いた対象は、せいぜい乃木坂ぐらいで、それも友人としての興味である。
誰かを夢中で好きになる自分の姿など、想像もつかない。
そもそも何かで『夢中になる』事自体、なかったのだ。これまでの人生で、一度も。
研究者を目指したのも、教官になったのも、深い理由は全くない。
ただ、友人の乃木坂が目指していたから、一緒の道を選んだだけだ。
乃木坂と別の道を歩くという選択肢も存在しなかった。
ツユにとっては、この世で乃木坂だけが信頼でき、理解もできる対象だったのだ。
愛ではない。友情だ。
あえて言うなれば、研究者を目指して学んだ機械工学が『夢中になった』ものだろうか?
しかし、それも乃木坂の存在あってのものだ。自分から選んだ科目ではない。
彼がやると言わなければ、きっと一生見向きもしなかった。
つきつめると、やはりツユが夢中になれたものは乃木坂しかいないという結論になる。
そして、それは恋愛ではないから、除外すべきであろう。
「あたしが愛を理解しないと、あんた達の成長にも影響が出る、と……?」
「えぇ。ツユお姉様。私と特訓しながら、共に愛を学んでゆきましょう」
ミィオに熱っぽい眼差しで見つめられ、立場が逆転したのではないかとツユは内心狼狽えたのだが、表面上は、おくびにも出さずに頷いた。
「いいよ。判った。じゃあ、手始めにあんたを愛する事から始めようか」


三年目の候補生に、二年目の自分が教えられることなどあるのだろうか。
木ノ下も最初は首を傾げたのだが、飛鳥は案外モトミ達と仲良くやっていた。
元々騒がしい教室ではあるが、飛鳥が加わって、さらに賑やかになったように感じる。
授業にしたって、そうだ。
今更な復習にしかならないであろう内容でも、飛鳥は熱心に聞いてくれた。
途中で判らない項目がモトミ達の間で発生すると、木ノ下に代わって判りやすく説明してもくれた。
いっそ彼女が教鞭を執っても問題ないぐらいスムーズに、その日の授業全部が終わり、モトミ達が宿舎に戻っていけば、やっと飛鳥待望、個人授業の開始だ。
「逆に俺が教わることになりそうだけど、お前は俺に何を教えて欲しいんだ?それとも水島教官がお前に教えていたのと同じものを、俺もやればいいのか?」
木ノ下の問いに飛鳥は、しばしの間、無言だったが、やがて下向き視線で躊躇いがちに切り出した。
「……三年もココの授業受けてきた後で言うのも何なんですけど、あたし、男の人って苦手なんですよね」
衝撃の告白には、木ノ下も驚きを隠せない。
「だから比較的男らしくない水島教官のクラスへ振り分けられたんだと思います……それでも、やっぱ駄目でした。体が、受け付けないんです。触られただけでも、こう、ぞわっと鳥肌が立っちゃうっていうか」
「え、えぇっ、でも、三年間授業を受けてきたんだろ?」
驚く木ノ下へ、飛鳥も苦笑しながら頷く。
「えぇ。無理だなんだって尻込みしてちゃ駄目だと思って……でも、やっぱりもう限界だなぁって」
彼女の瞳に諦めとも取れる色を見つけて、木ノ下は狼狽える。
まさか、これを最後にするつもりで自分に講義を頼んだのか?
だとしたら、思い留まらせねばなるまい。
三年も我慢してきたぐらいだ。飛鳥には根性がある。素質もある。
何より、パイロットになりたいと願うのは強い正義心の表れだ。
夢を途中で終わらせてしまっては、きっと彼女も後悔する。
「諦めちまうのか?パイロットになるのを」
飛鳥の答えは木ノ下が予想していたものとは全然異なって、彼女は真顔で木ノ下を見つめ返すと、きっぱり言い切った。
「いいえ。水島教官に慣れるよりも、もっと簡単な方法を思いついたんです。教官の一時的チェンジ。木ノ下教官、あなたとなら男性への恐怖を克服出来ると思ったんです」
じっと見つめられ、木ノ下は更に狼狽える。
「け、けど、俺も男だぞ?水島教官より、ずっと男っぽい」
くすりと微笑み、飛鳥が「大丈夫ですよ」と頷く。
何がと木ノ下が問いかけるよりも先に、自ら続けた。
「あたし、自分でも男性の何が駄目なのか自己分析してみたんですよ。そうしたら、『女性への思いやりのない』男性が苦手なんだって判ったんです。だから水島教官に触られた時も拒絶反応が出ちゃったんです。判るんです、そういうの。触りかたで、バレちゃうんです」
そうなのか。
女性というのは、木ノ下が考えている以上にデリケートで敏感な生き物のようだ。
「あぁ、この人は――水島教官は、今まで女性へ気遣いしたことが一度もないんだなぁって。そういうのが判った瞬間から、もう駄目でした。触られるたびに鳥肌が、それだけなら、まだマシなほうで、酷い時には吐き気まで襲ってきて。それでも三年我慢してきたけど、もう限界です」
ぎゅっと両手で自分の体を抱きしめて、肩を震わせる。
そこにいるのは、いつもの陽気な飛鳥ではない。
恐怖に怯える一人のか弱い少女だ。
急激に、木ノ下の中で彼女を救ってやりたいという衝動が生まれる。
考えるよりも前に、言葉が飛び出していた。
「俺、俺も女性への気遣いってのが判っているとは、言い切れないかもしれないけど……でも俺が、必ずお前の苦手意識を克服させてみせる。だから、一緒に頑張ろう!」
勢いで軽く肩に手を置いてしまい、我に返ってから、しまったと木ノ下は思ったのだが、飛鳥は嬉しそうに微笑むと、自分の肩へ置かれた木ノ下の手に触れてきた。
「大丈夫です。木ノ下教官には女性への思いやり、いっぱいありますよ。だから、あたしも確信したんです。あなたとなら、絶対に克服できそうだって」
信頼されている。
それも本来受け持ちではない候補生に、心から。
ここで彼女の期待に応えてやらねば、なにが教官か。
二年目にして新たな教官魂が燃え上がるのを、木ノ下は己のうちに感じたのであった。


木ノ下に対して飛鳥は元々友好的であったから、難なく混ざれたのだとも言える。
では鉄男に元々友好的ではなかった相模原は、どうなったのかというと。
「あぁ〜ん、辻教官ってボイスもイ・ケ・メ・ンなんですねぇ〜」
教室の机が一つ増えたばかりではない。
厄介事まで一つ増えて、鉄男は重たい溜息を吐き出した。
これまでに何度溜息をついたか、自分でも数え切れないほどだ。
眉間には、これ以上ないぐらいの皺が寄っており、カチュアを怯えさせもした。
悩みの元凶は鉄男の内心など知ったこっちゃないといった顔で、始終熱に浮かされた発言を飛ばしてくる。
相模原の席は、亜由美とマリアの間に収まった。
彼女一人で1.5人分あるので、机の幅が、やけに広がった感覚を受ける。
「もっとコッチ向いてくださぁ〜い。私にもバンバン質問しちゃっていいんですよぉ〜?」
チュッパチュッパと投げキッスしてくる相模原をギロリと人相悪く睨みつけ、鉄男は注意する。
「うるさい。授業中は静かにしろと、あと何万回言われれば理解するんだ」
この会話も何十回目だろうか。
授業が始まった直後から、相模原は、こんな調子だった。
鉄男をイケメンと呼ばわり、何か話すたびに奇声と賛辞で授業を中断させにかかってくる。
ツユに教えられるのが嫌なので鉄男に教わりたいと希望したと乃木坂からは聞かされているのだが、どう考えても授業を妨害したいとしか思えない態度だ。
大体ツユとは、これまで三年間やってきたんだろうに、何故今更になって反乱を起こしたのか。
「はぁぁ〜ん、格好いい……怒っている顔も、ス・テ・キ」
どれだけ怒っても相模原はトロンとした視線で鉄男を眺めてきて、全然説教が効いていない。
周りの三人も先輩が相手とあっては遠慮ないし恐縮してしまい、咎めることもできないようだ。
マリアなんかは完全にドン引きしており、腰が退けている。
年上にも強気な彼女でも、自分の何倍も巨大なやつが相手では劣勢なのか。
相模原はドン引きするマリアにもお構いなく、ぐいぐいと彼女の腕を引っ張り、尋ねてくる。
「ねぇ、ねぇ、マリアちゃんは最終試験、辻教官とするんでしょぉ?いいなぁ〜。あの顔で間近に微笑まれて、イク時には耳元をイケメンボイスが直撃とか!想像しただけでイッちゃいそう」
教官を前にして平気で雑談をかますとは、いい度胸だ。
鉄男のこめかみには青筋が二、三本浮き上がるも、比較的静かな口調で相模原へ命じる。
「静かにしろ。これ以上騒ぐようなら、出ていってもらうぞ」
「あぁん、そして放課後には体罰と称してエッチな真似をしちゃうんですね判りますゥ〜」
「誰が、そんな血迷い事を抜かした?いいから黙って座っていろ、貴様は!」
静かだったのも最初だけで、鉄男の怒りのボルテージは、ぐんぐん上がっていく。
あまりの急上昇っぷりに、亜由美は彼が血圧の上がりすぎで倒れるのではないかと心配したぐらいだ。
「ハァハァ、ハードコアな教官ってのも、たまらないわぁ〜。今までにないタイプ……乃木坂教官より、こっち選んで正解だったかも!」
怒られているというのに、相模原は涎を垂らして辻教官に見入っている。
教官の手の中でバキバキとチョークが砕かれるのを横目に見ながら、亜由美は、そっと相模原へ声をかけた。
「あ、あの……相模原、さん」
めいっぱいの愛想笑いで、相模原も振り向いてくる。
「なぁに?亜由美ちゃん」
「その……退屈だとは思いますけど、静かに聞いていてもらえますか?」
「あら、ごめんなさい。そうね、あなた達は初めて聞く授業ですもんね」
相手は思ったよりも、すんなりお願いを聞いてくれて、なんだ、もっと早くに言っておけば良かったと亜由美がホッとしたのも、つかの間で、相模原は亜由美の耳元へ口を寄せると世迷い言を囁いてきた。
「いずれは役に立つ内容だから、聞き逃しちゃ駄目よ?体技実技で恥をかかない為にも」
この時間の授業は、性教育とは掠りもしない語学なのだが、彼女は何を言っているのだろう。
ポカンと呆ける亜由美を見、ぐっふっふと相模原は含み笑いを漏らす。
「甘い囁きをするのは教官だけとは限らなくってよ?囁きに対して乙女な返事も出来ないようでは、教官のやる気も下がってしまうわ」
「は、はぁ……覚えておきます……」
真面目な亜由美までもが雑談につきあわされて、調子を狂わされている。
全く、とんだ疫病神を押しつけられてしまったものだ。
粉々に砕けたチョークを手で払うと、鉄男は新しいチョークを取り出した。
ちらっと時計を見ると、あと五分で授業が終わると知って、ホッとした。
ホッとすると同時に、ハッと我にも返って、自分で自分の考えに動揺する。
いつもは、こんなふうに考えた事すらないのに。
自分まで調子を狂わされている。
本当に、疫病神だ。相模原蓉子という候補生は。

だが。
鉄男が相模原の厄介な面を見せつけられるのは、ここからなのである――!
マンツーマン授業の件を、鉄男は迂闊にも忘れていた。
それを思い出したのは全授業終了のチャイムが鳴り響いて生徒達が席を立つ中、亜由美が気の毒そうに「個人レッスン、頑張って下さいね」と、鉄男へ声をかけてきた時であった……


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