Devil Master Limited

3-6.待っていた

いつから、狂い始めたのだろう。私の人生は。
彼が、私の元を離れていったから――?
いいえ、違う。
狂ったのは、私自身だ。
私が、自ら破滅の道を選んだ。
会社を抜け出したのは、使い捨てられる道具になりたくなかったから――だけではない。
これから、自分達が起こす事件。
それに会社を巻き込みたくない、という気持ちも含まれていた。
いくら望み通りの就職先ではなかったとはいえ、多少の恩義は感じている。
これまでに貰った給金分ぐらいは。

ベルベイ=ナイヴは貴族の娘として生まれた。
きょうだいのいない一人っ子だから、幼い頃から大層両親には可愛がられた。
しかし両親はやがてベルベイの教育方針のせいで仲違いし、挙句の果てに離婚してしまう。
母親につれられて家を出た彼女の新たな住まいとなったのは、スラム街にあるオンボロ小屋だった。
貴族ではなくなってしまったが、ベルベイは幸せだった。
もう気の進まないお稽古ごとや、面白くもない花嫁修業を無理矢理やらされることもないのだ。
お隣に住むカゲロウと仲良くなり、二人は共通の話題を見つけて楽しく過ごした。
父親とも会おうと思えば、いつでも会えた。
彼は元の街に住んだままだったから。
ただベルベイが年頃になると段々口やかましくなってきたので次第に父の元へ行く回数も減り、カゲロウが悪魔遣いを目指すと言い出した時には自分も悪魔遣いを目指した。
悪魔遣いの儀式は会社へ入る前に、それぞれ個別に試練を受けた。
驚いたことに、ベルベイとカゲロウの遣い魔は顔見知りであった。
アリューの言い分を聞くに、パーミリオンとは兄妹の杯をかわした間柄だという。
彼との深い絆を、ベルベイは強く感じた。
願わくば、このまま終生までカゲロウと一緒にいられたら――
だが、その想いは、あっけなく断ち切られる。
ベルベイ自身の傷心と、彼女の遣い魔によって。

「――どうした?」と低い声に気遣われ、ベルベイが顔をあげる。
傍らにいるのはウォン=ホイ。同業者だ。
業界の有名人でもあり、今はベルベイと行動を共にしている。
己の知名度を鼻にかけているのか、やたらベタベタと馴れ馴れしく接してくるので、ベルベイは彼が嫌いだ。
しかしアリューが仲間に引き入れてしまった以上、邪険にすることも出来ない。
ウォン達三人を引き入れるのは、簡単だった。
アリューが洗脳した野良悪魔で誘き出し、ベルベイが話をつけた。
もっとも、アリューの目的を最初に聞かされた時にはベルベイだって夢物語だと思った。
魔界の扉を開くなど。前例がない。
だが、それ以上に彼女は捨て鉢になっていたから、うっかり遣い魔の誘いに乗ってしまった。
きっかけは、カゲロウと自分の就職する会社が別々になってしまった事にあった。
それでもアリューとパーミリオンの間にはテレパシーがあったから、まだ一緒にやっていける望みがあったはずなのだけれど。
口を開けばパーミリオン、パーミリオンと己の遣い魔の話ばかりするカゲロウに、ベルベイは、いつしか失望している自分に気づいた。
悪魔遣いだから、遣い魔が大切なのは判る。
けれど、彼が大切に想う一番の相手は自分じゃなければ嫌だ。
パーミリオンに恋人の真似事をさせていると知った時には、心が砕け散るんじゃないかと思った。
遣い魔が恋人の立ち位置に値するなら、私は何なの?
カゲロウにとって、何の立ち位置に当てはまるのか。
面と向かって――悪魔間のテレパシーではあるが、本人に聞いてみた事もある。
だがカゲロウは答えをはぐらかし、教えてくれなかった。
彼は、いつも交流関係や恋愛に関する話をすること自体を嫌がった。
幼い頃から、ずっと。
興味がないのかもしれない。
だが興味がないのであれば何故パーミリオンに食事の支度をさせたり、風呂を沸かさせたり、女物の服を着せて共に出かけてみたりするのか。
私だって、一緒に暮らしたい。
カゲロウの食事を準備したり、夜も昼も朝も一緒の部屋で過ごしたい。
会社だって、本当なら同じ処に勤めて同棲するはずだったのだ。
別々になったから、その話は立ち消えてしまったけれど。
許せない。
カゲロウを独り占めにしている、パーミリオンが。
想い人の遣い魔に嫉妬する心の闇を、アリューに嗅ぎつけられた。
悪魔は言う、邪魔だと思うなら倒してしまえと。
聞けば、アリューは昔からパーミリオンが嫌いだったそうだ。
仲間でも肉親でも、馬が合わない物は合わないのだと。
何故嫌いなのかとベルベイが問えば、我が遣い魔は即答する。
あれは、独占欲が強すぎる。
ひとたび気に入ったものが存在すると、兄を押しのけてでも我が物にしたがる習性がある。
アリューはパーミリオンの我儘な性格に愛想をつかしていた。
それを聞いて、ベルベイの不安は増した。
もしベルベイとパーミリオンが対立すれば、パーミリオンはベルベイを押しのけてでもカゲロウを手に入れるのではないか。
そしてパーミリオンを気に入っているカゲロウも、ベルベイを捨ててパーミリオンを選ぶのでは――
阻止するには、パーミリオンとカゲロウの契約を何としてでも破棄させるしかない。
悪魔遣いと悪魔の契約を破棄させるには、二つの方法がある。
一つは、悪魔を倒すこと。
そして、もう一つは悪魔遣いを殺すこと。
真っ向から戦うとなると、パーミリオンは強敵だ。
俺でも苦戦を免れない、とアリューが唸る。
だが、秘策がないわけではない。
そう称してアリューがベルベイに持ちかけてきたのが、魔界の扉の解放であった。
魔界と、この世界を結んでしまえば、召喚なんて面倒な儀式を用いなくても多くの悪魔が流れ込んでくる。
その中には、パーミリオンを倒せる同志も見つかるはずだ。
魔界へ帰りたい者も、自由に戻れる。
悪魔遣いとの契約が意味を果たさなくなる。
強制的に遣い魔にされた悪魔にとっても、パーミリオンを倒したい自分達にとっても一石二鳥だ。
このアイディアに相当自信があるのか、アリューは満足げに微笑んだ。
扉を開くな、とは言われていないが、開いた者も過去に一人もおらず、そもそも開けるのかどうかも判らない。
あまりにも荒唐無稽で机上の空論だと反論するベルベイに、遣い魔は言った。
物事は、何事も実際にやってみなければ判らない。
それに――パーミリオンに取られてもいいのか?カゲロウを。
その一言が、決定打となった。

ポン、と軽い音を立てて小さな悪魔がウォンの肩に現れる。
彼と悪魔は小声で話していたが、やがてウォンがベルベイを振り返った。
「テロリストを壊滅させた連中が到着したぜ。あんたのカレシも一緒だ」
「カレシじゃない。幼馴染み」と訂正してから、ベルベイは立ち上がる。
辺り一帯に空いたクレーター。
彼は、これを私達の仕業だと思うだろうか。
この穴は、ベルベイ達がシャリムに到着した時点で既に空いていた。
シャリムが廃港になった本当の理由が、このクレーターである。
正確には、クレーターを作った野良悪魔達のせい。
シャリムに何故か野良悪魔が集まるようになり、悪魔同士で戦った結果、村が酷い惨状になってしまった。
ここに住んでいた者達は、とっくの昔に逃げ出している。
ここには魔力が集まっていると、アリューが言っていた。
ここでなら、魔界の扉を開けられる――とも。
ベルベイには全く感じられないが、悪魔にしか感じられないものなのかもしれない。
「どうする?」とウォンが尋ねてきたので、ベルベイも答える。
「何が?」
「カゲロウの相手さ。俺がするのか、それとも」
「私がやる。最初に、そう決めたでしょ」
鋭い目で睨まれて、ウォンが肩をすくめる。
「そうかい。いや幼馴染みといざ戦うとなると、決意が鈍るんじゃないかと心配したんだがね。余計なお世話だったようだ」
それよりも、とベルベイは彼を睨みつけながら短く命じる。
「エイジとカゲロウ以外の始末をお願い」
「あぁ、判っている。追い返すんじゃない、殺す――んでいいんだったよな?」
言葉に出さず黙って頷くベルベイを見、ウォンは踵を返した。
あまりしゃべらない女だが、顔とスタイルは抜群だ。
悪魔遣いではなくモデルにでもなりゃあ、今頃はTV界のスターになれただろう。
彼女が全く無名の新人というのにも驚いた。
アリューの存在も、ベルベイと会って初めて知ったぐらいだ。
鋼鉄のランスロットより彼女の遣い魔アリューのほうが、使いようによっては最強のはずなのに。
恐らく、彼女は無欲すぎるのだ。
無欲で奥手。
だから、好きな奴を使役悪魔なんぞに取られそうになる。
恋も仕事も、ガツガツやらなきゃ何も得られない。
この戦いが終わったら、彼女にアプローチしてみよう。
些か強引な手段を使ってでもベルベイを落とす自信が、ウォンにはあった。


エイジの号令で散開したデヴィットは思わぬ相手と一緒になり、内心舌打ちをかましていた。
「なんで君が僕と同じ方向へ逃げてくるんだい?エイジのお尻でも追っかけてりゃよかったのに」
「散開しろって言われたのよ?追いかけていけるわけないでしょ。あんたこそ、なんで私と同じ方向に走ってくるのよ」
一緒の方向へ逃げてきたのは、バルロッサだった。
今回は共同作戦ってことで、多少は我慢してきたデヴィットである。
しかし、ここで二人っきりになるとは誤算だった。
デヴィットは彼女が苦手だ。
まだ若いのにオバチャンみたいに小言が多い処や、露骨にエイジを狙っており他の男をカモ扱いしている処も嫌だが、一番嫌なのは。
「きゃあ!」「わぁっ!」
バルロッサが叫ぶと同時にデヴィットに掴みかかってきたので、デヴィットも死にものぐるいで彼女の手を振り払う。
間一髪。
何処からか放たれた魔力弾は、二人の間をすり抜けて遥か彼方へ飛んでいった。
「ちょっと、危ないだろ!?何考えているんだよ、君は!」
デヴィットは本気でキレて文句を言ったのだが、バルロッサは聞いちゃいない。
前方へ向けて怒鳴りつけた。
「いきなり奇襲!?卑怯じゃない、姿を見せなさいッ」
君が相手を卑怯呼ばわりするのか。
僕を盾にしようとしておいて。
むくれるデヴィットを背に仁王立ちするバルロッサの目前へ、二つの人影が舞い降りる。
一人は華奢で小柄な白衣の女性。
もう一人は、薄汚れたジーンズにTシャツといった軽装の若者だ。
二人を抱きかかえて空から降りてきたのは、輝く白い羽根を片方に生やした天使――いやさ、悪魔だ。
「アスカード……」
ポツリとバルロッサが呟く。額に汗を滲ませて。
白衣の女性はナタリー=マスカレイドだ。
以前、何かの雑誌で写真を見た記憶がある。
そして軽装の男は、ウォン=ホイ。
地味な恰好をしているから、初めは誰だか判らなかったが。
「最後の有名人コンビが、お出ましか。こうやって攻撃してくるってのは、話し合いの余地もないってことでOK?」
デヴィットの減らず口にナタリーが頷く。
「私達に必要な人材は、もう決まりましたので。必要のない方には、ご退場を願います」
「ねぇ、一つ聞いていいかしら」と、これはバルロッサの問いに。
ナタリーは寛大にも頷く。
「えぇ、どうぞ?」
「あなた達……いいえ、ナタリー。あなたは、どうしてアリューの計画に手を貸すの?あなたが彼らに手を貸すメリットが、見えてこないんだけど」
「そうですね」
口元に人差し指をあてて、ナタリーはしばらく思案した後。
にこりと微笑む。
「私が彼らに助太刀する理由……もし貴方達に当てる事が出来たなら、殺すのだけは免除して差し上げましょう」
「オイ、勝手な真似すんな」と横からウォンに怒られても、彼女の顔に浮かんだ笑みは消えない。
「私は手を貸すと言った。でも束縛までは許可しておりませんし、強制も許しませんよ?」
ナタリーの目は全然笑っておらず、口元は微笑んでいるだけに妙な迫力を感じる。
デヴィットが思うに、ウォンと彼女との間で、連携は取れていないのではないか。
つけいるとしたら、そこが狙い目だ。
「なるほど、そのクイズ、受けて立つよ。僕らが見事正解したら、君は手加減してくれるんだよね。約束だよ」
「えぇ、いいですとも。ただし――戦うのは私ではなく、彼ですけどね」
ナタリーの一言を最後に、戦いの幕が切って落とされる。
先手をかけたのはウォンだ。
千手遣い、そう異名を取る彼の遣い魔がデヴィットとバルロッサめがけて突進してくるのを、寸前でアーシュラが受け止める。
目にも止まらぬ速さで拳の撃ちあいをした後、がっぷり組んだりはせず、オブルハートは即座に後ろへ飛び退いて間合いをはかる。
両者は睨み合う形となり、再び話をする余裕も生まれた。
「お前の事は、ずっとトレースさせてもらっていたぜ、デヴィット」
ウォンに名を呼ばれたデヴィットは別段驚くでもなく、やり返す。
「トレース?……あぁ、そうか。イスラルアで僕をつけまわしていた謎の気配は、君のものだったんだね」
正確には、ウォンではなくウォンの放った野良悪魔か何かであろう。
「そうだ。お前の遣い魔が、どの程度の実力か調べておきたくてな。レトフェルスを馬鹿力のみで倒すとは大したもんだ」
ウォンの言葉には棘があった。
褒めているようで、軽く嘲けられているようにも感じる。
「そりゃあ、どうも。ただね、一応レトフェルスくんの名誉をフォローしておくけど、もしアーシュラが影を食われていたなら、勝負は、どうなっていたか判らないよ?」
「影を作らせなかったのも作戦のうちじゃなかったのか?」とウォンに聞き返され、デヴィットは肩をすくめる。
「さぁてね」
あの勝負は、自分達の実力で勝ったのではないとデヴィットは考えている。
陽動役としてアーシュラを突撃させて建物を壊しまくれと命じたのは、エイジだ。
だから影の発生しない条件を作り出させたのは、彼のお手柄であろう。
レトフェルスの息の根を止められたのも、奴に能力を使わせなかった結果だ。
全てはエイジのおかげである。
任務が終わったら、エイジには色々お礼をしてやらねばなるまい。
まずは、どこかへ食事に連れていって、たっぷりお酒を飲ませて、ぐでんぐでんになったところを、お風呂に案内して。うへへ。
あらぬ妄想に薄ら笑いするデヴィットの前でオブルハートの姿が、みるみるうちに透き通っていく。
「お前の遣い魔で気をつけるべき点は、純粋な戦闘能力だけと判断した。つまり、アーシュラが俺達に勝つのは絶対無理と言うことだ……!」
透き通った悪魔がウォンの姿と重なり、不意に消えた。
否、消えたのではない。悪魔遣いと合体したのだ。
その証拠にウォンの腕は十本にも増え、口元には尖りきった牙が剥き出し、Tシャツを突き破って黒い悪魔羽が出現する。
「ひっ」とバルロッサの引きつった悲鳴で妄想の虜になっていたデヴィットも我に返り、さっそく軽口をお見舞いする。
「うわぁ、以前TVで見た時よりもグレードアップしたんじゃない?前は六本だったのに、四本も増やすなんてサービス良すぎだろ」
ウォンは答えず、再び襲いかかってくる。
アーシュラも飛び出し、今度こそ両者はがっぷり両手を組んだ。
腕力はアーシュラも負けていない。
だが、オブルハートと一つになったウォンの手は二本だけじゃない。
「危ないッ!」とバルロッサが叫ぶのと同時に、何者かが雷を飛ばして千手遣いに直撃させる。
電撃は体を伝ってアーシュラにも『ぐわっ!』と悲鳴をあげさせて、ウォンはパッと飛び退いた。
『電撃か。残念だったな。俺にチャチな魔導は効かぬよ』
ニィ、と口元を歪めてウォンだった者が笑う。
声も姿も悪魔そのものだ。
元の体がウォンなだけで、オブルハートが主力を握っているのであろう。
アーシュラは片膝をついて動かない。
奴と違って、アーシュラには電撃が通用してしまったようだ。
ややあって、顔を上げると『貴様……余計な手出しをするんじゃない』と憎々しげに呪詛を吐き出した。
遠方に立つエイペンジェストへ向けて。
「バルロッサ、アーシュラの言うとおりだ。助太刀するんじゃなくて、もう一人の相手を頼むぜ」
デヴィットにも言われて不服ながらもバルロッサは、それに従う。
もう一人、すなわち手持ち蓋差に観戦していたナタリーと向き合った。
「あなたは傍観で終わるつもり?そんなわけ、ないわよねぇ」
挑発すると、ナタリーが笑う。
「傍観で終わるなら、それに越したことはないんですけど。ウォンが無傷で勝てると考えるほど、私も楽観主義じゃありませんわ」
それよりも、と挑戦的な目がバルロッサを見つめ返す。
「私が参戦した理由、あなたには思いつきまして?そろそろ回答を聞いてもいいかしら」
ナタリーが参戦した理由。
さっぱり思いつかなかった。
金ではない。
貧しいものを相手にしていたとはいえ、彼女は金に困っていなかったはずだ。
地位や名誉を欲しがる風にも見えないし、じゃあ、誰かを人質に取られている?
真っ先に考えられるのは、彼女の師匠だ。
師匠の命と引き替えに、泣く泣く協力しているのか?
しかし彼女は先ほどウォンとの会話でバルロッサ達へヒントを与えている。
"束縛は許可しておりませんし、強制も許しません"――と。
脅迫されての強制ではないということだ。
かといって、目の前の女に魔界の扉を開く事への興味があるとも思えない。
ナタリーはバルロッサから見ると、慈善行為を好きこのんで行なうような偽善者だ。
不確定要素より、確実な結果を好みそうでもある。
女が好奇心以外で飛びつくとしたら。
バルロッサはピンときた。
「男ね!」
ナタリーは、きょとんとしている。
「あのウォンって男、あれがあんたの好きな人でしょう」
変身する前のウォンは、どちらかというとハンサムだ。
エイジには劣るが、ワルっぽい男性が好きな女性に人気の出そうな面構えをしている。
自信満々胸を張って答えるバルロッサを、じっと眺め、数秒置いてからナタリーが微笑む。
「ハズレです」
「えぇっ!?」
信じられないとばかりに目を見開くバルロッサに苦笑し、こうも続けた。
「男性には興味を引かれないんですよね、私。それに……ウォンは、あなたが思っているほど善人ではありませんよ」
どういう意味よ?とバルロッサが尋ねる前に、彼女は動いた。
「アスカード、いきましょう。ウォンが劣勢のようですわ」
ふわりとナタリーの体が宙を舞う。
彼女はアスカードに抱きかかえられて空を飛んだ。
ウォンはアーシュラとの殴り合いに突入していた。
一歩も退かず、防御もままならぬ状態で殴り合っているもんだから、双方顔は腫れ上がり血が飛び散り、酷い有様である。
ウォンの背後に、ふわりと降り立つと、ナタリーは我が遣い魔へ命じる。
「アスカード、ウォンの疲労を退けておやり」
「まずいっ!バルロッサ、アスカードを妨害してくれ!!」
ナタリーの動きに気づいたデヴィットがバルロッサに指示を飛ばすも一歩遅く、キラキラと輝く光がウォンの体を包み込み瞬く間に傷を癒していく。
これが治癒の力か。初めて見た。
エイペンジェストに命令を出すのも忘れて、ついバルロッサは見とれてしまう。
「もう、なんだよ!役立たずだなっ」
だがデヴィットに罵られ、我に返った。
「僕らは、なりゆきでタッグを組んだんだぜ?こっちが劣勢になる前にフォローしてくれなきゃ!」
フォローして当然と言わんばかりの言い分に、バルロッサは謝るのも忘れて言い返す。
「何よ、さっさとトドメを刺さないのが悪いんでしょ。レトフェルスは秒殺したのに、何を手こずっているのよ」
「手が何本あると思っているんだ?レトフェルスは二本しかなかったけど、あいつは千本あるんだぜ!?」
すぐさま金切り声が返ってきて、えっ?千本?さっき見た時は十本か、そこらだったはず。
盛りすぎではないかとウォンを見て、バルロッサは「ひぃっ!?」と悲鳴をあげてしまった。
本当だ。
十本だったはずの手は、今やウジャウジャと数え切れないほど増殖している。
両脇のみならず、背中や腹からも手が生えている。
もはや手の生えていない箇所を探す方が難しい。
千手遣いの異名は伊達ではない、ということか。
おまけに今は、アスカードの治癒援護もある。
こんな相手と、まともに戦うのは馬鹿げた行為だ。
バルロッサがそう結論づけるのとデヴィットが決断するのとでは、どちらが先であったか。
「アーシュラ、ここは退くぞ!」
くるりとデヴィットが身を翻し、バルロッサもまた「エイペン、逃げるわよ!」と怒鳴るや否や脱兎の如く走り出す。
『バ、バルロッサ様、お待ちを』
ワンテンポ遅れてエイペンジェストが後を追いかけ、チッと舌打ちしたアーシュラも彼らの後を追いかける。
四人は全く同じ方向へ逃げていく。
恐らく、その向こうには彼らの乗ってきた棺桶船が待っているに違いなかった。
「……あらあら」
唐突な全員敵前逃亡に意表を突かれたか、呆気にとられてナタリーはウォンへ問いかける。
「どうしましょう?追いかけて殺すか、それとも」
『ベルベイと会う気がないなら、見逃してやってもいい』
てっきり追いかけて殺すと答えるかと思いきや、ウォンは投げやりに言った。
「あら、彼女との約束を反故にするおつもり?」
『あいつはカゲロウやエイジと会うのを他の奴に邪魔されたくないだけだろ?逃げる分には関係ねぇさ。逃がしたところで、所詮は雑魚だ』
先ほどまで互角に殴り合っていたのを忘れたのか、そんな軽口も叩く。
遠ざかる四つの背中を見つめ、ナタリーはポツリと呟いた。
「まぁ……あなたに戦う気がなくなったのなら、無理強いは出来ませんね。私一人で追いかけたところで倒せませんし。仕方ありません。ベルベイには逃げられたと報告しましょうか」
『逃げられたのは事実だろ』とウォンも頷き、二人はアスカードに抱きかかえられてベルベイの元へ戻っていく。
――数分後、その後を追いかけてきた人影が地上に二つ、いることにも気づかずに。