Devil Master Limited

1-6.予行練習

買い出しにはデヴィットとバルロッサが行くことになり、ラングリットは車の手配を頼まれる。
同僚のジェイにバルホ方面への地図がないかと尋ねたところ、彼は快くナビゲーターを貸してくれた。
「ハンドルさばきには、くれぐれも気をつけろよ。バルホ地区っていやぁ、山道と急カーブが多い場所だ」
ナビゲーターの電源を入れて調べてみると確かにジェイの言うとおり、グニャグニャと曲がりに曲がった道なりが幾つもの螺旋を描いている。
漠然と、お貴族様の住む地区だという知識しか持ちえていなかったラングは驚いた。
「貴族がなんだって、こんな面倒な運転の必要な場所に住んでんだ?」
するとジェイは呆れたように肩をすくめ、ラングを見やる。
「貴族だからこそ、だよ。あいつらは俺ら庶民と違って敵が多いんだ」
「敵、ねぇ……」
貴族の敵とは、なんぞや。財宝目当ての強盗か?
いまいちピンとこなかったラングだが、どうせ自分とは関わり合いのない世界だと割り切り、それ以上考えるのをやめた。
ジェイは興味がないのか、あれこれ詮索もせず、くるりと椅子を回して机に向かう。
「ま、とにかくナビはしばらく貸しとくから。用が終わった頃にでも返してくれよ」
「判った」と頷き、部署を出ていきがてら。
そういやエイジも貴族の出ではなかったか。
そんなことを、ラングリットは思い出していた。

こんな大型マーケットへ来るのは、何ヶ月ぶりかしら。
一人ならウキウキした気分になれたものをと残念に思いながら、バルロッサは買い物カゴを手に取った。
デヴィットとバルロッサは会社から二駅ほど離れた区域にある、巨大マーケットに出向いていた。
デヴィット曰く、ここなら普通の店で買うより五パーセントは安売りされているんだとか。
お買い物情報に聡いとは、彼も意外な一面を持っているものだ。
必要なものを買い物カゴに放り込みながら、バルロッサは売り場案内に素早く目を通した。
ファッション売り場は五階、本屋は七階。
どちらも後で寄っていきたいが、ツレが許してくれるかは甚だ疑問であった。
「そう、つまんなそーな顔しないで欲しいな」
不意に当のツレ、デヴィットが話しかけてきたので、バルロッサは不機嫌に振り返る。
「エイジじゃなくて僕が同行ってんじゃ、君が楽しくなくなる気持ちも判るけど、さ」
「別に、つまらないとは思っていないわ」
バルロッサは心にもない社交辞令を飛ばし、ロープを買い物カゴに投げ入れる。
「じゃあ、どうして不機嫌そうなの?」と追ってすがるデヴィットには、素っ気なく返した。
「始終ニコニコして買い物をしているほうが、不気味じゃない?」
買い出しに二人も行かせるのは余分であった。
デヴィットは関係のない棚を眺めるばかりで、必要なものは、もっぱらバルロッサが見つけている。
先ほどもお菓子の棚に張り付いて動かなくなったので、さっさと置き去りにしてきた処だったのだ。
これでニコニコしていられるほうが、どうかしている。
「ほら、これ。二パックで三百クォースだぜ、お得だろ」とデヴィットがカゴに投げ込んできたのは、クッキーの詰め合わせだ。
普段なら、バルロッサもお茶請けに買ったりする。
しかし、今は普段の買い物ではない。
「遠足じゃないのよ?お菓子なんて買う予算はないわ」
眉根をよせて反論すると、彼はバルロッサの目の前でチッチと指を振ってきた。
「ほら、また不機嫌になっているじゃないか。もっと、余裕をもって行動しなきゃ駄目だよ」
「これから難しい依頼だってのに、あなたみたいにリラックスしまくれって言うの?」
嫌味の一つも飛ばしてやれば、デヴィットには薄笑いで返される。
「おいおい、君はベテランだろ?それにしちゃ余裕がなさすぎだぜ。それにね、甘いモノは疲労回復や思考の休息にも役に立つ。一つぐらいは買っておいても損はないよ」
ご丁寧に二パック突っ込まれ、バルロッサの眉間には縦皺が刻まれた。
「あらそう、ご高説どうも。でも、だからって二つもいらないでしょ」
「言っただろ?二パックで三百クォース。一パックだけ買っても損じゃないか」
言うが早いか、さっさと別の棚へ歩いていくデヴィットへバルロッサの声がおっかぶさる。
「こんなに食べられないわよ!」
振り返りもせずに彼は言った。肩をすくめる真似をして。
「君に全部食べろとは言っていないさ。余ったら、僕が食べてやるよ」

道具や車の調達を先輩諸氏に押しつけてエイジとカゲロウが何をやっていたかというと、会社に残り情報を集めていた。
「やぁ、こいつはまずいな」とカゲロウが呟いたので、エイジは彼の肩越しにモニターを見やる。
開いていた記事は、主に悪魔遣いのニュースを取り扱っているサイトだ。
真っ赤な見出しの一面は、このたび起きた悪魔遣い協会の不祥事だが、カゲロウの見ていた記事は、それじゃない。
画面中段を指さし彼が言う。
「既に行方不明者が何人か出ているようです、それも相当な大物がね」
「行方不明?」と首を傾げるエイジへ、カゲロウが相づちを打つ。
「そうです。このタイミングで、となればベルベイに助っ人登場が予想されますね」
「どうして、そう思う?」
「簡単です」とカゲロウは頷いた。
「彼らに失踪する他の理由がないからですよ」
そう簡単に結びつけてもいいものだろうか。
偶然が重なっただけとも考えられる。
記事によれば、消息不明となっているのは現在三名。
淫夢遣いのラダマータ=ドラグナー、影食いのハムダッド=イェルム、千手遣いのウォン=ホイ。
異名を取るからには、この道での有名人なのだろうが、他社のライバルに疎いエイジは再び首を傾げた。
ラダマータは褐色の女性、ハムダッドは頭にターバンを巻いた初老の男性、ウォンは年若き青年に見える。
それぞれに所属する組織や会社は違うものの、全員がある日突然無断欠勤し今も連絡が取れないという。
「有名なのか?」
尋ねるエイジを、カゲロウが驚いた目で見つめる。
「知らないんですか?超有名人ですよ、バラエティー番組や雑誌のインタビューに何度も出たことがある」
「そういうのは、あまり見ないんだ」
俯くエイジに「では、今度から見るようにした方がいいですよ。面白いですから」と応え、カゲロウは素早くタブを切り替える。
表示されたのは、三人に関する情報だ。
ラダマータの公開日記と、ハムダッドの勤めていた会社のサイト。
そしてウォンに関する情報は、個人運営の交流掲示板であった。
「これ、見て下さい。ラダマータは失踪の一日前にスケジュールを公開しているんです。日記によると、次の日はラジオに出る予定だったんだ。それなのに失踪なんて、ありえないでしょう?」
ハムダッドもウォンも、予定がぎっしり詰まっていた。
なのに失踪したのである。
偶然とは言い切れなくなってきた。
「追っ手になった可能性は?」
エイジの問いに「それはないでしょう」と、カゲロウは断言する。
「追っ手になったなら会社に連絡を入れるはずですし、そもそも僕達の依頼は組織を通して回される。なのに会社が彼らの行方を知らないなんて、おかしいじゃないですか」
こんな大々的に行方探しをするのは、確かにおかしい。
「ならば、事件に巻き込まれた可能性は」
「それもどうでしょうねぇ」
カゲロウが顎に手をあてる。
「偶然に偶然が重なって偶然、彼らとベルベイが接触したとしましょう。そしてベルベイないしアリューが手を下したら――いや、でも、それもありえないな。リスクが大きすぎる」
「相手が超のつく有名人だからか」と、エイジ。
「その通りです」
満足げに頷き、カゲロウはモニターの電源を落とした。
「小者が一人二人、この世から消えたところで誰も気にしません。でも大物は無断欠勤して連絡が取れないってだけで、この騒ぎだ。彼らを手にかけるぐらいなら、いっそ手なずけて仲間にしてしまったほうがいい」
「そう簡単に、手なずけられる相手なのか?この三人は」
半信半疑のエイジの耳元へ、そっとカゲロウが囁いてくる。
「簡単ですよ。こういう奴らはね、話題性を求めているんだ。常に自分たちが目立つ為の話題をね」
顔の近さにギョッとなりながら身を引いて、エイジは尋ね返す。
「パフォーマンスだと騙して?しかし、彼らが自分より無名の相手に耳を貸すものなのか」
くすりと微笑み、カゲロウも身を引いた。
「アリューは、あなたが思うほどには無名ではありませんよ。知る人ぞ知る悪魔です」
それよりも、とカゲロウは椅子に腰掛けエイジを見やる。
「面倒な輩が敵に回ってしまったかもしれません。エイジさんは悪魔の能力に対して、どれだけ抵抗力をお持ちですか?例えば淫夢とか」
「その、淫夢とは何だ?」
真顔で返され、カゲロウは言葉に詰まる。
この業界では知らぬ人などいない超有名人を知らないと言われた時から薄々予感はあったが、まさか、これほどまで世間に疎いとは。
第一印象では賢そうに見えたのに、どんどんカゲロウの中でのエイジの印象が悪い方へ下がってゆく。
「えぇっと、そうですね。サッキュバス、或いはインキュバスでも構いませんが、その手の淫魔と戦ったことは、ありますか?」
「いや」と首を真横にふるエイジを、まじまじと眺め、カゲロウは何度も信じられないとばかりに頷いた。
「いやはや……それは、危険ですね」
「どう危険なんだ」
エイジも、だんだんイライラしてきた。
この男、どうも情報を小出しにする癖がある。
「淫魔は術師の心に直接コンタクトを取ってきます。所謂、精神攻撃ですね。どんな悪魔を使役していようと関係ありません。彼らの攻撃目標は悪魔遣いです。エイジさんが、その手の攻撃に慣れていないとしたら、大変に危険な相手と言えましょう」
「精神攻撃……」
今回のターゲット、ベルベイの遣い魔も人の心を洗脳する、いわば精神攻撃の類である。
「淫魔に襲われると、どうなるんだ」
好奇心に誘われて尋ねたが、カゲロウは苦笑して肩をすくめただけだった。
「ここでは、ちょっと話しにくいですね。あとで、ご自宅のプロセッサをお使いになって調べてみて下さい」
ここまで話を進めておいて、それはない。
だがエイジがいくら不満に思おうとも、淫夢の話はそこで途切れてしまった。
ちょうど買い出しに行っていた二人と、それから「車の手配は何とかなりそうだぜ」と言ってラングリットも戻ってきたからだ。
あとはデヴィットの買い出し報告が始まり、カゲロウとエイジはそれを聞く羽目になった。
「必要そうな物は大体揃えたよ。ロープにナイフ、シャベルにランタン、通信インカムを人数分、それと小型麻酔銃もね。ま、悪魔に武器が効くかどうかは判らないが、少なくとも後ろの悪魔遣いには有効だろうさ」
「このクッキーは?撒き餌か」と、ラングリット。
いらぬ横やりにも「それは僕らのおやつだよ」と手でそんざいにクッキーを机の脇へよけ、デヴィットは続けた。
「粘着テープと手錠もあった。さすが最近の大型マーケットは何でもあるよね」
「ベルベイを捕まえるなら、それで充分でしょう」
カゲロウはパチパチと拍手した。
「アリューを捕まえる道具は?」と尋ねるエイジへは、バルロッサが答える。
「一応、聖書と五法陣の符を買ってきたけど……正直、強化された遣い魔に効くとは、とても思えないわね」
「効くわけないって言っただろ?」と混ぜっ返してきたのは、デヴィットだ。
「教会は今や時代遅れさ、そんなものを一般市民に売りつけているなんて」
教会は、悪魔遣いとは相反する位置にいる組織だ。
悪魔遣いのバルロッサとデヴィットが、よく何も言われず捕まりもせず無事に戻ってこられたものだ。
「教会にも寄ったのか」
机の上に並べられた聖書と、それから数枚束ねられた符を見て、エイジは溜息をつく。
五法陣の符は名前こそ御大層だが、要は簡易結界。
小さな結界を作り出し、悪魔を中に封じ込めるだけの術符である。
駆け出しのエクソシスト御用達道具だ。
デヴィットの言うとおり、こんなチャチな術符が使役される悪魔に通用するとは思えない。
「彼女、聖水まで貰ってこようとしたんだぜ?さすがに止めたけど」
小馬鹿にした顔でバルロッサを嘲笑い、デヴィットがエイジに耳打ちする。
「知ってるかい?聖水の成分」
「いや」とエイジは首を振り、近寄ってきたデヴィットから身を離す。
あからさまな拒絶にもデヴィットが気を悪くした様子はなく、彼はニヤニヤ笑いを浮かべて続けた。
「シスターのお小水で出来ているんだってさ。うちの親父が前にそう言っていたからね、間違いない」
「お小水とは?」
キョトンとするエイジにデヴィットも虚を突かれたかキョトンとなり、次の瞬間には天井を仰いで大爆笑した。
「はぁっ、これは驚いた!皆がよく知るテンプレネタも、君には全然通じないんだねぇ」
なんで笑われたのか判らずエイジはぶすっとなるが、ラングリットのツッコミ「ションベンだよ、オシッコだ」を聞かされた時には赤面する。
「なら、そうと言えばいいんだ」
照れ隠しにボソッと呟くエイジをバルロッサは興味津々眺めていたが、やがて「あ、そうそう」と思い出した。
「ねぇ、ニュースポスト見て驚いたんだけど、知ってた?ミス・ラダマータが数日前から行方不明って話」
「あぁ、それならさっき話していた処ですよ」と受け応えたのは、カゲロウだ。
「怪しいよねぇ、このタイミングで三人が三人とも一斉に音信不通になるなんてさ」
デヴィットもカゲロウみたいなことを言い出して、ラングリットが話に加わった。
「ラダマータって、あれだろ?淫夢使いのエロいねーちゃん。あれが敵に回ったかもしんねーってのか?」
「エロいって嫌ぁねぇ、そんな目でしか見られないの?男って」
一応は怪訝に眉をひそめてみたが、それ以上ラダマータをフォローする気もないのかバルロッサがエイジを振り返る。
「万が一って事もあるわ。もし彼女が敵に回るような事があっても、あなたは前衛に出ないでね」
「何故?」と尋ねるエイジを見つめ、バルロッサは微笑んだ。
「あなたが淫魔に誘惑されるなんて、そんなの私が我慢できないもの」
ほとんど告白と言ってもいいような台詞だが、残念ながら目の前の堅物には一ミリも気持ちが伝わらず。
自分だけが知らなかった事実に、ますます憮然となってエイジは皆に尋ねた。
「その、淫夢とは何なんだ?誘惑されたら、どうなってしまうんだ」
三人、いや、カゲロウを含めた四人は顔を見合わせ、沈黙する。
ややあって、ラングリットが答えた。
「メロメロになっちまうのさ」
「メロメロ?」
やはり判っていないエイジに、今度はデヴィットが付け足す。
「身も心も淫魔のモノになってしまうんだよ」
例えば――と近づいてこようとするのはバルロッサが体で防ぎ、その代わりエイジに色目を送ってきた。
「簡単に言えば、そうね、私があなたを誘惑したとするわ。それにかかってしまったあなたは、私を好きになってしまうのよ。自分の意志とは関係なく、ね」
洗脳と同じだ。
洗脳なら洗脳と言えばいいのに、わざわざ言葉を言い換える意味は何だ。
だが、ひとまずエイジは判った顔をして質問を打ち切った。
それこそ、あとで自宅で調べてみればいい。
洗脳と淫夢の違いとやらを。
何でもかんでも質問して、これ以上、自分の無知をさらけ出す必要もあるまい。
話はそれからニュースサイトやバルホ地方へ逸れていき、ラングリットには出生を尋ねられる。
「そういやエイジ、お前の実家は貴族じゃなかったか?バルホにゃ行った事ないのかよ」
エイジは幼い頃の記憶などないに等しいと断り、先輩諸氏の無遠慮な詮索を断ち切らせた。
嘘ではない。
実家の記憶は九歳で途切れている。これでは、ないも同然だ。

家へ帰るや否や、エイジは自室にこもってワールドプロセッサを立ち上げる。
淫夢で検索すると、出るわ出るわ、こんなに情報があったのかと呆れるほどの数が検索結果に表示された。
淫夢とは、文字通り淫らな内容の夢を指す。
普通に夢を見るだけなら次の日、何事もなく起きられるが、悪魔の手にかかった場合は意識の自由が一切効かなくなる。
使うのはサッキュバス、またはインキュバスと呼ばれる種の悪魔で、人間が夢を見ている時に意識へ入り込むらしい。
洗脳との違いは、エッチかエッチじゃないか。
道理で、カゲロウが会社で話したがらなかったわけだ。
エイジとて年頃の男性であるから、エッチに興味がないかと言われたら答えはノーだ。興味はある、一応。
ただ、相手は限られていた。脳内で裸を想像できる相手が。
ワードを【淫夢】に【慣れる方法】と入れ直し、さらに検索をかけると、これもまた、わんさか引っかかった。
淫らな夢に慣れる方法は、意外や簡単であった。
普段からエッチな妄想をし慣れていれば、そう簡単に心をかき乱されないという。
……本当だろうか?
エイジの開いたページには、親切にもエッチな妄想のやり方まで書いてあった。
所謂世間でいうところのマスターベーション、自慰行為のやり方が順番まで振って書かれていた。
今どき思春期の少年でも、マスのかきかたぐらいは知っていよう。ふざけたページである。
しかし驚いたことにエイジは今まで一度も、その手の行為をしたことがなかった。
ランスロットと同居している手前、気恥ずかしかったのだ。
それに自分がそんなイヤラシイ妄想をしていると、遣い魔に知られるのも嫌だった。
だが、もう嫌だの恥ずかしいだのと言っている場合ではない。
慣れなきゃ屈する。習うより慣れろ。何事も経験だ、経験。
自分を自分で説得し、エイジはズボンのチャックをおろす。
パンツをまさぐり、己のブツを外気に晒した。
我ながら、間抜けな格好だ。
こんな状態をランスロットに目撃されたら、一撃で死ねる。
さっさとやり方を覚えて、慣れてしまうに限る。
エイジはサイトの説明通り、自分の竿を手で上下に扱き始める。
加減が判らないので、最初は優しく、次第に強く。
何がいいのか、これで何になるというのか。
しばらくゴシゴシこすってみたものの、良さがさっぱり判らない。
いやいや、もっと長く続けてみなければ、判るものも判らないと言えよう。
声を出せばいいとも書いてあったが、どんな声を出したらいいのか判らない。
それに薄い壁一枚隔てた向こう側には、ランスロットがいる。
下手に妙な声を出して駆けつけられたら、たまったものではない。
エイジは扱くのをやめて、己の手をジッと見つめた。
この手は好きな相手の手だ。そう思え。
好きな人を脳裏に思い描きながら、その人にされていると考えるのだ。
なかなか高度な妄想だ。
もし彼女なら、どういう風に扱くだろう?
彼女なら、けして強く握ったりはしないはずだ。
優しく、赤ん坊を扱うかのごとく丁寧な手つきでやるに違いない。
エイジは目を閉じ、脳裏に彼女の姿を思い浮かべる。
できれば裸がいいと、さきほどのページに書いてあったので、素直に裸をイメージした。
彼女の裸なら、幼い頃に何度も見ている。
あの頃は、一緒に風呂へ入るのが日課だった。
彼女が右手で自分のモノを、やんわりと握る。
舌を、こう、先端に這わせて……
親指が先に触れた瞬間、エイジの全身をぞくりとしたものが走り抜け、びくりと体を震わせた。
今のは、なんだ!? 今までに一度もなかった感覚だ。
これが快感と呼ばれるものなのか。
これだ、きっとこれが自慰行為の本懐なのだ。
気持ちよくなる――
エイジは、ただひたすら、自分が気持ちいいと思える部分を弄りまくった。
いつしか、自分でも気づかぬうちに小声で呟いていた。
彼が世界で一番大切に想う、相手の名前を。

会社から戻って来るなり自室にこもってしまったエイジをランスロットはやきもきしながら食卓で待っていたのだが、ついには待ちきれなくなり彼の部屋の前までやってきた。
これまで一度も、そんな態度を取られたことがないだけに心配だ。
何か悩み事でもあるんじゃなかろうか。
だとしたら、是非とも自分に相談して欲しい。
ドアに耳を当てて中の様子を伺うと、なにやら呻き声のようなものが聞こえてくる。
まさか――病気!?
慌ててドアを勢いよく開けようとして、ランスロットは思い留まる。
違っていたら、それはそれで大変だ。
ノックもせずに飛び込んでくるとは何事だ、と怒られてしまう。
しかし、呻いている。
あぁ、とか、うぅ、とか言葉にならない言葉を吐いているのだ。
ノックをしたとして、ご主人様が果たして歩いてドアを開けてくれるものか。
ランスロットは扉の前で散々考え込んだ末に、結論を出す。
そっと扉を開き、中の様子を隙間から覗き見した。
細い視線に入ってきたのは――壁を向いて椅子に座ったエイジの背中であった。
よかった、病気ではなさそうだ。
とはいえ、あの格好で寝ているわけでもなし、壁を見つめて一体何をしているのだろう?
やたら体を激しく揺すっている。意識は目覚めているようだ。
興味を持った悪魔は、そっと忍び寄る。鎧甲冑を抜けだし、煙となって。
天井から回り込み、何気なくエイジの様子を覗き込んだランスロットは、危うく大声をあげる処だった。
長年人間社会で暮らしていれば、人間の生活行動や思考回路は大体把握できる。
ランスロットとて、例外ではない。
この遣い魔は、むしろご主人様より俗世に詳しくなっていた。
だからこそ、一目見ただけで判ってしまったのだ。
エイジが何をやっているのかを。
人間の雄が雌に欲情するのは知っている。
雌を想い、雌の行為を想像に重ねて淫らな妄想をすることも。
だがエイジが、ご主人様が、まさかそんな、自慰行為をするとは思ってもみなかった。
予想外の出来事に、ランスロットは軽く硬直してしまう。
ランスロットの中でエイジは、いつまで経っても清らかな少年のイメージで固定している。
大人になってもエイジは清らかな存在のままであり、異常なほど神聖化されていた。
永遠に無垢なピュアハートを持つエイジが自慰行為など、するはずがないのである。いや、しては駄目だ。
世の中のエッチなものを知っては、エイジが汚れてしまう。
そう思い、わざと彼を、その手の物から遠ざけてきたのに。
どこで、こんなイヤラシイ行為を覚えてしまったのだ。
会社か?会社の連中が吹き込んだのか。
ランスロットは心の中で激しく憤ると同時に、エイジが何か呟いているのに気づき耳をすませた。
「……ット……」
が、声が小さすぎて聞き取れない。
何にしても自慰行為時に呟くとしたら、絶対に名前である。
名前以外ありえない。それも好きな人、女の名前だ。
エイジが誰かに恋したなんて、ランスロットの記憶には一切ない。
時折、誰それの娘の話をすることはあったが、ランスロットが不機嫌に黙ると翌日には、しなくなった。
自分の知らないうちに、それも相談すら一切なしに、エイジが誰かを好きになったんだとしたら。
深い悲しみがランスロットの胸を押しつぶし、黒い煙はクルクル回って鎧甲冑の中へ潜り込む。
そんなの、耐えられない。
考えるだけでも嫌だ。
エイジには卑猥な物を教えたくない反面、ランスロットはエイジに自分を好きになって欲しいと願っていた。
もっとも願うだけで、けして表には出さなかったから、恐らく彼には全くと言っていいほど伝わっていないであろう。
伝えてはいけない恋心だ。
告白しようと思うたび、契約の儀式の後、初老の悪魔遣いに言われた忠告が、いつもランスロットの脳裏をよぎる。
悪魔と悪魔遣いは、必要以上に仲良くなってはいけない。
けして恋仲になっては、いけない。
異種間同士の恋愛など、悲劇しか生まないのだから――
『エイジ様、エイジ様……』
廊下に座り込んでシクシク泣いていると、ドアが不意にがちゃりと開き。
些かスッキリした様子のエイジが顔を出した。
「……何をやっているんだ?こんなところで」
『あぁ、エイジ様!酷い人っ。私は、私は、もう夕飯いりませんッ。エイジ様お一人で食べて下さいまし!!』
ランスロットはガチャガチャと激しく鎧を鳴らして自分の部屋に駆け込むと、エイジをますます困惑させた。