其の一 長門日兄弟
その年は例年に比べ、闇の濃い年であった。
奥山の中に、彼らの家がある。
長門日家――
戦国時代には、邪霊を打ち払う霊媒師として名を馳せた一族である。
だが、かつての栄誉も現在は無きに等しい。
先代が鷹津禍流を名乗る霊媒師に敗れて以降、一族は衰退の道を辿った。
長門日御殿と呼ばれていた屋敷も、今では見る影もない。
朽ち果てた茅葺きの、みすぼらしい一軒家があるだけだ。
さて。
朝もはよから、カンカンと賑やかな音が家中に木霊する。
源太の嫁、静が鍋を菜箸で叩きながら皆を呼び寄せていた。
「源ちゃ~ん!よっしー、起きて起きて!飯だよ~、飯ができたぞぉ!」
彼女の目の前には、ほかほかと湯気をたてる朝食が。
あまり上手な盛りつけではないが、量の多さが家族への愛情を物語っている。
……とでも言っておこう。彼女の為に。
「むぅ。どっちも起きてこん。まーだ寝とるんかいな」
ふぅっと大きく溜息をつくと、静は少し大股で部屋へ向かった。
まずは旦那。源太を叩き起こして着替えさせたら、次は義弟の番だ。
私用の部屋は二つあり、一つは静と源太の部屋。
二人部屋にしては狭く、寝る時は半分以上源太が占領する。
もう一つは離れた場所にあり、廊下の突き当たり。こちらの部屋は、もっと狭い。
そちらは吉敷が一人で使っているから狭くとも構わないであろう。
ただし、そっちに踏み込むのは静の役目ではない。
静が行くと吉敷は不機嫌になるから、彼を叩き起こすのは源太の仕事となる。
吉敷は最近特に気難しくなったように思う。
もっとも学生時代の頃から、吉敷は静に対し友好的ではなかった。
彼の尊敬する兄貴を、静が独り占めしているように見えたのだろうか。
源太は高鼾をかいて熟睡していた。鼾だけでない、だらしなく寝涎も垂らして。
分厚い胸板が激しく上下している。寝間着もつけず、褌一丁であった。
夜中何度かけ直しても蹴飛ばされた布団は、やっぱり蹴飛ばされ脇に押しつけられていた。
時折ぼりぼりと褌の中に手を入れては、激しく掻いている。
昨日も、きちんと風呂に入ったはずなのに。こういうところは結婚前から全然変わらない。
静は、すぅっ、と大きく息を吸い込むと。
「……げーんちゃーんっっ!オーキーローッ!!」
耳元で怒鳴った。
途端、源太の体がビクッ!と跳ね上がり、彼は大層驚いた顔で起きあがる。
「うぉーッ、うぇーッ!お、お、驚かすない、静ッ!」
なにやら獣のように意味不明な唸り声を発し、のそのそと洗面所へ向かった。
静の投げた着物が、源太の肩元に引っかかる。
「ほら、ちゃんと着替えて!目ェ覚めたら、よっしーも起こしてきて」
「ふぁい」
大きな体躯に似合わぬ情けない返事がかえってきて、静は含み笑いを漏らす。
普段はどっしりと構えており、頼りがいのあるところも見せてくれる旦那だが、起きがけの源太は愛らしい。
静の言うことにも逆らわず、まるっきり素直な子供である。
彼を起こす役目だけは、誰にも譲れない。
顔も洗い、さっぱりした源太が戻ってくる。彼は手ぬぐいで顔を拭き拭き、嫁に言った。
「吉敷じゃが、あいつならもう起きてるんと違うかのぅ」
「うそ?だって飯だって呼んだのに来ないよ?まだ寝てるんじゃないの」
「外に出とったら声も聞こえんだろ。どら、ちょっと探してくるとするか」
「うーん。じゃ、あたしは一応部屋ん中見とくわ」
「おう」
旦那を送り出し、静は突き当たりの部屋へ向かう。
襖は閉まっていたが、すんなり開けることができた。
普段ならば、つっかえ棒が邪魔して開けることも困難なはずなのに……
静が同居するようになってから、吉敷は襖につっかえ棒をするようになった。
明らかに、静へ対する拒絶である。
だから最近は、吉敷を起こしに行くのは兄である源太任せとなっていた。
源太はつっかい棒など物ともせず、襖を破壊してでも部屋に押し入る。
吉敷も源太になら、襖を破壊されても文句はないようであった。
その吉敷が、部屋にいない。
布団は片づけられており、部屋の隅に押しつけてある。
部屋を出てから、かなり時間が経っているのか、布団は既に冷たくなっていた。
「ありゃ。源ちゃん大当たりかィや。どーこ行っちゃったんだか?」
襖を閉めると、静は食卓へ戻る。
朝食は早くも冷めてきている。ご飯からのぼる湯気が、さっきよりも少ない。
「……今日のは、ちょーっと自信作だったのになァ……」
少し寂しそうに静は呟き、お茶を入れた。
奥山の森は、深い。
家を抜け裏の獣道を辿っていくと、彼ら長門日兄弟が使う修行場へと出る。
修行場と言っても、何かしらの訓練用具が置いてあるわけではない。
生い茂る草の中。
苔むした岩場。
年中激しく流れ落ちる滝。
そこに人の気配はない。あるのは静けさと、自然だけだ。
精神修行、及び霊力向上の修行をするには、うってつけの地場であった。
朝露を含んだ草を踏みしめ、源太は開けた場所へ出る。
「うぉーい、吉敷ィー……っと、いたいた」
吉敷は滝の側にいた。苔むした岩に座し、瞼を閉じている。
彼の手元には形を留めぬモヤモヤとした物が丸くなっていたが、源太の声に驚いたか素早く吉敷の体を駆け上り、彼が懐に忍ばせている竹筒の中へと消えていった。
「おぅおぅ、朝っぱらから座禅かい。熱心なことで」
ゆっくりと、吉敷が瞼を開く。源太の姿を目に留めると、彼は立ち上がった。
「座禅というか……まぁ、霊力の修行を、な」
「霊力向上の練習か?大婆様の言いつけなんぞ、よく守る気になるのぅ」
立ち上がる弟の肩に手をかける。
その肩が、じっとりと濡れていると判るや否や、源太は弟に後ろから抱きついた。
「あっ、兄貴何すんだ、重いだろ!」
ずっしりと重量がかかってきて吉敷が悲鳴をあげるも、源太は全く聞こえない素振り。
吉敷の湿った着物を捲り上げ、脱がしにかかる。
「聞いてるのか兄貴!?」
「朝飯の前に、お前は風呂に行った方がよいな。一緒に入るか?」
「ふ、風呂には入る!だが何もここで脱がさんでもいいだろうがッ」
胸や尻をペタペタ触りまくったあげく、褌の中にまで源太の手が入り込んでくる。
その手を邪険に払いのけると、吉敷はさっさと歩き出した。
「お~い。何だ吉敷、怒るこたぁないじゃろ」
相手にせず、どんどん坂道を下ってゆく。
兄は次第に情けない声になりながらも、先を行く吉敷を追いかけた。
「昔は一緒に入っただろうが。なんだか、最近の吉敷は冷たいのぅ」
やがて前方に見慣れた我が家が見えてくる。
風呂は家の外にあった。離れになっていて、釜戸に火を入れる式の風呂だ。
「昔って、いつの話だ?ほら、風呂に入ってくるから兄貴は先に食っててくれ」
「まぁ、そう言わずに。俺も山道入ったら濡れてしもうたんじゃ。ちょっと待ってろ」
なにが『そう言わずに』なのかは判らないが源太は一旦家に入り、しばらくすると戻ってきた。
「ほれ、静に借りてきた。都会で大流行のボデーソープとボデータワシだそうだぞ」
彼の嫁が風呂でご愛用の手ぬぐいと、せっけんを手に持って。
先ほど家に入ったのは、これを借りるのと飯を後にする許可を貰いに行ったものらしい。
やたらニコニコしながら、風呂場へ向かう吉敷の後をついてくる。
「で?俺は風呂に入るから、兄貴はとっとと飯でも食えと言ったはずだが」
「ま、ま、えぇだろうが。たまには兄弟二人で汗を流すというのも乙なもんじゃ」
「二人で入れると思ってんのか?入ったら風呂桶が壊れるぞ」
無邪気な兄に呆れつつ、吉敷は釜戸の前に座り込む。
両手を併せ強く念じると、すぐに彼の側へ暖かい光を放つ球体が寄ってきた。
無論、ただの球体ではない。光の正体は、聖獣であった。
火の聖獣。彼の名を呼ぶなら、本人曰く『火霊』と言うらしい。
出会ったばかりの頃、聖獣が自ら吉敷に名乗ったのである。
聖獣の言葉は、吉敷にしか聞こえない。
静は当然のこと、霊力が吉敷より遥かに高い源太でさえ聞くことができない。
そればかりか源太達には、聖獣がハッキリと見えていないようでもあった。
源太の目には朧気な気体にしか見えないソレも吉敷の目には、はっきりと聖獣に見えている。
火霊が、吉敷にしか聞こえない言葉で話す。
[呼んだ?ヨシキ。また風呂に火をつければいいんだね?]
「あぁ。頼む」
[他ならぬ君の頼みだもの。お茶の子さいさいサ]
精霊とは、普段は人とは関わりなく生きている者達である。
自ら人間と関わり合いになろうなどと、普通なら考えないものだ。
だが彼らは、幼い頃から吉敷には親切であった。
だから気難しい彼も、聖獣にだけは心を許している。唯一の友達と言っても良いぐらいに。
輝く球体が釜戸の薪に近づいた途端、勢いよく炎が燃え上がる。
「うぉ!また聖獣を呼んだんかぃ」
この時になって、ようやく源太も気づくのだ。光の正体に。
「えぇのぅ、便利でえぇのぅ」
「兄貴の霊力に比べたら、大した力じゃないさ」
火霊は確かに便利な力を持ってはいたけれど、彼は戦いを嫌がった。
彼だけじゃない。
吉敷の側に集まる聖獣のほとんどが、戦いを好まぬ穏やかな性格ばかりであった。
[また呼んでね]
ふ、と火霊の気配が掻き消える。
所詮友達は友達であり、仕事仲間ではない。
「さーて、綺麗綺麗してやろうかのう」
脱衣籠に衣類を放り込み風呂場に入った直後、閉めたばかりの戸を開けて全裸の源太が入ってきたもんだから、吉敷の目は点に。
「ハ?いや、兄貴、何入ってきて」
抗議を兼ねた質問は、最後まで言わせてもらえなかった。
いきなり源太が、ガバッと背後から飛びかかってきたのだ。
兄とは身長だけでも頭二つ分は違い、体重に至っては二倍近くの差がある。
それが、いきなり飛びかかってきたのでは、為す術もない。
あっさり押さえ込まれてしまい、吉敷は身動きが取れなくなった。
尻を高く上げるという屈辱的な格好で押さえつけられ、更には泡まみれの手ぬぐいが尻の穴に当てられる。
「まずは、一番汚いところを重点的に洗うとすっかのぅ。ガハハハ!」
「待てってば!体なんざ自分で洗える!いい加減にしろ、このバカ……ッ」
恥ずかしさや怒りとは裏腹に、源太の指が入った瞬間、思わぬ声が口を飛び出しかけ吉敷は歯を食いしばる。
指は、せっけんの泡立ちのおかげか大した抵抗もなく、ぬるっと入ってきた。
手ぬぐいのザラザラ感が内部の肉と触れるたび、何ともいえぬ快感が体中を駆けめぐる。
「く……ぁ……っ や、め、ろと言ってんだろうがッ」
身をよじり逃れようとするのだが、そのたびに指が奥へ入ってきては内の肉をくすぐってゆく。
吉敷は喉元まで出かかった悲鳴を飲み込むので精一杯。とても止めるどころではない。
「んんッ」
「可愛いのぉ」
耳元で囁いた源太の声が、やたら遠くに感じられる。
指は相変わらず入口を出たり入ったり、執拗に内部を刺激してくる。
せっけんの、ぬるぬるした感触が思った以上に心地よくて、頭がボ~ッとしてきた。
このまま攻め続けられていては、気を失ってしまいそうなほど。
「や……も、もォ、やめて……くれッ」
半ば涙目で懇願すると、ぐりぐりと穴をほじっていた指が不意に止まり、引き抜かれた。
やっとやめてくれたのか、と思いきや、つまらなさそうに源太が呟く。
「糞の後は、きちんとケツを拭いとるよーじゃのぉ。お前からはウンコさんの匂いがせんわ」
その一言でボーッとしていた意識が、はっきり蘇ってくる。
カッとなった吉敷は、思わず叫んでいた。
「し、してたまるかっ、兄貴じゃあるまいし!」
「ハッハッハ、確かに。じゃあケツはこの辺でヨシとして、次は前だな」
大して気を悪くした様子もなく、源太は再び手ぬぐいにせっけんを擦り付ける。
押さえつける手が緩んだのを見過ごす手はない。
吉敷は勢いよく身をひねり、その反動で上に乗っかっていた源太が転がり落ちた。
「おわったったぁ!」
思いっきり尻餅をつき、痛みで顔をしかめる兄を冷たく見下ろすと。
「……あんまり長風呂してたら飯が片づけられちまう。先に食べてくるよ」
森中に響き渡るかってほどの勢いで、吉敷は風呂場の戸を閉めた。
すっかり冷めてしまったようで、食卓には温めなおされた朝食が並んでいた。
「ずいぶん長風呂だったねー。ほら、朝飯あっためなおしといたから、あったかいよ!」
あれだけ待たせたというのに、兄嫁のテンションは高いまんまだ。いつも通りに。
「おーっ、今日は一段と豪勢だのぉ!」
「アッハァ、冷凍食品ばっかだけどねェ」
吉敷に続いて入ってきた源太へアツアツご飯が入った茶碗を渡すと、静は尋ねた。
「よっしー今朝いなかったみたいだけど、どこに行ってたの?森?」
兄の手前、無視することもできず吉敷は静の問いに頷く。
「あぁ」
「ふーん。訓練?それとも、散歩?」
「……修行」
つっけんどんな答えだと自分でも思うのだが、兄嫁は落ち込んだりしない。
源太と似て、そういうのは気にしない性分なのだろう。
「あ、そういやさぁ、よっしー?昨日、本家から連絡あったよ」
本家というのは、長門日兄弟が師匠とする大婆様の住居を指す。
大婆様は猶神流霊媒術の現総領でもある。
「近日中に顔出せってさ。なんだろね?そろそろ仕事が貰えたりして?」
吉敷はまだ、霊媒師としての仕事を受けたことがない。
一応本家での修行は終えた身なのだが、如何せん卒業したての無名である。
仕事が欲しくても個人で客を捜すとなると困難を極める職なのだ、これが。
名が売れるまでは、大婆様のツテを頼りにするしかない。
兄と共に客を取りたいと願っていた吉敷だが、それは源太に断られた。
源太曰く『吉敷が霊媒師として初仕事を終えたら、手を組んでやってもいい』そうな。
霊媒としての仕事をしたこともない奴に自分の仕事は任せられない、とも言われた。
「本家か。カガリやサトぴは元気にしとるかのぅ?」
兄に尋ねられ、吉敷は不機嫌に返した。
「何で、そこで俺に聞く?」
カガリやサトぴというのは、大婆様の孫娘達だ。
本当は篝に聡子と書く。これにもう一人、小町を加えた三人も本家で修行している。
大婆様譲りの霊力もさることながら彼女達には、もう一つ秀でたものがあった。
それは美貌だ。
三人は三人とも、それぞれに異なった美しさを誇っていた。
長女の篝は、はちきれんばかりの巨乳の上、怪しい艶っぽさがある。
次女の聡子は均等の取れた細い体と、整った顔つき。
そして三女の小町は、小柄な体躯と幼さの残る童顔が愛くるしい。
求婚を望む声も多いと聞くが、三人ともまだ年若いせいか恋人がいるという話は聞かない。
「お前、本家にいる間は、あの子らと仲良かっただろうが」
「仲が良かったわけじゃない。向こうが勝手に馴れ馴れしかっただけだ」
吉敷も編笠を取れば、色男といっていい面構えをしている。
少なくとも、兄の源太とは顔の作りからして全く違った。
違うのは顔だけじゃない。学生時代から今に至るまで、吉敷は硬派であった。
そこらにいる同世代の少年らとは異なり、女性には興味の欠片も示さなかった。
一刻も早く強くなる、霊媒師になることだけで頭がいっぱいだったのだ。
絶世の美人が三人もいるというのに全く興味を示さない。
そんな彼に三人娘が興味を持つのも当然と言えば当然のことで、いつの間にか修行する彼の周りには、いつも娘達の姿がちらついた。
師匠に遠慮してか吉敷が文句を言わないのをいいことに、娘達は真っ向から言いよってきた。
特に篝は自分の体にかなりの自信を持っていたようで、夜に忍んできた事も数回あった。
無論、吉敷は全てを退けてきた。
本家を出てからは一度も会っていない。あいつらはまだ、本家に居座っているのだろうか。
「大婆様んとこ行く時は手みやげに酒でも持っていけ。あ、それと」
五杯ほどおかわりをして、すっかり満腹になった源太が言う。
「初仕事貰ったら、ちっとは手伝ってやってもいいぞ。助言程度だがなァ」
「兄貴の手を煩わせるような真似はしないさ。初仕事ぐらい、一人でやれる」
手伝うと言ってくれた兄の気持ちは嬉しいが、吉敷はあえて意地を張ってみせた。
一人で完了させたら兄も見直してくれるだろうか、などと考えながら。