BREAK SOLE

∽57∽ 八人目


地球を飛び出してきて、約半日が経過。
アストロ・ソールの面々は、ようやく第一の目的である月面基地へ到着する。
ここで燃料補給を行った後、廃棄された衛星ステーションを目指す予定だ。
なんでも不審な生態反応を、そこでキャッチしたのだとか。
調査のついでに宇宙人か或いは、それに協力する組織を見つけ次第、撲滅に入る。
話し合うつもりで地球を旅立ったわけではない。
相手の居所を見つけ完膚無きまで叩き潰す、そのつもりで戦艦を製造したのだ。
こういった思考は非常にアメリカ寄りで感心しないな、と晃は考えた。
しかし彼は今、そのアメリカ寄りで暴力的な船の中にいる。
成り行きでアストロ・ソールと出会い、好奇心で仲間入りしてしまった。
仲間入りしたことを、今さら悔やむわけじゃないが……
だが、もう少し平和的な歩み寄りは出来なかったのだろうか。
――できないからこそ、こういう手段に落ち着くしかなかったんだよな。
晃は人知れず、溜息をついた。


「ドッグ開きました。これより艦は平衡状態に入ります」
淡々と報告するミグへ無言で頷き、ドリクは皆へ指示を飛ばす。
「メディーナ、各部ベースのチェックを頼む」
「了解」
「カリヤは放送を流してくれ。基地に到着したと」
「オッケェ〜」
カリヤが艦内放送用のスイッチを入れ、マイクに向かって話し始める。
「みんな〜長旅ご苦労さんでしたっと。これより艦は月面基地へ到着しまぁす。ドッグ収容までに、整備班は各部チェック怠りなく。救護班は気分の悪くなった奴がいないか、乗組員の健康検査を行って下さい。生活班は艦を降り次第、駆け足で倉庫へ向かうように。以上!」
緊張感も、ついでに言えば真面目さにも欠ける艦内放送だが、贅沢は言うまい。
ちゃらんぽらんな言動が多いものの、カリヤはスタッフとしては優秀なのだから。
しばらくして、次々と各ブースからメインルームへ報告が伝えられる。
『こちら整備班、ブロック接合部に異常なし。ソルの調子も快調だ』
「了解、ご苦労さん」
軽いノリでカリヤが労い、ドリクが新たに指示を与える。
「シュミッドとジョンは、その場で待機。R博士から話があるそうだ。残りの者は着艦後、すぐ倉庫へ向かってくれ。機材があるのはD13倉庫だ」
『了解です』
音も静かに艦が基地へ進入していく。窓の外の景色は金属の壁に覆われた。
『こちら救護班です。乗組員の健康は皆、正常。具合の悪い者は一人もいません』
「了解。救護班は全員が降り次第、補給物資の確保を急いでくれ。場所はD11だ」
『了解ですっ!』
うーんっとノビをして、カリヤが周囲を見渡した。
「一人もって、俺達は検査されないのか?ここに具合悪いのが一人いるんだけどな」
「具合が悪いのか?」
心配するドリクへ、片目を瞑ってみせる。
「あぁ、もう肩がこっちゃって、こっちゃって。グキグキッて鳴るよ」
グキグキ肩を鳴らす彼を見、ドリクはポツリと呟いた。
「……バカ」
『生活班です。えっと、使用不可能になった食料の廃棄処分、完了しました』
「ご苦労。補給物資のある倉庫番号はD9。忘れず向かうように」
『はいっ』
報告に耳を傾けながら、ミクは隣に立つミグへ尋ねてよこす。
「使用不可能になった食料って一体なんでしょう?お姉様」
それに応えたのはミグではなく、コンソールを点検していたU博士。
「割れてしまった卵だとか、床に落としてしまったパン等ではないでしょうか」
それを受けて、ミグは呟いた。
「もったいないですね。汚れを落とせば食べられますし、例え無理でも他に使い道はあります」
汚れの程度にもよるだろうと思いながらも気になって、カリヤは先を促した。
「使い道って、例えば?」
「植物への肥料にしたり、動物への餌にすればいいのです」
この艦に乗っている動物といえば、あれしかいない。ヨーコの飼い犬、ラッピーだ。
今の言葉、ヨーコには聞かれなくて幸いだった。
「パイロットには指示を出さなくていいのか?皆、まだ私室にいるんだろ」
不意に思いついたことをカリヤが艦長に問えば、彼は仏頂面で答えた。
「パイロットの仕事は宇宙人と戦うこと。それだけだ。そして彼らが気持ちよく戦える環境を作るのは、俺達スタッフの役目だろう」
補給だのチェックだのはスタッフの仕事であって、パイロットは雑用免除というわけか。
となると、当然オペレーターも雑用は免除であろう。
至って冷静なミグやコンソール球を前にくつろぐミクを見て、納得するカリヤであった。

着艦ブースのドアが開き、どやどやと皆が降りてくる。
久しぶりの外気――といっても基地の中ではあるが、ともかく艦の中よりは新鮮な空気に春名達は思いっきり深呼吸をした。
「ここも広いねぇ〜」
秋子が呟き、天井と、そして周辺をきょろきょろ見渡す。
本部ほどではないにしろ、月面基地のドッグも、なかなかの広さであった。
天井は高く、端から端までの距離は軽くフルマラソン状態だ。
「さて、諸君らに言っておくことがある」
全員降りてきたところで、Q博士から約束事項を聞かされた。
「補給作業が終わるまで基地の外へは出ないこと。休憩時間は作業完了後の一時間とする。外へ出るのも、周辺までなら可能じゃ。休憩が終わり次第、我々は『ビアンカ』を目指して出発する」
ビアンカとは、廃棄されて久しい衛星ステーションの名称だ。
開発はロシアが行い、運営はオーストラリアが行っていた。
しかし赤字経営が祟り、打ち上げて五年と立たぬうちに宇宙計画は頓挫した。
そういった理由で廃棄されたステーションは、ビアンカだけではない。
各国は競うように打ち上げたが、その半数以上が廃棄され、宇宙を漂っている。
現在まともに機能しているのは、アメリカの『ストライク』と中国の『電龍』だけだ。
それも観測機というだけで、本来計画していたステーションの姿からは程遠い。
だから廃棄された衛星に誰かが住み着くなど、誰もが予想しなかったに違いない。
「一時間も!?なぁ猿山、あっちこち見てまわろうぜ!」
ヒャッホーとばかりにはしゃぐ有樹を、ヨーコがジト目で睨みつける。
「ったく元気よねぇ、オコサマは。今後を考えると、頭が痛くなるっていうのに」
「先ばかり予想して頭痛起こしてたら、何も行動できなくなるってもんだ」
すかさずカリヤが喧嘩に割って入り、文句を言いたげな有樹へ目配せする。
「一時間、たっぷり見学してこいよ!ただし、禁止区域には入らないようにな」
「は〜い!」
元気よく返事をする、有樹と猿山。
すぐにでも走り出しかねない彼らに、釘を刺しておくのもカリヤは忘れなかった。
「おっと、自由時間は作業の後だぞ。今はレッツ駆け足、D13倉庫へゴー!」
子供達を従え陽気に走っていくカリヤの背中を目で追いながら、頬の痩けた中年スタッフが傍らの同僚とぼやく愚痴を、有吉は耳にした。
「ったく。いつから、ここは幼稚園になっちまったのかねぇ?」
名札には『ランディ』と共通語で書かれている。
あまり見たことのない顔だ。本部で合流した分のスタッフだろう。
ランディの愚痴を受け、頷いているのはボルコフという名前の男性スタッフ。
こちらもまた、広島支部では見受けられなかった。
「仕方ねぇさ。未来は奴らガキどもの為にあるようなもんだしな。俺達老輩は、せいぜい奴らの土台になってやるしかねぇんだよ」
随分と枯れた発想をするのね。有吉は呆れて、彼らから視線を外す。
アストロ・ソールといえど一枚岩ではない。それは頭では判っていたことだけれど。
こうして実際に皆と足並みを合わせられない大人を見てしまうのは、些か幻滅する。
有吉は踵を返すと、倉庫へ続く廊下を歩いていった。


補給作業が終わるまで、オペレーターとパイロットは自然とやることもなくなる。
暇つぶしというわけでもないが、一同は博士に促されて研究室へ足を運んだ。
U博士曰く「八人目のオペレーターを紹介する」というのである。
八人目のオペレーター。
噂には聞いていたが、デトラもミグも会うのは今日が初めてであった。
彼女達が採用されて本部に召集を受けた際も、八人目だけは枠が空いていた。
「月の基地で育成していたのですね」
ミグの問いに自信たっぷり頷いたのはQ博士。
「そうじゃよ」
「で?どこにいるんですか、その八人目は」
ヨーコが尋ね、U博士は奥へ続くドアへ声をかける。
「お入りなさい、カルラ」
呼びかけに応えたのは、明らかに人間の出す声ではなかった。
『はい……』
クレイの持つ通話機にも似た金属的な合成音声が答え、静かにドアが開かれた。
続いて入ってきた人物を見て、全員が、あっと驚く。
まず始めに「きゃあ!」とミリシアが叫び、クレイに抱きついた。
「んなぁっ!?な、な、な……何よ、こいつ!」
続いてヨーコの叫びも思いっきり引きつり、デトラはどこから取り出したのかサバイバルナイフを片手に構え、険しい視線を相手に向けた。
「何だぃ、こいつは!敵を引き入れるなんて、あたしは絶対認めないよ!!」
「人工人間だとは聞いていましたが、まさか、これほどまでとは」
普段は皮肉たっぷりなソールですら、恐怖に引きつった笑みを浮かべている。
その横ではティカが目を精一杯見開き、カルラを凝視。
ソラ、ミク、ミカの三お子様ズは驚きのあまり、涙目でU博士にしがみついた。
ミリシアに抱きつかれたものの、クレイは、やんわりと彼女を押しのける。
そしてミグと二人、冷静にカルラを観察した。
カルラ、U博士がそう呼んだのは、理想的な体格と理想的な顔を持つ、全身が青く透き通る身体の女性であった。
クレイの髪の青さなど比較にもならないほど、人間離れした容姿である。
「落ち着きなさい、彼女は宇宙人ではありません!」とU博士に言われたところで「ハイ、そうですね」と簡単に納得できる姿じゃない。
皆がパニックに陥ってしまうのも、無理のない話と言えよう。
騒ぎを収拾するでもなく、Q博士がカルラの傍らに立って微笑む。
「クレイ、この子はお前の妹にあたる。名はブルー=カルラじゃ」
自分とは似ても似つかない妹の出現に、クレイも首を傾げた。
『妹……ですか?』
それに、カルラもブルーの称号を与えられているのか。
ブルーというのが自分一人の称号ではない事実に、クレイは少し落胆を覚えた。
「そうじゃ。お前と同じ方法で、この世に生を受けた人間じゃ。育成コンセプトは少々違っておるがの」
「どっどっどっ」
どもるヨーコの側で、デトラが声を張り上げる。
「そいつの、どこが人間だってんだよ!?思いっきり、バケモノじゃないか!」
Q博士が何かを発するよりも先に、淡々とした声が遮った。

「姿形が普通の人と違えば、バケモノなのですか?」

声の主は確かめるまでもなくミグである。
無表情を貫く彼女を睨みつけ、デトラが答えた。
「そうだよ!決まってるじゃないかッ」
「では」
ミグは視線をソールとクレイへ向け、冷静に切り返す。
「ソールとクレイも皆とは髪の色が違いますから、バケモノということになりますね」
「なッ!お、お兄ちゃんはバケモノじゃないわ!」
即座にヨーコが金切り声をあげ、ミリシアも激しく左右に首を振った。
「ソールも、私達の仲間です。ミグさん、ひどいですわ。仲間にそのようなことを」
「カルラも私達の仲間ですよ」
ぴしゃりとミグは言い切り、再びソールとクレイへ向き直る。
「髪の色が違おうが身体の色が違おうが、博士が造り出した命に代わりはありません。ソール、クレイ。私の言うことは、何か間違っていますか?」
即座に頷いたのはクレイだ。
『いや、間違っていない。ミグは正しいと俺は思う』
一方のソールは、歪んだ笑みを無理やり浮かべた。
「それは僕に対する皮肉ですか?それとも、あのような身体に造られた彼女への嫌味?」
ミグはかぶりを振り、真っ向からソールを見つめる。
「嫌味でも皮肉でもありません。私達は、あなたとクレイを受け入れた。たとえ外見は違えど、同じ志を持つ仲間だと認識したからです。ならば同じ志を持つカルラも、同じように仲間だと迎え入れるのが正論でしょう」
「僕は……」
ぎりっと歯を噛みしめてソールは睨みつけた。
自分よりずっと背丈は低いのに、ずっと冷静で居続けられる少女を。
「僕は、クレイを認めてなんかいないッ!」
「ソール!君はまだ、パイロット降格の件を納得していなかったのですか!?」
U博士に咎められるも、一度出てしまった言葉は歯止めが効かない。ソールは絶叫した。
ここには居ない彼の父親、R博士へ向けた心の叫びであったのかもしれない。
「納得できるもんか!生まれつきの病ってだけで免除されるなんて事がッ」
「あたしだって、クレイを仲間と認めることには納得していないね」
ハスキーな声が割り込み、ソール、そしてミグやクレイもデトラを見た。
「だが、博士の決定は絶対だ。だったら、それに従うしかないだろ?あたしはU博士、あんたを信用したからアストロ・ソールへ身を置くと決めたんだ」
U博士と彼女の視線が真っ向からかち合い、ふっとデトラが苦笑する。
「あんた達は、あたしの期待を裏切らないって信じている。そのあんた達が自信を持って送り出してきたのが、あの不気味な自称人間だってんなら仕方ないねぇ、あいつも仲間だってことにしといてやるよ」
そして、じろっとソールを一瞥。
彼はまだ言い足りなかったのか、体を震わせたまま突っ立っていた。
「Q博士の決定権は絶対だ。それが納得いかないなら、船を降りるこったね」
「僕は……ッ」
血走った目でQ博士、そしてU博士を睨みつけると、ソールは天井を仰ぎ、ふぅっと大きく溜息をついた。
「……失礼しました。少し、取り乱してしまったようです」
彼はすっかり冷静を取り戻し、さらりと髪を掻き上げる。
その様子を遠目に眺め、ヨーコは傍らのミリシアへボソッと囁いた。
「少し、なんてもんじゃなかったわよね……」
「でも、喧嘩にならなくて良かったです」
ホッとするミリシアを見て、ヨーコは呆れる。
「あんたね……問題は何も解決してないのよ?あのバケモノを仲間って呼ばなきゃいけないっていう一番の問題が残ってんだから」
再び、皆の視線がカルラに集まる。
彼女は、身体の上に何も纏っていない。全裸であった。
それなのに全くいやらしく感じないのは、やはり全体的に青く透き通っているからだ。
透き通った身体の中には、然るべき生き物ならば必ずあるはずの臓器が全く見あたらない。
博士は人工人間だと彼女を称したが、本当はロボットやアンドロイドに近い存在なのではなかろうか?
「カルラ、お前のお兄ちゃんじゃ。呼んでごらん、お兄ちゃんと」
Q博士に背を軽く押され、カルラは一歩二歩とクレイの前で立ち止まる。
『クレイ……お兄様?』
感情のこもらぬ合成音声が彼女のくちから飛び出し、青く透き通った手が伸びてくる。
その手を、クレイはしっかり握りしめる。ひんやりとした感触が伝わってきた。
『よろしく、カルラ。ブルー=クレイだ』
通話機を通してクレイの意志が伝わると、カルラは無表情に頷いた。
『はい……クレイお兄様』
今まで散々ヨーコにお兄ちゃんと連呼されてきたクレイではある。
しかし、お兄様、というのは少々むず痒い気がした。
『お兄様は要らない。クレイと呼び捨てにしてくれ』
断りを入れる。
それに対する妹の答えは、こうであった。
『はい……クレイお兄様』
「学習能力ないの?お兄ちゃんは呼び捨てでいいって言ってるじゃない」
ヨーコが突っ込むが、お兄ちゃん呼びしている奴に言われてもピンと来まい。
後方でプッと吹き出す者が居た。笑ったのは、どうやらソラらしい。
「いいじゃないですか。カルラさんはクレイさんを、お兄様と呼びたいのですよね?」
コクリと頷くカルラ。
無表情なだけではなく、口数の少ない処までクレイと似ていた。
「わたくし達も、呼び方を変えるべきでしょうか?」
おずおずと、ミクが切り出してくる。
「ブルーが二人になっては、紛らわしいですからね」
ミグが深々と同意し、クレイをじっと見つめた。
「今後ブルーのことは、クレイと呼ぶことにしましょう」
「あたしは最初から、クレイお兄ちゃんって呼んでたけどね!」
ヨーコが笑い、場の空気も和んだところで、補給作業完了の放送が流れてきた。


「ふぅっ!」と、流れ落ちる汗を袖で拭い、春名は最後の荷物を抱え上げる。
倉庫と戦艦を往復して荷物を運ぶだけだというのに、すっかりクタクタになった。
ウンウン言いながら段ボールを担いで給湯室までやって来た時、月面基地へ着く前に起きた出来事を思い出し、彼女は少しシュンとする。

逃亡してしまったクレイを見て、ついに春名の堪忍袋はブチッと切れた。
「ソールくんの、バカッ!」
考えるよりも先に右手が弧を描き、次の瞬間には乾いた音が給湯室に木霊する。
渾身のビンタを食らったソールは、頬を押さえてよろめいた。
やがて立ち上がった彼は、困惑の体で春名を見つめる。
瞳の奥には戸惑いが見え隠れし、どう声をかけていいのかも判らないらしい。
そんな折も折、駆けつけてくる足音に、春名もハッと我に返る。
彼女もソールを平手打ちした後、自分がしでかした暴力に唖然としていたのだ。
誰かを、こんな風に感情に任せて殴るなど、初めての経験であった。
「何をしているのですかッ!?」
駆け込んできたのは、日系のスタッフ。
黒髪に太い眉。名札に書かれた名前は『刀』とあった。
男性と見間違うほど化粧っけ皆無な顔だが、よく見れば女性のようでもある。
「あ……」
叩いた手に、じっと視線を落として春名は言葉に詰まる。
ソールも叩かれた頬に手を当てたまま、無言で立ちつくしていた。
気まずい空気が給湯室を支配する。
やれやれと言いたげな溜息をついて、スタッフは二人を諫めた。
「痴話喧嘩ですか?どちらが発端かは存じませんが、争いは御法度ですよ」
その一言で完全に自我を取り戻したか、春名がムキになって否定する。
「ち、痴話喧嘩じゃありませんっ!」
一方のソールは、全くの棒読みで頭を下げた。
「……はい、すみません。以後気をつけます」
痴話喧嘩と称されたことにすら気づいていないかのように、顔面は蒼白だ。
そのまま、ふらふらと出ていこうとする彼を、スタッフが呼び止めた。
「大丈夫ですか?具合が悪いようでしたら、医務室へいらっしゃい」
ちら、と春名へ目をやり、彼女は苦笑する。
「あなたは自室へ戻っていて下さい。大丈夫、彼のケアは私達が見ますので」
ソールの背中を軽く押して先へ行かせると、春名の耳元で囁いた。
「あなたは確か、ブルーの恋人でしたよね?災難でしたね、よりによってソールに絡まれるなんて……さぁ、ソールのことは私に任せて、早く彼の元へ行ってあげて下さい」
思いがけぬ親切に、「……ふぇ?」と、春名は思わずポカンとなる。
そしてポカンとしている間に、ソールはカタナに連れられて退室していった。

自室へ戻ったところで、やりたい事も、するべきこともない。
仕方なくベッドに腰掛け、ぼーっとすること数分後。
ドアがノックされた。
「どうぞ〜。開いてますよォ」
生返事をし、なおもベッドに腰掛け足をブラブラさせていたが――
入ってきた人物を見た途端、驚きのあまりベッドから転げ落ちるかと思った。
「春名」
入ってきたのは、なんとクレイであった。
嬉しそうに駆け寄ってくると、ベッドに腰掛けたままの春名を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、クレイッてば!」
これには春名のほうが動転してしまい、慌てて身を引きはがし、ベッドの隅まで退散する。
まだ目元を赤くしているくせに、彼はもう機嫌を直しているようだ。
こちらは存在を無視するなどという酷いことをやらかした相手だというのに。
泡を食って逃げ出した春名を見て、クレイの顔に影が差す。
「……春名、まだ怒っているのか?」
「ハァ?」
全く見当違いの問いかけに、春名の声も、ついつい裏返ってしまった。
春名がクレイへ怒る筋合いなど、一つもない。
むしろ彼を悲しませてしまったのに、春名ときたら謝りにも行かなかったのだ。
怒る権利はクレイにある。
そこまで考えに至り、春名は恥ずかしさと申し訳なさで俯きがちに謝った。
「怒ってなんかいないよ?謝らなきゃいけないのは、こっちだし……ごめんね、クレイ。ホントは、すぐ謝らなきゃいけなかったのに」
すると、再び熱烈な力で抱きしめられた。
すぐ側にクレイの顔がある。真摯に見つめられ、春名の頬は上気を増してゆく。
「春名が怒っていないのなら、それでいい。せっかく声をかけてくれたのに、俺は逃げ出してしまった。すまなかった」
なんというか、彼は少し、律儀すぎるのではないか。
気軽に物事を考えた方が、もっと楽に生きていけるだろうに。
そんな思いも脳裏に浮かんだが、見つめられているうちに、どうでもよくなった。
しばらく見つめ合った後、ゆっくりとクレイが体を離す。
「……もうすぐ基地へ着く。休憩時間になったら、また会おう」
春名の耳元で囁くと、彼は、にっこりと微笑んでくれた。

「ほォら!入口でニヤニヤして立ってないっ。通行の邪魔だよっ」
ボン、と乱暴にお尻を叩かれ春名はピョンと跳ね上がる。
「きゃうっ!?」
しまった、うっかり回想モードに入って思い出し笑いでも浮かべていたらしい。
周りの皆には、さぞ気味悪く映ったことだろう。
振り向くと、苦笑する黒人男性と呆れ顔の黒髪女性が目に入る。
黒人のほうはティン、黒髪の日系人は確か木村結衣という名前だったか。
共に生活班として選ばれたスタッフだ。
ティンがクスクス笑いながら、春名へ伝える。
「これより一時間休憩に入るそうですよ。シャワーを浴びるなら今の内ですね」
そうだ、やっと待ちに待った休憩時間じゃないか。
一分一秒でも無駄にできない。
「そ、そうですね!それじゃ、お先に失礼しますっ」
春名は慌てて頭を下げると、二人の先輩スタッフの横を走り抜けた。

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