BREAK SOLE

∽5∽ しゃべった


お茶くみか弁当係が関の山とヨーコに嘲られた有雅致中の卒業生であったが、通路にて天井を見上げながら鈴木三郎がぼんやりと言う。
「悔しいけど、あの子の言うこと、ホントだったみたいだ」
隣を歩いていた笹本宗太郎も、退屈そうな顔で相づちを打つ。
博士の案内で生活スペースとやらに到着した後、荷物の整理が一段落ついたら自由に見学しても構わないよと言われたのであった。
それで、二人はこうしてブラブラしているのであるが――
巨大戦艦を造っているブースでは、君達はまだ立入禁止だと追い払われた。
戦艦を造る為に共同生活を申し込まれたはずなのに、これは一体どういうことだ。
『現場ではまだ、機械が目まぐるしく動き回っていて危険だから入るな』
それが、スタッフによる二人への説明であった。
ここへ来れば、材料を運んだり機材を動かす仕事があるもんだとばかり思っていた。
なのに、実際には仕事など何もない。
これじゃ何の為に親へ嘘ついてまで、戻ってきたのやら。
スタッフは皆、大人ばかりだから優しい声をかけてくれるけど……
退屈しながら方々のルームを見学していた二人は、通路で秋子達と鉢合わせる。
秋子と瞳は、両手に盆を抱えていた。
盆の上には麦茶の入ったコップが乗っている。
「よぅ。どうしたんだ?それ。どっかに持ってけって言われたのか」
鈴木が尋ねると、瞳は「うぅん」と首を振った。
心なしか、頬が赤い。
「あ、あのさぁ。どうせだから麦茶でも振る舞ってやろうと思って」
秋子までもが、視線を明後日に逸らしながら答える。
彼女も照れているようだ。
笹本はピンときた。
先ほどヨーコに突っかかっていた手前、素直にお茶くみに徹するのが恥ずかしいんだ。
そう思い、ちょっとからかってやる。
「へー。横田が給仕をねぇ。へー。その麦茶、砂糖とか混ざってないよな?」
「混ざってるわけないでしょ!正真正銘、入れ立ての麦茶だよっ」
怒る秋子をマァマァと抑え、顎に手をやり鈴木も感心するそぶりを見せた。
「アキほどの女に給仕をしてもらう幸せ者は誰なんだ?とりあえず、博士とか?」
「なぁーんだよォ、それぇ……」と、秋子はちょっとむくれながらも素直に答える。
「博士って、まん丸頭のギャグマンガみたいな、あの爺さん?ジョーダンッ。あたし達はね、この麦茶を、あの人に」
「あ、あのね。あたし達、急ぐからね。じゃあね!」
尚も続けようとする秋子の腕を取り、瞳がいきなり走り出す。
「あ、ちょっとォ!瞳、ひっぱったら零れる、麦茶零れるってばァ!」
つられて秋子も走り出し、ぽかんとする男子二人を残して去っていった。
しばらくして。
「…………あの人、って、誰だ?」
ポツリと呟いた鈴木だが、笹本に、それが答えられるはずもなかった。


プレートには『格納庫』と共通語で書かれた、大きな部屋がある。
その一角には青と赤と黄色の機体、ソルが三体並んで佇んでいた。
中央にそびえ立つ、赤い機体の前には一つの影が見える。
Aソルのパイロット、クレイであった。
座り込んだ横には工具箱を置いて。
黄色と青の機体周辺には、誰もいない。
ピートもヨーコも、今は整備の時間ではないのだろう。
Aソルの前に陣取ったクレイは、一人黙々と整備に励んでいる。
――その、更に後方。
格納庫の扉の後ろには、数人の影が潜んでいた。
「ね、ね。やっぱり居たでしょ」
「う、うん」
「まっじめぇ〜。ホントに一人でやってるんだぁ」
何やらヒソヒソと話しているのは、どれも幼さの残る少女の声。
「うん、でも、こうやって遠目に見ていても……かぁっこいいよぅ〜」
モジモジと身を悶えて感激しているのは、吉野雲母。
よく小学生に間違われるほど小柄で、ぱっちりした瞳が愛らしい。
「んーまー。ピートってのよりは、格好いいよね」
おかっぱ頭の工藤恵子が相づちを打ち、前田美恵はナンセンスとばかりに首を振る。
振った反動で、派手目のイヤリングがチャラチャラと鳴った。
「ピート?あんなんガキじゃん、ガキ」
実際にはピートも自分も似たような年齢のくせに、大人ぶってみせる。
そのくせクレイには声をかけられず覗き見しているのだから、まだまだ子供である。
「ねぇ。大豪寺さんは、どう?ああいうタイプの男って、好き?」
話を振られ、皆と一緒に覗き見していた春名はドキリとする。
「え、あ、うん……大人っぽくて、格好いい……と、思うよ」
そう。確かにクレイは、あの時自己紹介した面子の中では一番格好良かった。
髪の毛が青いことを除けば、澄んだ瞳にクールな顔立ち。
背だって高いし、胸板だって、そこそこ厚い。
それに、なんといっても彼は大人である。
子供が抜けきってない他の男子と比べたら、比べものにならないほど素敵だ。
自己紹介の時に見た笑顔まで思い出し、春名の頬は知らぬうちに赤く染まっていく。
それを見た美恵が いきなり笑いだし、皆もクスクスと声を立てる。
「あはは、サルヤマ撃沈〜」
突然猿山の名を挙げられても、春名には訳がわからない。
けれど皆には判っているようで、どの顔もニヤニヤして彼女を見ているもんだから、春名は焦って言い出しっぺの美恵を問いただした。
「え?な、何?何なのよぅ。猿山君が、どうかしたの?」
「いいの、いいの、大豪寺さんは判んなくたっていいの!」
ひらひらと手で押し返され、春名がムッとしていると、そこへ現れたのは秋子と瞳。
二人ともフゥフゥ息を切らせながら、両手で盆を抱え込んでいる。
「あ、来た来た!どうだった?あの糞生意気なのに見つからなかった?」
糞生意気というのは、もちろんヨーコの事である。
「そっちは大丈夫、万事オーケー」
美恵の問いに肩で息をしつつ秋子が答え、瞳が後を次ぐ。
「ただ、ちょっと男子に見つかっちゃって。それで走ってきたの」
「男子?だれ?猿山じゃないよね」
美恵に聞かれ、瞳が首を振った。
「うぅん。鈴木君と笹本君」
「そっか。あの二人なら安心だ。あいつらは誰かに話したりしないもんね」
その二人と比べると、えらく信用がないものである、猿山も。
「何持ってきたの?二人とも。あ、もしかして麦茶?」
「うん」
春名の問いに瞳が頷き、秋子は抱えた盆を、そっと覗き見る。
「こぼれてないよね……うん、こぼれてない」
息を乱すほど走ってきた割に、グラスの中の麦茶は一滴たりとも零れていない。
「よし、じゃあ話しかけるキッカケのブツも来たし。行こうか!」
颯爽と恵子が立ち上がった。
「え?え?どこへ?」
よく判っていない春名の腕を取り、雲母が扉をそっと押し開ける。
「クレイさんのトコにね、皆で麦茶を持ってってあげるんだよぅ〜」


生活スペース、つまり各個人に割り当てられた区域は二階構成になっている。
ピート達パイロットの部屋は最上階にあった。
黄色い扉にはプレートがかけられ、『ピート』と書かれているようだ。
ようだ、といったのは、その文字が共通語ではなく異国の言葉で書かれていたからだ。
恐らくはピートの母国の言葉で書かれているのであろう。
扉を丁寧にノックすると、中から「開いてるよ。入って〜」とピートの声が応える。
続いて入った途端、ベッドの上から身を起こしたピートがガッカリした顔を向けた。
「なんでぇ、部屋に直接来るから女の子かと思ったのに、男かよ」
「女の子が一人で、男の部屋を訪ねるわけないだろ」
負けず劣らずな減らず口で返しながら、晃は側にあった椅子へ適当に腰掛ける。
部屋の中は、目も眩まんばかりの装飾が施されていた。
まず、壁紙が金色。
黄色ではなく、金。
海底ゆえ、窓がないのは幸いであった。
金色の壁紙だけでも目が痛いのに、部屋に置かれている家具類は全て黄色い。
ずっと眺めていると、目がチカチカしてくる。
彼は黄色が心底好きなのだろうか。だからソルも黄色いのか?
「で、なんか用?オレさー、眠ィんだよね。特訓で疲れちゃってさァ」
再びベッドに横たわるピート。
自室ということもあってか、随分とリラックスしている。
やはり、彼だけはエリートという雰囲気じゃない。
ヨーコは最初からツンケンしていて、晃達を頭っから見下していた。
あれこそ、エリート意識丸出しな輩が取る態度そのものだ。
クレイはクレイで、一言も話していない。一ヶ月前も、今もだ。
あれはきっと、お前ら凡人と話す言葉などない、という態度の表れだろう。
博士とは年齢が離れすぎていて、話しづらいものを感じる。
スタッフにしたところで、そうだ。
ほとんどが大人で、気後れしてしまう。
従って気軽に話せそうな相手というと、ピートぐらいしかいなかった。
なので晃はピートの部屋へお邪魔した、というわけである。
聞きたいことは山ほどあった。

戦艦製造の手伝いを頼むと言いながら、僕達を製造ブースへ入れないのは何故か。
危ない、などというのは、わざわざ言われずとも判っている。
戦艦なのだ。危なくないわけがない。
それを承知で集まったんじゃないか。
なのに何故、門前払いされなきゃいけないんだ?

それから、アストロ・ソール自体についても疑問が沸く。
軍隊じゃないとすれば私設団体ということになるが、資金は何処が出しているのか。
この組織のスポンサーは?
会社なのか、有志団体によるのものなのか。
海底基地を一ヶ月で作り上げた脅威の技術力。
墜落しても大破しなかったソル。
その技術は、どこで学んだものなのか。
いや、彼らの母国は、どこなのか?
宇宙人と戦い始めたのは、いつ頃なのか?
ソルが造られた経歴は?

後から後から、疑問は湯水のように沸いてくる。
だが最初の疑問を口にしようとした晃が目にしたものは、幸せそうにグウスカと寝るピートの姿であった。
「コ、コラァーッ!寝るなぁっ!!」
「うわっぷ!? な、なんだ、アキオじゃんか。脅かすなよ〜」
耳元で精一杯怒鳴ると、ピートはビクリッと身を震わせて飛び起きる。
「なんだじゃないよ!人が、質問しようとしてるのにッ」
頭から湯気が出そうなほど晃が怒っているというのに、ピートには反省の色もない。
「オレ、疲れてるって言ったじゃん。話すなら、さっさとしてくれよな?」
怒っちゃ駄目だ、怒っちゃ。
深呼吸を一つして、晃は自身を取り戻す。
だが実際に尋ねたのは、アストロ・ソールの事でも戦艦の事でもなく。
「さっきヨーコがクレイのことを、お兄ちゃんって呼んでいたんだけど……あの二人って、兄妹だったのか?」
不意にヨーコの傲慢な顔が脳裏をよぎり、気がつけば関係ない事を尋ねていた。
一瞬きょとんとした後、けたたましくピートが笑い出す。
「んなワケないじゃん?名字違うし、クレイは人間ですらねーし!」

……人間 で す ら ない?

晃は思わず聞き返す。
「人間ですら、ない?」
「うん。博士も言ってただろ?クレイは人工ベビーなんだって」
笑顔でピートが頷く。
嘲るつもりはないが、クレイを人間として認めてはない。そういうことか?
「確か、人工人間だったっけ。でも、一応は人間だろ?」
「試験管で受精した実験動物がぁ?バッカ、冗談も程々にしてくれよ〜」
聞けば聞くほど、晃の中でムカムカが激しくなってくる。
仲間を『人間ですらない』と言い切った少年に、嫌悪を感じ始めていた。
聞きたかったことは、博士に聞こう。
そう思い、席を立つ。
「そうか……でも人工受精でも何でも、ああして生きている以上、彼は立派な人間だと、僕は思うけどな」
怒りと共に言い捨てる晃へ、ポツリとピートが呟く。
「立派な人間、ねぇ。なぁアキオ、君は聞いたことあるわけ?」
「何を!?」
ちょっと乱暴に聞き返したら、肩を竦めて彼は言った。
「クレイが何か話すのを、さ。人間なら、言葉を話せて当たり前なんだけどね」


格納庫からは、賑やかな声が聞こえてくる。
クレイの側に陣取った女の子達が発信源のようだ。
その騒がしいこと、春が来た鳥の巣の如し賑やかさ。
だが、少女達に話しかけられているクレイは終始無言であった。
黙々と手は休めず、時折なにやらデータの書かれた紙を眺めている。
「クレイさんってホント仕事熱心ですよね〜。そういう人って憧れちゃう!」
難しい顔でデータと睨み合いを続けるクレイに、そう話しかけたのは美恵。
彼女が身動きするたびに、耳元のイヤリングがチャリンと涼しげな音を立てる。
美恵は、卒業生の中では一番派手で一番可愛い。
可愛いというよりは美人。
背伸びした美人、そんな言葉が似合う少女だ。
その美恵の美貌をもってしても、クレイを振り向かせることは叶わないようである。
彼の視線は常に、ソルへ向けられていた。
まるで美恵達など、存在しないかのような扱いである。
聞こえていないわけがない。
これだけ接近してピーチクパーチク騒いでいるのだから。
「ねぇねぇ、クレイさん。クレイさんの好きなものって、何かなぁ〜?」
目をキラキラさせた雲母がクレイにすり寄れば、すかさず秋子がコンコンとソルを叩く。
「バカねー。クレイさんが好きな物っつったらコレだろ?コレ。ソ・ル!」
途端に、ドッと笑い出す少女達。
笑っていないのはクレイだけだ。
いや、よく見ると春名の笑顔も少々ぎこちない。
皆に合わせて笑ってはみたものの、心の中では困惑が深まっていた。
さっきからクレイは一言も発していない。
話すのが苦手、奥手な人というのは、どこにでもいる。
しかし、いくら話すのが苦手と言っても、一言も話さないというのは失礼ではないか?
そこまで考えて、春名はハッと思い当たる。

――もしかしたら彼は話したくても話せない、そういう病気なのでは?

単なる奥手や対人恐怖症なら、モジモジどもりながらでも注意ぐらいは出来よう。
全く何もモジモジすることもなく一言も発さないなんて、いくら何でも変だ。
ジィッとクレイを見つめる。
普通の人と違うところは見つからないか、とばかりに。
これだけ周囲で騒いでいるというのに、全く気を散らしていないとは鋼鉄の神経だ。
真剣な眼差しで、ゴチャゴチャと訳のわからない機械が詰まった箇所を弄っている。
……やっぱり、格好いい。
彼女の視線に気づいて、恵子が冷やかしてくる。
ぐいぐいと肘で春名を押しながら、イヤラシイ声色で囁いた。
「あれあれ?春名ってば、ご熱心。言葉を無くすほど見とれちゃってますかァ〜?」
ハッと我に返り、春名は慌ててパタパタと手を振る。
「ち!違うよ?べ、別に見とれてなんかいないってば!」
顔は己の意思に逆らい、ポォッと頬が赤らむのを自分でも感じた。
「どうだか。あんた達、あんまりクレイお兄ちゃんの邪魔しないでよねー」
邪気を含む鋭い叱咤が、場の空気を一瞬にして凍りつかせる。
嫌々振り向いた皆の目に映ったのは、仁王立ちで腕組みするヨーコの姿であった。
「な、なによ!あんたこそ、何しにきたわけ!?」
立ち上がり、思わずファイティングポーズで挑みかかる秋子。
ヨーコは大袈裟な溜息をつくと、手に提げた工具箱をこれ見よがしに見せつける。
「格納庫で何をやるか、ですって?さすが凡人、考えることが違うわね。決まってんでしょ?ソルの整備。あんた達みたいに、おしゃべりしてる暇はないの」
「な、なら、さっさとBソルんトコ行きなよ!こっち来ないでサァ!」
一旦は怯んだものの、尚も秋子は果敢に挑みかかる。
「人が何処へ行こうが勝手でしょ。そ・れ・にぃ〜」
いきなり、キャピーン☆とばかりにヨーコの態度が乙女モードにチェンジする。
「お兄ちゃんに整備のコツを教えてもらうんだも〜ん。ね?おにいちゃ〜ん」
極上の笑顔を浮かべ、クレイの腕を抱きかかえて胸を押しつける。
すぐに腕を振り払われ、秋子達はここぞとばかりに馬鹿笑いで嘲った。
「あっはっはっ!クレイさんも、嫌だって!」
違うわ、と春名は思った。
今の動きは嫌だから振り払った、という動きじゃない。
ごく自然に、身動きの取れなくなった片手を自由にした。そんな動きであった。
「あぁん☆お兄ちゃんってば恥ずかしがり屋さんっ。人が多いから照れてるのね」
ヨーコも然る者、転んでもタダでは起きない。潤む瞳でクレイの背を見つめている。
かと思えば、冷たい視線で秋子達を睨みつけた。
「あんた達がいるからクレイお兄ちゃんも恥ずかしがってんじゃない。さっさと、どっか行きなさいよねー」
秋子達とヨーコとの間で、激しい火花が散らされる。
何とも険悪な雰囲気だ。
一番に、いたたまれなくなってきたのは春名だった。
「あ、あの……邪魔になってるみたいだし、そろそろ行こうよ、みんな」
「そうよ、邪魔なのよ。さっさと行きなさいよ全員!」
秋子達が反論するより先にヨーコが追い打ちをかけ、更に場の空気が重くなる。
その緊迫を打ち破ったのは、思いがけぬ人物であった。
すっかり置物、あるいは部屋の一部と化していたクレイその人である。
彼は、やはり一言も話さなかったのであるが、ヨーコをジロリと睨みつける。

出て行け。

目が、そう言っているようにも見えた。
鋭い視線の奥には殺気がちらついていて、少女達の背筋も寒くなる。
澄んだ瞳。
春名は彼の目を、そう評したが、今の彼の目は――
「あ、あたし、用事を思い出しちゃったわ。残念だけど戻る事にしよっと!お兄ちゃん、また後でね」
ヨーコがあたふたと踵を返し、挨拶もそこそこに逃げ帰る。
毒気を抜かれた少女達も、次々に立ち上がった。
「えっと……クレイさん、機嫌悪くなっちゃったみたいだし。おいとましようか」
まず、美恵が愛想を振りまきつつ通路へ出る。
続いて秋子、瞳、恵子も名残惜しそうにしながら出ていく。
「は、はうぅ〜。クレイさん、ごめんね?ごめんね?お邪魔しましたぁ〜」
雲母もしきりに頭を下げながら、パタパタと通路へ駆けだしていった。
最後に、春名が腰を上げた時。


「春名」


澄み切った、落ち着きのある声が春名を呼び止めた。
えっ?誰?今の。誰か、私を呼んだ?
春名がキョロキョロしていると、声は案外間近で、もう一度聞こえてくる。
「麦茶ありがとう。……と、皆に伝えておいてくれ」
下を見ると、座ったままのクレイと目が合う。
微笑んでいた。
あの時にも見た、優しい笑顔。
「え?……え?……えぇーっ!?
馬鹿みたいに「え」を連発する春名。
開いた口がふさがらない、とは今の状況を指すのだろう。
話せたの?
じゃあ、なんで皆が居る時は話さなかったの?
どうして、私にだけ?
っていうか、なにげなく「春名」って呼び捨てだし!
……といった色々な考えが頭の中をグルグル回っていて、上手くまとめられない。
立ち上がったクレイが、彼女の肩へポンと手をかける。
「俺の事はクレイと呼び捨てで構わない。……とも、皆へ伝えておいてくれないか」
真っ向から見つめられ、春名の思考は、そこで激しくブッ飛んだ。
だから次に自室で目覚めるまで、彼女は自分がどうやって戻ってきたのかも覚えていない有様であった。

▲Top