不器用な恋と呼ばないで

#2

島の朝は早い。
――というか、皆が目覚める頃には不在であることが多い。
「くっそー、今日も先輩の朝起ちを見損ねましたっ!」
布団すら片付けられた簡素な部屋を見渡して、西脇はギリィと歯がみする。
他の従業員とは異なり、島だけは宿の離れに住んでいる。
身寄りのない彼を気の毒に思った琴が、下宿生活を薦めたのだ。
遠慮してか、なかなか首を縦に振らなかった島を説得して今に至る。
一応簡単な鍵がかかるものの、セキュリティーは江戸時代の長屋並に低い。
従って家から通いの西脇が、鍵あけで忍び込むのも容易かった。
だが。
常に朝は不在だ。それも朝早くから。
一体何処へ行っているのかといえば、市場に出かけているのであった。
市場は此処から、そう遠くない。
歩いて往復十分の距離だ。
旅館の仕入れは料理長が行なっているのだが、それとは別の用で出かける。
主に、料理の研究用素材を買い込みに行く。
休日だけではなく、毎日市場へ通っている。
昔から、そうだ。
小料理屋で働いていた頃からの、彼の唯一の趣味と言ってもいいだろう。
「それにしても布団でゴロゴロハァハァしたり、脱ぎ散らかしたパジャマをスウハァする隙すら与えてくれぬとは……クッ、毎日の事とはいえ、ガードが堅すぎますよ先輩!」
さすがに押し入れから布団を引っ張り出すのは面倒なのか、西脇は握り拳を固めて撤退を決める。
鍵をかけなおした後は何食わぬ顔で自宅へ戻り、定時になったら出勤する。
島が市場へ出かけるのと同じ頻度で、西脇の侵入行動も毎朝のルーチンと化していた。
いつかは、先輩の無防備な寝顔を見られると信じて……


「おう、島じゃないか。今でも料理研究やってんのか?熱心なこった」
市場で呼び止められて、帰る途中だった島は振り返る。
大柄で無骨な男の顔を見た瞬間、ぱぁっと顔を綻ばせて駆け寄った。
「先輩も来ていらしたのですか。お久しぶりです」
島が先輩と呼ぶのは、一人しかいない。
小料理店『おきつ』の店長、興宮坂一だ。
料理のイロハも知らずに飛び込んだ先のバイトで、包丁の使い方から教えてくれた恩人である。
何故、包丁を握ったこともないのに小料理屋で働こうと思ったのか。
たまたま、であった。
ガソリンスタンドからコンビニ、パチンコのホール担当まで、軒並み面接で撃沈した後、手当たり次第なバイト先候補の一つにあったのが、興宮の店だった。
トイレ掃除でも残飯処理でもいいから、雇ってほしかった。
肉親を一人残らず失って、途方に暮れていた。
とにかく、金が必要だった。生きるための生活資金が。
面接で何も言い出せず俯く島を、どう受け取ったのか興宮は採用する。
厨房にまわされて困惑する彼に、一から料理の手ほどきをした。
当時の小料理屋が寂れていたかというと、そんなことは全くなく。
一人で切り盛りするのが大変だから、人を雇ったのだ。
にも関わらず興宮は手間暇かけて、カラッポだった島に技術を与えてくれた。
島も彼に恩義を抱き、先輩の発言は一つも聞き漏らすまいと従った。
その彼が何故、おきつを出ていったのか。
――世界を、見て回りたくなったのだ。
様々な店に勤めて多様な知識を得た後は、おきつへ戻るつもりであった。
だが五年、大蔵屋に勤めている間に居心地が良くなってしまい、戻るに戻れなくなった。
いつかは小料理屋に戻りたい計画を、島は興宮に話していない。
琴にも話せなかった。
自分を可愛がってくれる彼女に、大蔵屋を辞めたいと伝えるのは心苦しい。
どちらか一つを選ぶのが出来ず、どうにもならない。
おきつを出る時、興宮は快く送り出してくれた。
今でも、こうして偶然出会うたびに、気安く声をかけてくれる。
「どうだ、久しぶりに、うちにも寄っていかんか?五分ぐらいなら大丈夫だろ」
「いえ、すみません。すぐに戻らないと、今日は仕事がありますので」
言葉少なに辞退しながら、ちらりと島が興宮の様子をうかがうと。
先輩は、さしてガッカリした様子もなく、ほがらかに笑って別れを告げた。
「そうか。んじゃあ、俺も帰るとするか」
このまま別れてしまうのかと思ったら、急激に寂しくなって。
「あっ……」と小さく呟いた島へ振り返り、興宮が手を振った。
「今度の定休日、暇だったら遊びにこいよ」
「はい」
「それじゃあな」
こくりと島が頷くのを確認してから、興宮は立ち去った。
小料理屋を辞めてから、興宮とは、なかなか会えなくなった。
それを寂しいと思わなかった日は一日もない。
だが、それでも琴の顔を思い浮かべると、大蔵屋を辞める決心もつかない。
どっちつかずの宙ぶらりん。
それが今の自分だ。
自分の現状を興宮が知ったら、幻滅するかもしれない。
だから、島は言わない。
小料理屋へ戻りたいという自分の気持ちを、誰にも。
――大蔵屋の定休日は毎週木曜日だ。
今度の木曜日は市場へ立ち寄った足で、おきつの厨房を貸してもらおう。
久しぶりに先輩と語りあうのも、休日の過ごし方としては最良だろう。
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