不器用な恋と呼ばないで

#1

その宿は、山間に囲まれた静かな場所に建っていた。
如何なる不況に置いても客足が途絶えることのない、老舗の旅館である。
名を、大蔵屋といった。
観光地ではないし温泉宿でもないが、常連客がついていた。
のんびりしたい、長年のご贔屓、出される食事のファン、おかみさんのファン、などなど。

島太志が大蔵屋に勤めて、はや五年が経とうとしている。
初めは右も左も判らぬ旅館料理仕事であったものが、料理長と間違われる程度には成長した。
料理人は仕事中、滅多に調理場を出ない。
故に、客に存在を知られる者も少ない。
しかし島は宿の女主人、大蔵琴から大層気に入られ、何度も客室へ足を運ぶ機会があった。
おかみさんのお供、そう称してもいいだろう。
これこれ、この料理を作ったのは、そちらの料理人でございます。
客に料理の説明をする為に、琴は島を連れ回した。
料理を作ったのは自分だけではないので島としては少し抵抗もあったのだが、部屋を回って挨拶を重ねるうちに、いつの間にか彼個人のファンもつき、宿屋の繁盛に貢献したのであった――


「今年のポスター案ですか?そりゃも〜先輩をヌードで出すっきゃありませんぜ!」
いつものように調理場へ立ち寄った、おかみさん曰く、宣伝ポスターを新しく作ってみたいのだけど、何かいい案はないでしょうか?といったお願いに対する提案が、先ほどのトンデモ発言だった。
トンデモ発言をかましたのは、西脇阿子。
島から見て後輩にあたり、歳は二十二と、かなり若い。
男性優位な職場において、ほぼ唯一といっていい女性でもある。
料理人になる為に大学を飛び出してきた、とは本人の談だ。
だが料理への情熱よりも先輩の島へ向ける情熱のほうが遥かに高いのではないかと、琴は思った。
特に、島の肉体への関心が。
採用した時には、女性のこまやかさを彼女へ期待した。
しかし、西脇は全然そういったものを持ち合わせていなかった。
細やかさや気遣いとは一切無縁な生物上女子であった。
これが今時の若者なのか、と琴は目眩を覚えたものだ。
「待って、西脇さん。それでは何のポスターだか判らなくなってしまうのではなくて?」
諫める意味も込めてストップをかけると、西脇は小首を傾げてくる。
「えっ、だって先輩は、この旅館の顔ですよ!顔ファンいっぱいついてるし!」
島に顔ファン――いわゆる、彼の容姿に惚れて追っかけをしているファンが多いのは琴も知っている。
しかし、当旅館のウリは勤め人だけではない。
「静かな環境をアピールできるポスターにしたいのだけれど、どういう構図にしたらいいのか判らなくて。それで、あなた達に」
「じゃあ、湖!湖をバックにヌードの先輩が仁王立ちですよ!?」
琴はフンガーと鼻息荒く語る西脇から、島へと視線を移す。
料理長や他の料理人と一緒に昼メニューの仕込みに勤しんでおり、こちらの話に耳を傾ける気は全くないようだ。
琴は、そっと彼の横顔を眺めてみる。
一部顔ファンがつくほどに、島の容姿は整っている。
モデル顔というのではなく、眉が太くて力強い、男らしいタイプだ。
きゅっと結んだ口元からは、彼の生真面目な性格が滲み出ている。
腕や脚には筋肉がつき、腹も引き締まって。
そこまで鍛える必要はなかろうというぐらいには鍛えられた肉体だ。
「……どうして、そこまで島くんを脱がせたいの?」
琴の問いに、西脇は勢い込んで答えた。
「えっ、そりゃもう脱ぐと凄そうだからですよ!ぶっちゃけ、私が見たいから、です!!」
清々しいほど、己の下心に正直だ。
琴は、はぁっと溜息をつく。西脇、彼女に相談したのが間違いだった。
「それでは、ポスター案としては却下せざるを得ないわね。ポスターは、あなた一人に向けたものではなく、大勢へ向けた宣伝なのですから」
それに、と付け足した。
「裸でなんて写真を撮ったら、彼がここで生活できなくなってしまうわ」
「だったら私が婿にもらうから問題ナシですよ!」
「どういう理屈ですか」
ポスターの構図はプロのデザイナーに頼むかして作ることにしよう。
去り際に、もう一度、琴は島を見た。
黙々と皿に盛りつけをしており、こちらに気を払う素振りは一切ない。
だが、それでいい。
勤勉さを期待して、採用した人なのだから。
島は期待に応えるが如く、非常に真面目な勤務で琴を喜ばせた。
職務中に雑談は一切しない。
料理長や宿主人である自分にも逆らわず、誰に言われた仕事だろうと黙々とこなした。
それでいて向上心は高く、休日には市場を巡っての料理研究をしているのだとか。
情報元は料理長と、それから西脇もだ。
彼女が休日にも島をストーキングしている件は、さておくとして。
本人は何も語らない。
そうした寡黙な部分も、琴は気に入った。
それじゃまた、と挨拶をして琴は調理場を出て行った。

琴の姿が完全に見えなくなったところで、島は、そっと息を吐き出す。
彼女に見られている間、ひどく緊張した。
嫌いなのではない。
むしろ、好きだ。好きであるが故に、緊張する。
何しろ琴は、大切な雇い主。
しかも何故か、自分を目にかけて可愛がってくれる。
客の部屋へ同伴しろと最初に言われた時は戸惑ったものの、今では楽しみにしている自分がいる。
もっと琴と同じ時間を過ごせたら、彼女と夫婦になれたら――
と、そこまで考えて、島は緩く首を振る。
駄目だ。
今は未亡人とはいえ、彼女はまだ、過去の旦那を忘れてはいまい。
いつまでも独り身で居るのが、何よりの証拠ではないか。
好意を伝えたら、きっと迷惑になってしまう。
それだけは、避けねば。
「おぅ、疲れたか?まぁ、お前は毎日頑張りすぎだかんな。ちったぁ休んでおけ、今日は夜にも忙しくなるしよ」
料理長の片倉源吾に、ぽんと肩を叩かれて、島は我に返る。
手が止まっていたのを、疲れたのだと勘違いされたらしい。
「いえ、まだ大丈夫です」
答える島の頭を、ぽんぽんと片倉が撫でてくる。
「いいから、休める時に休んでおけってのよ。夜にな、団体客がドワーっと押し寄せてくるっつぅからよ。あぁ、おかみさんだ、おかみさんが言ってたんだ。だから夜に備えて体力を少しでも回復しとくんだ」
「では、料理長も――」
島は最後まで言わせてもらえず、片倉には馬鹿笑いされた。
「俺か?俺はいいんだよ、お前のおかげで毎日楽させてもらってっからな!」
総勢九人の料理人、料理長が自分だけの働きで楽になっているかと言われれば、首を傾げざるをえない島であったが。
しかし、片倉には背中をグイグイ押されて調理場を追い出される。
追い出されてしまっては戻るわけにもいかず、島は仕方なく自分にあてがわれた部屋へ向かった。
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