不器用な恋と呼ばないで

#19

一人残された真木が女子部屋へ遊びに来て、二人の外出は全員が知るところとなった。
「なんで止めてくれなかったんすか!」と西脇に怒られても、真木は「昨日は深夜越えで寝たってのに、そんな早くに起きられるわけないでしょ!?」と言い訳するしかない。
真木が目覚めたのは七時台と旅行にしては早めだったのだが、すでに二人とも出かけた後だったのだ。
部屋には『漁師の家へ出かけてきます』と、書き置きが一枚だけ。どこの漁師だかも判らない。
「考えてみれば、どっちか一つを選べって難しいよねぇ……」
ぽつんと呟いた瑞穂に「何のお話ですか?」と琴が尋ね返すと、物憂げに窓を眺めながら瑞穂が答える。
「あ、ですから勤め先です。今の職場を大切にするか、昔いた居心地のいい職場に戻るか。私だったら今の職場を大事にしますけど、でも昔の職場が経済的にピンチだったり、倒産の危機とかなったりしたら、ちょっと心が揺れちゃうかなぁ」
しかも島の場合は、恩人の経営する店である。
どれだけ今の職場の居心地がよくても、恩人の店が危うくなったら戻りたくなるのが人情ではないか。
「経営難って話、出てたっけ?」と首を傾げる真木へ「例え話ですよ」と注釈を入れてから、瑞穂は琴を見やる。
「おかみさん。おきつブランドは興宮さん込みで取り入れるっての、できませんか?」
言わんとする意味が分からず、きょとんとする琴へ、もう一度繰り返す。
「おかみさんは、おきつで育てられたって経歴込みで島さんを大蔵屋の看板にしたいんですよね?だったら、おきつの味そのものも取り入れることは出来ませんか。例えば、おきつで作った料理を、大蔵屋でコラボといった形で提供するとか」
「あー、そりゃ出来るけど、それやっても意味ないっしょ」と答えたのは経営主の琴ではなく、西脇だ。
なんでと膨れっつらになる親友へ、判りやすく紐解いてみる。
「働く場所が同じってのを重要視してるんじゃないすか、島先輩は。だから迷ってんすよ、大蔵屋の厨房にするか、おきつの厨房にするかで」
「なら」と、さらに割り込んできたのは真木だ。
「大蔵屋の店舗内に、おきつ分家を作っちゃえばいいんじゃない?」
どうですか、おかみさん?と自信満々に促されて、琴は、しばし呆けてしまう。
大蔵屋は創業してから今に至るまで余所の飲食店と提携したり、施設内に飲食店を設けた事もない。
バーやラウンジ、カラオケといったものは大蔵屋の雰囲気に合わないし、食事は厨房で用意したものを食べて欲しい。
最初に言い出したのは亡き夫の美代司だが、琴も同感だったので、ずっとそれで通してきた。
「待って、でもそれだと改装工事を延長しなきゃならないんじゃ?」
なおも西脇が、経営主を差し置いて懸念を示す。
「そうなるけど、せっかく改装するんだったら前とは全然違う方向へもっていかないと、なんだ外装変えただけか〜って辛口レビューされちゃうんじゃありませんか?」
瑞穂の反論の後半はおかみさんへ向けたもので、琴はグッと言葉に詰まる。
改装に踏み切ったのは建物全般の老朽化が原因だが、彼女の意見にも一理ある。
今は常に新しい発想を求められている時代だ。
看板料理人を立てるだけでは押しが足りないと、若い彼女らが思うのも無理はない。
「ですが、おきつさん側が承諾して下さるでしょうか」
「そう、それ、それっすよ!」と、西脇。
彼女は興宮が島に接近するのをヨシとしていないから、おきつとの提携は絶対に反対派だ。
興宮と島の接近に関しては、琴も快く思っていない。
しかし、一か八かで提携を持ち出した真木達の温情が判らないわけでもない。
島に辞められた上、おきつに戻られるぐらいなら全部取り込んでしまえ――という、琴に気を遣った妥協案だ。
「おきつのおっさんは、あの店を後生大事にしてるんでしょう!?だって自分一代で築きあげた店ですもんね。馴染みの客だってついているのに、大蔵屋内で店を構えるメリットが、おっさん側には全然ないじゃないっすか」
西脇の指摘に「そう、それなんだよねぇ、問題は」と瑞穂も腕を組んで考え込む。
興宮側のメリットは島と同じ職場で働ける、それだけだ。
利益にも繋がらないから、とても承諾してもらえるとは思えない。
「あの場所に建っていて、今、どれくらい儲けを出しているのかが要だよな。もし、それほど黒字でもないんだったら、動かせそうな気はするけど。或いは支店だっていいんだ」
「支店を出すほどの資金が、あのおっさんにあるとは思えないっすよ。多少有名だっつっても、個人運営の小料理屋っしょ?」
どこまでも下に見積もる西脇と、策略を巡らせる真木を横目に、瑞穂の視線は時計へ向かう。
只今の時刻は午前十時。島と興宮が戻ってくる様子はない。
漁師の家へ行ったのは、新鮮な材料調達の契約先を探しにいったのだと予想できる。
だが、そんなのは数時間で終わるはずだ。今頃は、どこをほっつき歩いているのやら。
自分達の目の届かない場所で興宮に島が説得されたら、全てが水の泡だ。
瑞穂は琴の横顔もチラリと見て、悶々と思案する。
島が辞めたら、きっとおかみさんはガックリきてしまう。
自分が彼女にしてあげられる最善のケアは何だろう?


時計の針が午後一時を回る頃、興宮と島は向かい合わせに腰かけて、昼飯を食べていた。
「どうだ、ここの丼は美味いだろ」
海鮮丼をかっ込みながら興宮が相槌を求めてくるので、同じメニューを頼んだ島は頷く。
「えぇ……タレに深みがありますね」
「なんだ、うめぇのはタレだけか?」と横から茶々を入れてくる大二郎には、小さく首を振った。
「魚も新鮮で、歯ごたえがあります。ですが……これで客が来ないのは不思議です」
「それなんだよな」
興宮も頷き、ちらっと師匠へあてつけがましい目を向ける。
「やっぱ作ってる奴の顔がマズいから、客も敬遠しちまうのかねぇ」
「抜かせ、顔の造作に関しちゃ、てめぇも俺も変わらねぇだろうがよ」
大二郎もやり返し、ちらっと島へ視線を投げた。
「その点、おめぇの弟子はいいな。ツラがいいから、それだけで宣伝になる」
「そうさなぁ」と一旦は同意し、しかしと興宮は続けた。
「顔がいいってだけじゃ、飯屋は長続きしねぇぜ。サービス満点、値段もお手頃、清潔な店内、雰囲気の良さ……まぁ、俺の店にそれが全部あるかって言われたら、怪しいトコもあるが」
お茶を一口すすり、島が横入りしてくる。
「……あると、思います。おきつには」
「そうかねぇ」と店主本人は首を傾げ、付け足した。
「まぁ一応清潔と雰囲気は気をつけちゃいるが、値段が高いってケチをつけてくる一見さんもいたしな……ここも、そうだ。値段がべらぼうに高い」
「仕方ねぇだろ、最近は魚が高いんだ」と、大二郎。
海鮮丼の平均額は千円から二千円だが、天上は特に設けられておらず、高いものになると三千円近く取る。
大二郎の店、金包じゃ海鮮丼は千八百円だ。
割合良心的な値段だと島は思ったのだが、このボリュームで千八百はあり得ないと興宮は鼻で笑った。
「千円以上取るんなら、ウニカニいくらホタテエビの五種は乗ってなきゃ客は納得しねぇぜ。それがどうだよ、この店はカニエビいくらホタテはいいとして、残りはマグロと大葉で誤魔化してやがる。ウニはどうした、去年までは乗ってただろうが」
チッと舌打ちして大二郎が言うには「コストオーバーだ」とのこと。
「タレとイキはいいんだがな、店長のこういうとこが客を寄せ付けない原因なんだよ」
興宮は肩をすくめ、それでも一応はフォローした。
「俺を独り立ちさせる程度の腕前はあるのによ、なにかと惜しい店だ」
「へっ、弟子に心配される店よかぁマシだぜ」と大二郎もやり返し、島を見据えた。
「世界を見るだなんだと言い訳してやがったが、おめぇがおきつを出たのは結局アレだろ、こいつの料理だけじゃ生き残れないと判断した。そうじゃねぇのか」
思ってもみない解釈をされて、島は呆気にとられる。
興宮の腕前を疑うなんて、一度も考えたことがなかった。
島はいつも、自分の腕を上げる、それしか考えていない。
足手まといになりたくないからこそ、外での修行を決意したのだ。
下ごしらえから盛りつけまで全部一人でやるおきつと異なり、大蔵屋の厨房は分担作業が基本だ。
それでいながら休憩時間は短く、ほぼ一日中立ち仕事で、厨房は年中熱い。
小料理屋の比にもならない重労働だが、分担作業こそが修行の目的に適っていた。
下ごしらえにしろ調理にしろ、おきつとは異なるやり方で片付けていく先輩諸氏の知恵袋が大変勉強になったのである。
興宮が教えてくれたやり方を繰り返すしか能のなかった島は、大蔵屋で教わった"楽な皮の剥き方"や"効率的な食器類の洗い方"等の新しい手法を何度も繰り返し、自分なりにアレンジも加えることで、少しずつ自分に自信が持てるようになっていった。
おきつが第一の師匠なら、大蔵屋は第二の師匠だ。
だから、辞めるに辞められなくて困った事態になっているのだが。
だんまりな島を見かねてか、興宮が弁護する。
「俺を心配してってのは違うだろうさ。俺を未熟だと見下していたら、わざわざ戻りたいなんて思わねぇだろ。島、お前は自分自身が未熟だと感じたから、武者修行をしようって思ったんだろ?」
「結局、おめぇの猿真似じゃ上達しないと言っているようなもんじゃねぇか」
大二郎の茶々を遮る勢いで、島は想いを吐き出した。
「その通りです。俺は、興宮さんの足を引っ張りたくなかった。外の世界で俺なりの実力をつけたいと思ったんです」
「可愛いこと言ってくれるぜ」
そっぽを向いて小さく呟いたかと思うと、すぐに興宮は向き直り、島の頭を乱暴に撫でる。
「だがよ、俺はお前を足手まといだとは一度も思わなかった。お前が一緒の店で働いてくれれば、ずっと幸せだったんだ」
では、武者修行へ出た島の意気込みは全て空回りだったのか?
――いや、そんなわけがない。
たとえ興宮や大二郎がどう受け取ろうと、自分で決めた行動だ。
自分が自分に納得できなければ、あのまま一緒に働いていても、どこかで行き詰っていただろう。
「同じ職場か。厨房が同じなら、どこでもいいのか?例えばよ、おきつじゃなく他の店でも」
師匠に突っ込まれ、興宮は間髪入れずに答え返す。
「まぁな。別におきつだけに、こだわっちゃいねぇよ」
意外だ。
自分の腕前で有名にした店だし、てっきり思い入れは深いのかと島は勝手に思っていた。
「ほー。じゃあ、いっそ大蔵屋に転職しちまったら、どうだ」
軽口をたたく大二郎に、興宮も乗ってくる。
「いいねぇ。だが、おかみさんは俺を雇ってくれるかな?」
「雇うんじゃねぇか?お前んとこの常連客も取り込めるってなったら」
大二郎は笑い、しかし、しっかり毒も織り交ぜるのは忘れなかった。
「ま、しみったれた小料理店の常連客を取り込んだところで、たかが知れてるけどよ」
「言ってくれるぜ」と苦笑し、興宮は再び島へ目を移す。
「大蔵屋ってなぁ、現在どっかの飲食店と提携してんのか?そういや中にバーやラウンジがあるってのは、全然聞いた覚えがないんだが」
「いえ、ありません」と簡潔に答えてから、島はそっと尋ね返した。
「本気……なのですか?だとしたら、俺からおかみさんに打診してみますが」
「ほー。一介の料理人が経営者に打診できるのかい、大蔵屋ってのは。えらく従業員に優しいねぇ」
師匠の横やりを華麗にスルーし、興宮は島に微笑んだ。
「あぁ、是非ともな。お前と一緒に働けるんだったら、店を変えるってのも一案だ」
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