#20
大蔵屋の改装工事は期間を大幅に伸ばして、それでも完成した暁には予約で満室になるほどの大盛況であった。
それだけ待望にされていたのだろう。常連客や、改装で大蔵屋を知った人々からは。
公式サイトに初の旅館内飯屋がオープンすると書いてあれば。
それも食のレビューサイトで名前が度々あげられていた店となれば、店を知るものは行きたくもなる。
琴が提携を持ちかけ、それに頷くかたちで、おきつは今の店舗を畳み、大蔵屋内へ移転した。
最初、大蔵屋の料理人が助っ人に入ることも琴は提案していた。
しかし興宮が断り、その話はチャラになった。
どれだけ繁盛しようと猫の額なスペースだから大丈夫だ。
心配する島へ、彼は笑って言った。
「お前が、おきつに戻る気だったとは知らなかったよ。いつ、うちを出ていく予定だったんだ?」
片倉に話を振られ、島は何とも答えられずに沈黙してしまう。
ここの面接を受けた当初は、確かにそう考えていた。
大蔵屋で一通り学んだら、次の修行地を探すために出ていこうと。
しかし今にして思えば、おきつ以外のオーナーに対して何と失礼な考えであっただろうか。
大蔵屋だけではなく他の店に対しても、同じ行為をやろうとしていたのだ。
雇ってもらっておきながら、恩を仇で返すような真似を。
大蔵屋にいる間に気づけて良かった。
無言で野菜を炒める島を見て、片倉は質問を撤回する。
「お前を責めるつもりじゃないんだ。ただ、そうだったんであれば俺の味には、お前を惹きつけるほどの魅力がなかったのかと思ったらよ、少し悲しくなったというか、なぁ?」
「そんなことは」と慌てる島を手で制し、こうも続けた。
「おきつと事実上合併した今、俺は俺の味を、お前と一緒に磨いていこうと思う」
にやっと笑い、片倉は言う。
「俺の味がマンネリ気味だってのは薄々気づいていたんだ。けど、はっきり判ったのは、お前のおかげだぜ。俺も毎日腕を磨かにゃあ、どんどん錆びていく一方だ。その点、興宮さんは、すげぇな。お前が尊敬するのも判る気がするよ」
改装オープン前日、厨房の料理人とオーナーの琴とで、おきつへ食べに行った。
その時に、何か掴んだのかもしれない。片倉料理長の瞳は生き生きと輝いていた。
「そうそう、そういや新しく刷ったポスターですけど、見ました?」と、全然関係ない雑談を振ってきたのは横内だ。
「おう、見たぜ。静かな湖畔と大蔵屋をバックに興宮さんが腕組みしてドーン!ってやつだろ」
片倉の相槌に「あ、それもありますけど、俺が言いたいのは、もう一枚のほう」と横内が訂正するのを、西脇が遮った。
「見た見た見たー!見ましたよ、島先輩がアップでドドンのポスターっしょ!?もう駅構内とバス停前と電車の吊り広告とで三枚は引きちぎってきちゃいましたね、永遠の家宝とします!」
「引きちぎっちゃ駄目だろ!?」と先輩諸氏が声を揃えて突っ込むのを横目に、島は一人で赤面する。
撮影に呼ばれて何事かと思ったら琴直々によるモデルスカウトが待ち構えており、断ろうかどうしようか迷っているうちにノリノリで写真撮影する興宮を見てしまい、島も決心を固めたのであった。
結果、どちらも顔写真を大きく載せたポスターが完成し、また顔で評価されるのかと島は落ち込んだりもしたのだけれど、琴曰く、これからの大蔵屋は料理を前面に出していく方針にするらしい。
実演形式のバイキングを始め、そちらでは真木が包丁を振るっている。
島は片倉の強い要望で、厨房に残された。
島の性格が実演に向いていないというのもあったが、彼の仕事の丁寧さを見込んでの残留であった。
なにしろベテランの真木が抜けるとなると、あとは雑な仕事の若手ばかりになってしまう。
片倉は唯一の女性コックとして西脇を実演に出すべきだと熱弁をふるったらしいが、琴にはバッサリ却下された。
それもそうだろう。あんなのを表に出したら大蔵屋の悪評が高まってしまう。
今もポスターがどうのと雑談に夢中で鍋が噴きこぼれたのを料理長に叱られて、泡を食っている。
実演担当に真木は適任だ。和洋中からデザートまで、なんでも器用にこなせる彼ならば。
横内の情報によれば、クチコミサイトで真木の人気は上昇中。
イケメンイケボ料理人担当も彼に移っていきそうで、島は内心ホッとした。
客間に連れていかれる事もなくなった。
今後は、おきつと実演バイキングを中心に盛り上げていくため、お役御免となった。
やっと料理に専念できる。
琴との挨拶回りは、けして嫌ではなかったが、だからといって楽しくもなく、何度やっても緊張する、苦手な役回りだった。
あいさつ回りがなくなっても、琴とは、いつでも会える。
旅館の営業時間を終えた後、片倉料理長の元へ頻繁に顔を出すようになったのだ。
何をしに来るのかといえば、料理特訓だ。
一度食べたら天国への階段をマッハで駆けのぼる味を、なんとかして変えたいのだと本人が言っていた。
まさかそんな大袈裟な、と島も最初は高を括っていたのだが――
スプーンで一口食べた直後、
「っぶ!!!」と吹き出して、島は勢いよく流しに駆けよった。
「な、だから言っただろ?一度食べたら、これまでの人生を振り返りたくなるような味だって」
片倉料理長の遠慮ない一言が、彼の背中に突き刺さる。
だが、それに突っ込む余裕など今の島には全然なく。
口の中が苦い。麻婆豆腐を食べたはずなのに、辛味より苦味が口いっぱいに広がっている。
この苦味はなんだ?何の成分なんだ。焦げとも違う。
例えるなら何かの食材が一ヶ月放置されて腐ったような味だが、そんな材料は入れていないはずだ。
レシピまで渡した、麻婆豆腐を作らせたのだから。
まずは自力で作ってみようと言い渡して、完成するまで片倉と島は厨房の外に出ていた。
出ている間に、一体何が起きていた?
もし自分がギャグマンガの登場人物だったなら、自分の顔色は真っ青に染まっているのではないかと島は考えた。
それほどまでに、不快な味だった。おかみさんの料理下手を、正直舐めていた。
今も、体の底から胃液が逆流してくるような気分だ。
青白い表情で何度もうがいする島を眺め、申しわけなさそうに琴が謝ってくる。
「ごめんなさい、島くん。えぇと、分量を間違えてしまったみたいで……」
「あー、桁を間違えましたね、豪快に。それと全然炒められていません、挽肉が。ほら、裏側が生焼けでしょう?味から考えて、いくつか材料も抜けているような……うーん、やっぱりしばらくの間は私が徹底して手本通りに教えますね」と、片倉。
たとえ挽肉が生だったとしても、分量を間違えたとしても、人を毒殺できるような味には、ならない。
そう反論しようかと思った島だが、間違えてしまった桁は如何ほどか気になった。
目の前では人差し指を突っ込んでペロッと味見して「こりゃ酷い。何の分量を、どう間違えりゃ、こうなっちまうんですかね」と首をひねる片倉がおり、料理長も謎の味誕生原因が判らないときた。
絶妙なバランス配分でもって、新発見な化学反応を引き起こしたのだろうか。
とにかくもう、琴が本気で料理を学びたいのであれば徹底したスパルタ教育が必要だ。
「……俺も、立ち会います」
口に入れた分の麻婆豆腐全てを下水に流し込んだ後、ようやく立ち直った島が宣言すると、片倉には心配された。
「大丈夫か?この料理特訓に立ち会うってのは、毎回こんなのを口に入れなきゃいけない試練だぞ。下手したら、お前の味覚が破壊されちまう。俺はまぁ、マズイ飯にゃ耐性があるから平気だけどよ」
遠慮も容赦もない下馬評に、気を悪くするどころか本人も賛同の姿勢だ。
「そうですよ。私の特訓のせいで、島くんの才能を潰してしまうのは心苦しいですし、無理なさらないでください」
「いえ、大丈夫です」
島は力強く頷き、再度助力を申し出る。
「俺も、こ、琴さんの料理を美味しくするのに協力したいんです。手伝わせてください」
営業時間外では、おかみさんではなく琴と呼んで欲しい。
旅行から戻ってきた時、ささやかに彼女とかわした約束だ。
じっと真剣な表情で見つめる島に、琴の頬も、ほんのり赤く染まる。
ほぉ、と小さく感嘆をあげた料理長は、しかし無粋に冷やかすでもなく黙っている。
ややあって、琴が返事をした。
「……では、喜んで助力を受け止めます。いつか、あなたが美味しいと喜んでくれるような料理を作ってみせますからね」
「新婚生活までの、お楽しみですな」
ここで冷やかしてくる料理長には、琴も笑顔でやり返す。
「えぇ。生前の美代司さんには褒められずじまいでしたが、島くんには絶対褒められるようになってみせます」
「お、俺はどんな料理でも褒めますよ」と言った島は、ぺちっと片倉に額を叩かれる。
「馬鹿、今から甘やかしてどうするんだ。それに、お前が心の底から美味しいって思える料理じゃなかったら、褒められても意味がないんだぞ。なぁ、そうでしょう?おかみさん」
「えぇ、そのとおりです」と頷いた琴は、満面の笑みで言い放った。
「毎日美味しいご飯を作りあえる、そんな関係に憧れているんです。どうか、私の腕が上達するまで待っていて下さいね」
琴との新婚生活を妄想して、早くも緊張してきた島へ向けて。
完