不器用な恋と呼ばないで

#17

力強く抱きしめられて琴の息が詰まったのも、ほんの数秒で。
すぐさま勢いよく島は身をはがし、「すっ、すみません……!」と謝ってきた。
謝る事なんて、一つもないのに。
「いいえ、謝らなくて結構ですよ。それよりも、あなたに嫌われていなくて安心しました」
「嫌うだなんて、そんな……ッ」
「えぇ。ですから、嬉しかったんですよ。抱きしめられたことも含めて」
たった今犯したばかりの失態を褒められて、島は激しく狼狽えた。
琴の笑顔が眩しすぎて、目を併せられない。
狼狽える島をどう捉えたのか、琴はちらりと旅館を振り返り、彼を促す。
「……そろそろ戻らないと、西脇さんが騒ぎ出すかもしれませんね」
そうだ。
ちょっと散歩に出るつもりが、だいぶ長居してしまっていた。
興宮か真木のどちらかがトイレで起きたとしたら、今頃は大騒ぎになっているに違いない。
真木はさておき、興宮の反応が怖い。
このような夜更けに黙って外出するだなんて、軽蔑されやしないだろうか?
彼の父親性に憧れたと告白したのは、嘘ではない。
おきつで働くようになってから、島は興宮を師匠兼父親代わりとして慕ってきた。
何年経っても何歳になっても、興宮には自分に対して失望してほしくない。
「はい……」
小さく頷き、後をついてくる島を振り返り、琴が足を止める。
どうしたのかと首を傾げる島の横へ並びなおすと、琴は再び歩き始めた。
並んで歩きたかったのか――
そうと判った途端、島の鼓動は早鐘を打つ。
五年勤めて人柄を理解した気になっていたが、自分は何も彼女を判っていない。
だが、焦る必要はない。これから少しずつ、知っていけばいい。


二人揃っての外出は、既に他の全員が知るところとなっていた。
おかみさんの散歩が遅すぎると心配しているうちに、そちらに島が遊びに行っていないか?と真木から内線が入って、二人揃って不在だと知った西脇がブチきれ、抑えきれなくなった瑞穂のSOSにより、夜中にロビーで集合する事態となった。
「なんです、なんなんです?おかみともあろう者が夜分無断外出、それも男と二人で!?」
逆上して喚く西脇に「や、別にいいじゃない」と突っ込んだのは彼女の親友であるはずの瑞穂だ。
「島さんなら身元判っているんだし、何も問題ないでしょ」
「問題オーアリでしょッ!結婚してもいない相手と夜出かけるとなったら当然ラブホ直行に決まって」
「いやいや、フツーに外へ飲みに行っただけじゃないの?この旅館には飲める場所ないし」
想像力逞しい西脇の暴走発言に真木がストップをかけるも、その程度で止まる彼女ではない。
「島先輩は気弱だから、お酒をガバガバ飲まされて前後不覚になったのをいいことに、ベッドに連れ込まれてヤッてもないのにヤッたとされる既成事実を作らされて、無理矢理結婚させられてもおかしくないスよ!?嗚呼、年増の罠が先輩を襲う!」
普段どのような目で自分の上司を見ているのか、西脇の妄言には部外者の興宮でもドン引きだ。
それでも一応、興奮して大声になる彼女をなだめようと声をかける。
「まぁ待て、西脇さんとやら。あんたが思うほどには、あいつも気弱ではないぞ」
「ほぅ?オッサンから見ると、島先輩はどういう男に見えるんです」
西脇は、すっかり目が据わっている。
おまけに無礼講だ、酒も入っていないのに。
「ちょ、ちょっとワッキー!?」
「オッサンじゃなくて興宮さんだよ!」
言葉の乱れを正そうと慌てる二人を手で制し、興宮は穏やかに答えた。
「島は気弱なんじゃない。周りに気を遣いすぎるが故に、自分の意見をうまく言えなくなっているだけだ。意見を言うことで、誰かが傷つくのではないかと恐れているんだ。だが嫌だと思うことには、きちんと反論できる。だからもし既成事実を作られそうになったとしても、あいつは絶対に押し切られたりせん」
ちょうどロビーに入ってきた島の耳に興宮の言葉が流れてきて、足を止める。
「どうしました?」と島に尋ねてから、琴も皆が集まっているのに気づいて、そちらへも声をかけた。
「どうかなさったのですか?皆さん」
瑞穂や真木に止める暇も与えず、果敢に食ってかかったのは西脇だ。
「どうもこうも、なぁにサラッと島先輩つれて逢引きしてんですか?おかみさんっ」
「あら」と口元に手を当てて驚くと、琴もきっちりやり返す。
「事前に約束していましたから。夜にお散歩しましょうねって」
「ぬぉぉぉ!堂々と逢引きを認めましたね!?」
ちらりと興宮をも一瞥し、琴は優雅に微笑んだ。
「えぇ。でも、それに何の問題が?私は未亡人ですし、島くんには恋人もいらっしゃいませんし」
じっと黙って様子を伺っていた興宮が、ガリガリと頭をかいて苦笑する。
「こちらの旅行についてくるから何が目的かと思ったら、そういうことですかい、大蔵屋さん」
「そういうことって?」と尋ねたのは琴ではない。瑞穂だ。
西脇が「島先輩をモノにしようって魂胆ッスよ!」と喚き、興宮も肯定するかのように頷いた。
「島を大蔵屋に括りつける気満々ですね。いずれは屋号も継がせる予定で?」
声色から感じ取れる本音に、島は内心震え上がる。
怒っている。
顔では笑っているが、興宮は激怒している。
島が大蔵屋に勤め続ける件を、やはり快く思っていなかったのだ。
琴が強制的に島を引き留めていると勘違いしているようでもある。
どうする。この修羅場において自分は、どう動けばいい。
夜中に大声で騒ぐ西脇を咎めるべきか、それとも興宮の間違いに反論すべきなのか。
迷う島を助けたのは、他ならぬおかみさんであった。
「いいえ、島くんには自由な人生を歩んで欲しいと思っています。大蔵屋に残るか、おきつへ戻るか。それらは全て本人が自分の意志で決めることでしょう?違いますか、おきつさん」
一拍の間をおいて、興宮が緩く首を振った。
「……それもそうだな。それじゃあ、この際だ、本人に聞いてみるとするか」
島に向かってきた矛先は、琴がくるりと受け流す。
「それはもう、私が聞いておきました」
「ほぅ。で、本人はなんと?」
「まだ決めかねているようです」
ね?と皆の前で確認を取られては、頷かないわけにもいかず。
全員の注目を浴びながら、島は短く答えた。
「……そのとおりです」
実際自分では決められずにいたのだから、琴の言うことは間違っていない。
大蔵屋に残るか、おきつへ戻るか。
屋号改訂を持ち出すあたり、琴としては、おきつに戻ってほしくないのだろう。
対して興宮は、島と琴が結びつくのをヨシとしていない。
逢引きを"大蔵屋に縛りつけられる"と解釈したのが、それを物語っているようなものだ。
どちらも傷つけずに済まそうなどと考えるのは、考えるだけ無駄であった。
就職場所は一ヶ所しかない。必ず、どちらかを選ばなければいけない。
改めて問う。
自分は、どうしたいのか。
大蔵屋を辞めて、おきつに戻るとしても、琴への想いは、どうするつもりだったのか。
深刻に黙りこくる島の腕を、軽々しく取る者がいる。
ハッとなった島の目に映ったのは、口をひょっとこみたいに尖らせた西脇であった。
「別に、今すぐ決めるような事でもないんじゃないッスかぁ?まぁオッサンは歳ですし、定年前には島先輩に戻ってきて欲しいんでしょうけど」
傍若無人な物言いに、再び真木が「またオッサンって呼んでる!興宮さんだってば」と突っ込むも、西脇は視線をひたと興宮に併せて持論を続けた。
「あ、でも個人運営だから定年関係なし?なら答えが今すぐ出なくてもノープログレですよね。オッサンの言う通りに島先輩が気遣いの達人なんでしたら、どっちにも恩義感じて選びにくいでしょうしィ」
およそ他人への気遣いが出来るかどうかも怪しい奴が、島の心理を代弁している。
――と驚いていたら、話がとんでもない方向に飛んでいった。
「それに、おかみさんが逢引きオーケーなんでしたら、先輩後輩で私と島先輩の逢引きも超オッケーすよね?先輩、これから二人でラブホ行って既成事実を作っちゃいましょう!」
「な、なにを言って」
腕を振り払おうにも西脇はグッと脇で抱え込んで離させまいとし、にやぁっと笑いかけてくる。
「布団でくんずほぐれつ十八禁プロレスの開始ですよ。ウヘヘ、先輩は上と下どっちがいいすか?私は先輩に押し倒されても構いませんし、先輩にまたがって腰を振るのもアリですし、先輩が望むなら、だいしゅきホールドで抱きついてあげますし、なんでしたら先輩による夜通しスパンキングも許容範囲なんで!」
最後のほうは何を言われているのか島にも理解できなかったが、隙に乗じて勢いよく彼女を振り払う。
人が真面目に悩んでいるというのに、茶化してくるとは何事か。
西脇に真面目を求めるのは猿に言語を理解させるより難しいと知っていても、苛立たしい。
だが苛立つ島とは対照的に、興宮と琴は揃って互いの顔を見合わせ、苦笑する。
「西脇さんに助けられてしまいましたね」と囁く琴へ、興宮も肩をすくめた。
「あぁ、どうも我々は自分本位で物事を進めたがる嫌いがあるようだ。良い従業員を雇っているじゃないか、大蔵屋さん」
二人の会話を耳にして、島は密かに首をかしげる。
西脇が良従業員に見えるとしたら、興宮は相当疲れているとしか思えない。
ともあれ興がそがれたか、或いは気が収まったのか、興宮が場をお開きにしてきた。
「さて、二人も無事見つかったことだし、そろそろ寝るとしましょうや」
「そうですね。明日に響いてしまいますし」と琴が同意し、真木がハッとした顔で島を見やる。
「あ、そういや風呂まだ入ってなかった!島、今から入ってこよう」
走り出した真木につられるようにして、島も急ぎ足で部屋へ向かう。
「え〜、もうお風呂、閉まっちゃってますよ?夜十時までって書いてあったし」
瑞穂の、どこか呆れた口調を背に聞きながら。
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