不器用な恋と呼ばないで

#16

白く染まった思考に、色が戻ってくる。
突然パッと消えたりはせず、琴は微笑みを浮かべて島を見つめていた。
「ほん……とうに?」
小さく呟いた島へ、琴が頷く。
「えぇ。本当に」
確認せずとも、おかみさんが嘘をつくような人間ではないと、島も知っている。
俺も、あなたが好きです――
そう言おうとして、脳裏を興宮の顔がよぎり、島は言葉に詰まる。
好きだと告げるのは簡単だ。
しかし。
前後の流れを考えると、簡単には言えない。
もちろん琴と相思相愛であったのは嬉しいし、ずっと一緒に居たいと思っているのも間違いではない。
だが、琴と一緒になるというのは、大蔵屋を継ぐという意味だ。
おきつに戻れなくなってしまう。
興宮の元で料理を作る機会が一生失われてしまうのは、寂しいを通り越して、悲しい。
琴が大蔵屋をたたんで島の嫁になるというのであれば万々歳なのだが、そうもいくまい。
大蔵屋は老舗の旅館、常連客や従業員を多く抱えている。
それに、島の稼ぎで二人分食っていけるかどうかも怪しい。
一人で戻るのと、二人になって戻るのとでは、全く違うのだ。
再び黙り込んでしまった島を見て、琴は密かに動揺していた。
もしかして、彼には迷惑だったのだろうか。好きだと告げた事自体が。
これまで、ずっと嫌われていない自信があった。誘えば彼は、どこにでも同行したからだ。
だが、それも上司の命令だからと気を遣っていたのだとしたら?
年上のおばさんに好きだと言われて、しかも上司では断れないからと悩んでいたら、どうしよう。
彼を好きなのは本心だ。だが、困らせたいわけではない。
気まずく黙っていた島と、同じく気まずくなった琴が言葉を発したのは、ほぼ同時で。
「――あの」「し、島くん」
目を併せた途端に島はパッと視線を外してしまい、琴は暗雲たる気持ちに落ち込んだのだが、続く彼の発言は琴の予想とは違った方向性であった。
「お……おかみさんが結婚して苗字が変わったとしても、大蔵屋の屋号まで変える必要は、ないのではないでしょうか」
返事がなかったのは屋号の件で悩んでいたのかと内心安堵と呆れで半々になりながら、琴も尋ね返す。
「どうして、そう思うのです?」
「あの宿は"大蔵屋"だと多くの客に認識されています。以前の主人が死した今でも。ならば、今後もあの旅館は大蔵屋でなくてはいけない。大蔵の名は屋号ではなく、すでにシンボル化していると思います」
島は大真面目に語った後、ぽつりと感想も漏らした。
「……それに、二度三度と結婚が重なるたびに屋号を変えるのも面倒ではないでしょうか」
二度三度、何度も結婚するつもりはない。
島にフラれたら、もう二度と誰かを好きになる機会も訪れないのではと思う。
琴は、誰彼構わず好きになれるような女ではない。
これまでの人生で好きになったのは、美代司ただ一人だけだったのだ。
彼が死んで、琴は一人になった。独りぼっちになってしまった。
美代司の死後、言いよる男性は客にも近所にもいたけど、少しも心が惹かれなかった。
島が初めてだったのだ。美代司以外で、いいと思った男性は。
美代司と島は、似ても似つかない。まるっきり真逆のタイプだ。
美代司が如何にも家で本を読むのが好きなインドア派なのに対し、島は外で活動するのが好きなアウトドア系に見える。
しかし貧弱な見た目と反して、美代司は取引に優れたアクティブな社交派であった。
大蔵屋が中堅規模になったのも、ひとえに彼の営業成果であろう。
島は内気で大人しい職人気質だ。彼に営業は向いていまい。
顔つきにしても美代司が細面で優しげな美麗であるのに対して、島は武骨で率直な性格を表している。
なのに、島を好きになった。美代司より、いいのではないかと思うぐらいに。
島は、どうなのだろう。
答えを聞くのが怖い。
でも聞かなければ、これ以上先に進めない。
「……俺は」
ぽつりと島が囁く。
「今まで、誰かに恋をしたことがありません。両親が没した後は、それどころではなかったし、その前も、そういう想いを誰かに抱く感情を持っていなかった」
今までは、ということは、今現在は誰か好きな人がいるのか。
じっと黙って耳を傾ける琴を見て、言うか言うまいか悩んでいたようだが、島は結局言うことに決めたのか、ぽつぽつと話す。
「初めて安心できる相手を見つけたのは、興宮さんです。あの人は実際、よくしてくれました。師匠として、そして父親の代わりとしても。おきつは俺の故郷と呼べる店でしょう」
島は一旦言葉を区切り、迷いの表情を浮かべた。
しばし長い沈黙が続いたように琴には感じたが、実際には五分ぐらいの間だったのだろう。
顔をあげて、今度はしっかり琴と向き合って島が続きを吐き出した。
「……おきつを出て、俺は二つ目の安心できる場所を見つけました。それが、大蔵屋です。何故、安心できるのか。それは、こっ、琴さん。あなたが、おかみさんをやっていたからです……!」
たった、これだけを伝えるのに汗でびっしょりになっている自分に、島は驚く。
琴と呼ぶのにも声が震えた。
名前で呼んだのは、今日が初めてだ。
二人きりの場でも、ずっとおかみさんと呼んでいた。
他の従業員も、そう呼んでいたし、名前で呼ぶのは距離が近すぎると感じた。
これで伝わっただろうか。自分が、興宮と同じぐらい琴を大事に想っていると。
伝わらなかったかもしれない。
興宮を前提に出したことで、母親性を求められていると勘違いされたかもしれない。
それでもいい。それでも構わない。嫌っていない事だけでも伝われば――
「では」と、琴の唇が動いて、島の緊張は高まる。
「おきつと大蔵屋では、どちらがより安心できますか?」
難しい対比に、島は、ぐっと言葉に詰まる。詰まり具合は、先ほどの比ではない。
同じだと答えれば琴を失望させようし、おきつより大蔵屋がいいと答えようものなら、おきつに戻る道が絶たれる。
どう答えればいい。どう言えば、双方傷つけずに済む。
無言になる島へ、琴が言う。
「ごめんなさい、難しい質問をしてしまって。いいですよ、無理に答えなくて。ただの思いつきでしたから」
気を遣って言うのをためらったばかりに余計気を遣わせてしまって、心苦しい。
ますます無言で固まる島の前で、琴は、ふんわりと微笑んだ。
「それよりも、初めて名前で呼んでくれましたね。……ありがとう」
ありがとう。
その五文字が耳に入ってきた瞬間、ぱぁっと島の脳内に明るい光が差し込んでくる。
どうしようもないほど強い衝撃に襲われて、考えるよりも先に体が動いた。
「ありがとうは、こちらの台詞です……ッ!」
ぎゅぅっと琴を抱きしめる腕に力がこもる。
琴を、琴と呼ぶ。
たったそれだけで汗だくになった自分の勇気を、汲み取ってくれた彼女の優しさが嬉しくて。
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