不器用な恋と呼ばないで

#15

夕食を終える頃には布団が三枚、びっちり部屋に敷き詰められていた。
荷物は邪魔者扱いで、すみっこに全部押しつけられている。
「あーあ、酷いな、この旅館。客の荷物を何だと思っているんだよ。レビューで星1つけたろ」
壁際に押しつけられてグシャグシャにされた水着を手に取り、真木が愚痴垂れる。
生乾きだったせいもあってか、妙な折り癖がついてしまっていた。
「次からは、濡れた水着は風呂場で干しておくんですなァ」
興宮はさして取り合わず、島を、そっと促した。
「おう、お前はどこに寝る?」
「……では、戸口で」
控えめに申し出る島へ「戸口側でいいのか?トイレ行く時、踏まれちゃうぞ」と真木が茶々を入れてきたが、島は、それにも控えめに首を振って、戸口側の布団に陣取った。
どうあっても、寝る場所は戸口側でなければならない。
夜中に、こっそり抜け出すには。
布団に潜り込む島を見て、興宮も隣の布団に寝転がる。
「そんじゃ真木さん、あんたは奥で」
「あ、もう寝るんだ、二人とも。じゃ、先に歯磨きしてきます」
ばたばたと真木が洗面台へ走りこみ、五秒もしないうちに歯磨きを終えて戻ってくる。
電灯が消されて部屋が真っ暗になった後、真木と興宮が「おやすみ」と言うのを布団越しに島は聞く。
眠ったふりをして、しばらく様子を伺っていると、やがて二人揃っての鼾の大合唱が聞こえてくる。
寝つきが良いのか、それとも昼間の海水浴が利いているのかは定かではないが、これなら当分起きてこまい。
島は、そっと起き上がると、極力音をたてないように扉を開けて出ていった。


琴はロビーで待っていた。
西脇と瑞穂はまだ起きているそうで、どうやって抜け出てきたのかと不思議がる島へは、お散歩してきますと断ってきたのだと彼女は言う。
堂々とした理由に、自分もそうすればよかったかと島は一瞬迷いもしたのだが、いやいや、しかし真木の野次馬精神を考えると、同じ手は使えないと即座に迷いを断ち切った。
西脇が疑問を持たなかったのは不思議だが、或いは、おかみさんが、どこへ散歩へ行こうと無関心なのかもしれない。
「さぁ、いきましょう」と促され、島は素直に頷く。
表玄関は深夜二時まで鍵が開いているという。
壁にかかった時計をチラリ見て、あと二時間もあると確認してから、琴の後をついて外に出た。
旅館を出て、少し歩けば昼間にも来た海岸沿いに出る。
昼間と違うのは、自分たち以外には誰もいない点か。
ここいら辺は、車の通りも少ない。
波の音しか聞こえない。
海岸を横目に道路を歩きながら、島は、そっと傍らの琴を盗み見る。
昼間とはうって変わって、夜の彼女は旅館の浴衣を羽織っていた。
よくあるたてかん柄なのに、おかみさんが着ると格好良く見えるのは何故なのか。
きっと昼間のワンピース水着と同じ効果だ。
足元は、やはり旅館据え付けの赤い下駄を履いており、歩くたびに、からんころんと涼し気な音が鳴る。
普段着で来てしまった事を、島は後悔する。
自分も浴衣に着替えていれば、お揃いカップル気分が味わえたのに。
だが――もう一度、琴の横顔を盗み見て、カップル気取りは失礼だとも考え直す。
彼女と揃いを着て似合うのは、きっと前の旦那ぐらいだ。自分では、何を着ても釣り合わない。
前の旦那の風采を知らずとも、噂に聞く限りじゃ、おしどり夫婦だったというではないか。
改めて思う。
何もないと言い切ってもいい自分の何を、琴は気に入ってくれたのだろう。
琴は島を看板料理人だと言っていたが、片倉料理長を差し置いて看板を名乗るのは、おこがましい。
彼が大蔵の味を作ったのだ。今の職場での島は補佐に過ぎない。
いや、今だけではなく、おきつでも補佐であった。
料理長として昇進した自分や店を構える自分が、どうしても想像できずにいた。
無言でとぼとぼ歩いていると、不意に琴が口を開く。
「教えてくれますか?あなたが、おきつへ行く前の話」
驚いて真横を見やると、琴は微笑んでいる。
「何故、小料理屋で働こうと思ったのですか?」
「あ……はい。仕事が欲しかったんです。あの頃は働ければ、どこでもよいと思っていました」
案外すらすらと言葉が出た。
そうだ、自分の何が気に入ったって、料理人であるからこそ採用してくれたのではないか。
「仕事が?履歴書では中卒と書かれていましたけれど……」
「はい。軒並み面接で落ちて、唯一受かったのが、おきつだったのです」
あの当時は、本当に必死だった。
突然の事故で両親を亡くし、他に親族のいない島は天涯孤独の身の上となった。
施設に入る選択肢も、あるにはあった。だが、施設入りは拒んで職場を探した。
施設に入ったところで、無一文の生活に放り出される時期が遅れるだけだと踏んだのだ。
片っ端からアルバイトや正社員の面接を受け、片っ端から落とされた。
世間は中卒に厳しい。
最低でも高校は出ておけと方々の面接で言われたが、学費は誰が払うと思っているのか。
こちらは生活資金が欲しいから、就職先を探しているというのに。
そんな中、駄目元で選んだおきつの店長、興宮坂一だけは島に優しかった。
店で働きたい動機を尋ねられた際、率直に金が欲しいと申し出たのに、採用してくれた。
綺麗事の社交辞令など、何一つ思いつかなかった。それほどまでに必死だったのだ。
おまけに興宮は、接待から裏方まで何もかもが未経験の島に一から指導してくれた。
今の自分があるのは、全て彼のおかげだ。
恩返しをしたいと、強く思う。
だから、技術を磨くつもりで一旦店を出た。
そして五年経って、今度は修業先に未練を残して辞められずにいる。
自分の意志が、これほどまでに弱いとは思ってもみなかった。
「そうだったのですか……では、どうして、おきつを出て、うちに転職したのですか?」
ずばり核心を琴に問われ、島は言葉に詰まる。
「それは……」
言葉を探しても、出てこようはずがない。
ずっと探しているのに、見つからないのだから。
小さく呟いて俯いてしまった島を見て、琴は彼に聞こえないよう、そっと溜息をつく。
なんとなく、予想はついていた。
島が武者修行のために、大蔵屋へ一時的な転職をしたのではないかということが。
無論、雇った時には思いつきもしなかった。そう察したのは、興宮と実際に出会ってからだ。
外出で何度も鉢合わせ、二人の距離感、すなわち繋がりの深さを会話越しに感じた。
そして興宮が未練がましく島を呼び戻そうとしていると知り、今回の旅行に至った次第だ。
島本人がどう思っていようと、おきつに戻られては困る。
看板料理人にするなんてのは、ただの建前だ。本音を言えば、彼には末永く側にいて欲しい。
視線を戻し、琴は、じっと島を眺める。
島の何処が気に入ったのかと言われれば、ひとつは性格であろう。
実力を重んじる琴とはいえ、一部の従業員の軽薄さには一言二言、文句が出ないでもない。
島は、そういったものがない。どこまでも気真面目で、従順だ。
二つ目は……顔、か?パッと見、誠実そうな印象を受ける。
実際、彼は誠実でもあった。
嘘をつくのが苦手というよりは、周りの人間に気を遣いすぎるのかもしれない。
今だって転職の理由なんて適当な社交辞令を並べればいいものを、彼は言葉に悩んでいる。
言えない理由は一つしかない。興宮とのしがらみだ。
「……島くん。話を変えましょう」
暗い顔で頷く彼を引き連れて、琴は道路から浜辺へと降りる。
涼しい夜風が頬を撫でてゆく。
「大蔵屋が私の亡き夫の作った旅館であることは、ご存じですよね?」
「は……はい」
おずおずと、島が頷く。
琴が何を言わんとしているのかが判りかねるといった、困惑の表情を浮かべて。
「旅館の経営を引きついで、ずっと大蔵の屋号を守るつもりでいましたが……改装を機に、もういいかなって思ったんです」
「何が、ですか?」
「屋号を守るのを」と答え、琴が、ひたと島に目線を併せる。
真っ向から見つめられ、内心おたつきながら島も応える。
「それは……まずいのでは」
「何故です?」
「大蔵屋としてのネームバリューを手放すことになるのでは、ありませんか」
「大蔵屋は、大蔵美代司がいてこその屋号でした」
歌うように呟き、琴が近づいてくる。
息がかかる範囲まで近づかれて、ますます狼狽える島の耳元で、彼女が囁いた。
「私も、そろそろ未来へ踏み出したいのです。えぇ、もちろん夫との想い出は忘れていません。けれど改装で店を一新するのであれば、気持ちも切り替えねばいけません。いえ、切り替えたい……そう、思ったんです」
「何故……それを、俺に……?」
これでもかとばかりに頬を紅潮させた島の目前で、琴は、にこりと微笑んだ。
「えぇ。あなたにこそ、聞いてほしかったのです。私の好きな、あなたに」
思いがけぬタイミングで、思いがけぬ告白をされて。
島の思考は一面真っ白になって、何も考えられなくなった――
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