夜に咲く花

7.憎しみの炎

心の中で、ずっと燻っていた炎があった。
多分それは誰も、いや彼自身さえも気づかないほど小さな炎だったのかもしれない。
あの戦で心に焼きついた小さな炎は、やがて憎しみを糧に大きな炎へと膨れあがる。
賢者ウォートリアの心には今、大きな炎が囂々と燃え広がっていた。

「ぐ、ぐぉっ……い、いてぇ!何だこりゃ、いてぇっ!!」
熱い。焼けつくように傷口が熱い。
背中に手を回すと、ぬるりとした。
血だ。血が、俺の背中から流れている。
とめどなく、どぼどぼと……駄目だ、視界がまわる。
畜生!一体誰だ?人を背中から刺しやがったのは!
あぁ、気のせいか腹まで痛くなってきた。
背中を突き刺されたってのに、何だこれは。この痛みは?
まるで、まるで背中から腹まで熱いものが貫通したような、痛さじゃないか。
オージは痛みに耐えきれず、べたりと倒れ込む。
そして視界の隅に黒いものを捉えた。
それは、鴉であった。
真っ黒な鴉が窓の縁に止まっている。
「賢者……!」
小さな声が近くであがった。ダニスが叫んだのだ。
ダニスだけではない。机の上にいる自動人形も同時に叫ぶ。
「先生……!なんてことを」
鴉は項垂れている。そこに自分がいることを恥じるかのように。

消えてしまいたい。
鴉に変化した姿のまま、ウォートリアは そんなことを思っていた。
カッとなった一瞬、彼自身ですら自分を止めることができなくなっていた。
それを彼は恥じている。


――ずっと憧れていた。


偉大なる人形師・ジャーマターのようになりたいと。
争いを許し、花や草や木や動物たち、そして全ての人間と人形を愛する心を持つ男。
全てを慈しみ、心に愛という名の花を咲かせる男。
誰もが彼を愛し、そして彼も全ての者達を愛している。
愛される存在。
愛されることが当然であるかのような、存在。
それが人形師ジャーマターなのだと思う。
あの男のように、私もなりたかった。
だが。
街を燃やされた あの日から、私の心の中で憎しみの炎が消えたことなど一度もない。
私は全ての人間を嫌い、街で住むことに嫌気を覚え、そして逃げた。
丘の上に家を建て、自動人形を友に選び、人間社会から逃げてしまった。
情けない、と思う。何故憎しみを捨てることができなかったのか、とも思う。
だが憎しみの感情というものは、本人が思うよりも強く激しく居座り続けるものなのだ。

誰かを疎ましいと思う心。
誰かを醜いと蔑む心。
誰かを――

今この瞬間で醜いものがあるとすれば、それは私自身に他ならない。
私は悪漢を殺そうとしている。ダニスを襲っていた、この悪漢を。
許せない。
私からダニスを奪おうとする、この悪漢が。
わかる。憎しみの炎が、心の闇が私の感情を全て燃やしていく。
私が今まで培おうとしてきた全ての優しさまでも。
全てが壊れていく。
全てが、燃やされていく。
私の中で蕾をつけていた花も、全て。
ジャニアもダニスも、もう二度と私に心を許してはくれないだろう。
憎しみの牙を他人に突き立ててしまった愚か者のいうことなど、誰が聞くというのか?
それでも私は、この悪漢を許すことができない。

さようなら、ジャーマター。
私は貴方の友では、もう、いられない。


ウォートリアが憎しみの炎をオージにぶつけていた頃、エクサリスは二つの流れ星が海に落ちるのを見ていた。
流れ星は互いに絡みつきながら、長い尾を引いて水面に消えていく。
「……嫌な予感がするねぇ。風も出てきた」
ふと、丘の上に目をやると賢者の家が見えた。
おかしいではないか、この時刻なら灯りが点っているはずなのに家の中は暗い。
それに比べて街は明るいこと。戦の炎が街全体を包み込んでいるせいか。
エクサリスは、不意に誰かの泣き声を聞いたような気がして再び丘の家を見上げる。
泣き声は丘の上から聞こえたように思えてならなかった。


「へ、は、ははは……はははは!くそ鴉め、人間様の力ってもんを思い知らせてやるッ」
机を杖にオージが立ち上がる。
その目は血走っていたが、もうダニスを睨みつけてはいなかった。
けれどダニスの一つだけ残った瞳には、オージの憎しみが嫌というほど映り込んでいた。
あの鴉は賢者だ。賢者が他人に攻撃するところなど、ダニスは初めて見た。
彼は言っていたではないか。
全てを愛し全てを慈しめば、誰も争ったり悲しんだりすることなどなくなると。
しかし、今の賢者からはオージと同じものを感じる。
オージと同じ、憎しみという強い負の力を……
人間。
おれが、あれほど憧れていた人間というのは、これほど醜い生き物だったのか?
鴉とダニスの目が合う。
すぐに鴉は目をそらしてしまったけれど、その時ダニスは賢者から悲しみを感じ取った。
彼が何をするのか、いや何をしても悲しい結末になりそうで、ダニスは知らず叫んでいた。
「や………やめろ、賢者!」
それと ほぼ同時であった。
鴉がオージの元へ飛び込んでいったのは。
「ぐおぉぉっ!」
周りを小うるさく飛ぶ鴉に、オージも口から血の泡を飛ばして応戦する。
再び鉄串を手に持って、ぶんぶんと目茶苦茶に振り回した。
そのうちに、がつん、と音がして鴉が失速する。
でたらめな軌道のひとつが偶然鴉の頭を直撃したものらしく、よろよろと床に墜落した。
すかさずオージが踏みつけようとするが、最後の羽ばたきで避けると賢者は人に姿を変えた。
「……なんというデタラメな男だ。鴉相手に鉄串で殴りかかるとは」
呟いた彼は、額から血を流している。
ジャニアが口元に手をあてて悲鳴をあげた。
「でたらめだと!?鴉に化けるテメェのほうが、よっぽどデタラメだろうが!」
しっかりと鉄串を握りしめたオージが怒鳴っている。
鉄串の先を賢者に向けた。
「丘の上の賢者はバケモノだってな……なるほど噂通りだぜ。これ以上妙な真似してみろ、そこのチビも、ダニスもまとめて暖炉にくべてやる!」
オージの狂気はダニスだけではなくジャニアをも狙い始めたというのか。
片手は鉄串で賢者を牽制したまま、口にマッチをくわえ、もう片手で火をつける。
そして、ついたばかりの火を暖炉に放り込んだ。
「ここは私の家なのだがね。きみは自分が何をやっているのか判っているのか?」
黙って見ていた賢者が口を開く。
口調こそは落ち着きを取り戻していたが、憎しみの炎はまだ消えていないとダニスは感じた。
「これは犯罪だぞ。私がきみを然るべき場所に出せば、きみは社会生命を失うだろう」
静かなる賢者の説教は「うるせぇ!」というオージの声でかき消される。
「お前が!お前が俺からダニスを盗んだんだ!!お前がダニスを飼ってなきゃあ、俺はここには来なかった!お前が、お前が悪いんだ!ダニスなんかを、いつまでも飼ってやがるからッ!お前がダニスを壊しちまっていれば俺が、こんなとこまで足を運んで!お前に怪我させられることもなかったんだッ!!」

――もう、たくさんだ。

もう嫌だ。
もう、この男の言葉など聞いていたくない。
黙らせてやろう、永遠に。私の憎しみの炎で。

その上でダニス、きみに頼みがあります。
ジャニアを……よろしく。



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