夜に咲く花

8.心に咲く花

空に二つの流れ星が瞬くとき、この街はいつも不幸に見舞われた。
エクサリスは急いで走っていた。
目指すは丘の上、賢者ウォートリアの家だ。
いつまでも暗く沈んでいた家に、いきなり灯がついたのである。
それだけなら別におかしくもありはしない。彼が帰ってきただけだろう。
だが灯りを見た途端、彼女は何とも言えぬ不吉な予感に胸を押さえた。

丘の上の賢者の家には不埒な人物があがりこんでいたが、乗り込んできた時の元気の代わりに今のオージの心を覆うものは恐怖。
怒りと憎しみは、ダニスではなく別の者へと流れ出していた。
目の前の男、長い艶やかな黒髪を垂らした男は、街でも時折耳にする変わり者だった。

――丘の上に住む賢者は魔法を使う色男。

なんて、酒場の女どもが話していたのを聞いた覚えがある。
魔法自体は、この街では特別珍しいものではない。
だが魔法なんてのは、一部の暇をもてあました連中が趣味で使う道楽だ。
日々を生き抜くだけで精一杯のオージには関係のない話だったし、魔法なんてものを使う変な奴には極力関わりたくないと彼は思っていた。
しかしオージは今、変わり者で関わりたくもなかった相手、賢者と真っ向から向かい合っている。
いや、睨み合っていた。両者ともに、睨み合ったまま動けない。
オージは汗ばむ手で鉄串を握りなおす。武器を落としたら、こちらの負けだ。
相手は道楽者なのだ。
鴉に変化するだけじゃなく、もっと奇妙な魔法を使ってくるかもしれない。
でも、この鉄串さえあれば襲いかかってきたところをガツン、だ。
奴がよろめきでもすれば、後ろからどついて暖炉の中にくべてやる。
遠慮することはない、背中のお礼だ。
本来ならダニスをくべるために火をつけたのだけれど、この際どっちでもいい。
俺に刃向かう奴は、皆、ひどいめに合わせてやる。
だって俺だけが不幸だなんて。
あんまりじゃないか?

俺だけが貧乏で。
俺だけが働いても、働いても楽になれなくて。
俺だけが不良品を押しつけられて。
しかも、その不良品にまで逃げられる始末だ。

俺だけが不幸だなんて、世の中ひどすぎる。
だから、俺以外の奴らも不幸になればいい。
そうすれば、俺はきっと幸せになれるだろう。
「……どうしても退かないつもりですか」
ゆっくりと賢者が近づくのを見て、オージの目に怯えの色が走る。
「よ……寄るな!これ以上近寄ったら、お前、ダニスがどうなるか判ってんのか!?」
彼は鉄串を振りかざした。
口から泡を飛ばして怒鳴ったが、賢者の足は止まらない。
なおもゆっくりとオージとの間合いを狭めてくる。
「……ダニス」
歩を進めながら、賢者は床に転がる友の名を呼んだ。
「な……なんだ?」
名を呼ばれて見上げたダニスの目にもオージと同じ不安と怯えが広がるのを見て、ウォートリアは心の中で溜息をついた。
無理もない。今の私は、彼には怖すぎる存在であろう。
憎しみで心を焼き尽くす私の姿など、本当は彼に見せてはいけなかったのに。
今なら引き返せるかもしれないが、引き返してしまっては、この男を倒せない。
この男はダニスに憎しみを抱いている。
ここで彼を許したところで、再び彼はダニスに憎悪を抱いて戻ってくるだろう。
判っている。
憎しみは自分で消すに消せない感情だということを、私は。
私自身がそうだから、だから彼自身もそうであると簡単に判るのだ。
ジャーマターよ。
あなたは優しさが人を救うと私に教えてくれたが、それだけでは駄目なのだ。
誰かが優しさの影で黒い炎とならなければ、誰も救われなどしないのだ。
「お願いがあります。……ジャニアを、頼みます」
あぁ、愛しのジャニア。
私は、お前をも失望させてしまったね。
黒い炎は早々に退散しよう。
地獄の糧に、共に黒い炎に包まれた獣を持参して。
「な……なにを、おっしゃいますの?先生、そんなっ」
引きつり、つっかえつっかえにジャニアが叫ぶ。
だが、最後に賢者が言い残した言葉は、彼女たちには理解不能な独り言だった。
「心に咲く花は、ダニス、ジャニア。きみ達になら見られるのかもしれない」


山道を駆け上がる途中で、前方に偉大なる人形師の姿を見つけてエクサリスは呼びかけた。
「ジャーマター!」
老いた人形師は いつ登ってきたのか知らないが、息も切らせずに山道を走っている。
彼は自分の足で走っているのではなかった。
足元には薄いもやが渦巻いている。霧と風とが、彼の移動を助けていた。
「便利だね、それもお得意の魔法かい?」とエクサリスが尋ねれば、ジャーマターは「いいや」と首を振る。
「魔法ではない。万物が力を貸してくれるのじゃよ」
そういうことを さらりと言いのけてしまう彼に、エクサリスは時折嫉妬を覚える。
きっとウォートリアも、そうだ。
エクサリスと彼とは似たもの同士だったから。
二人とも、戦乱に心を焼かれて疲れていた。
どうでもよくなっていたし、生きることさえもが疎ましくなっていた。
そんな二人の心にも、ある日を境に一条の暖かい光が差し込み、目の前が明るくなる。
二人はジャーマターに出会えたおかげで、再び生きてみようという気になれたのだ。
だから恩義は感じている。が、同時にねたましくもあった。
全てを愛している、と言い切れてしまう大らかさが羨ましくて。
そして何故自分はこうも卑屈にしか生きられなかったのか、と悩ましく思えて仕方がなくなる。
しかしジャーマターまでもが丘の上に急ぐ、ということは、どういうことだ。
万物の力を借りてまで急ぐのだ、彼もまた、不吉な予感を抱いたのに違いない。
「急ごう」
短く呟くと、エクサリスはジャーマターを追い越して、再び走り出した。


吹き出す煙にオージは顔をしかめる。
少し火を焚きすぎたか。だが、火の調子を確かめる暇もない。
敵は徐々に近づいているのだ。
賢者ウォートリア。
彼は花と本と人形を愛する大人しい変わり者だったはずだが、今の彼はどうだ。
オージと同じ、憎しみに燃える暗い炎を瞳に宿しているではないか。
彼は怒っていた。
ダニスを彼から取り上げようとするオージに対して、ひどく怒っていた。
そして、そのことを恥じてもいた。
憎しみという衝動でオージを傷つけてしまった自分の愚かさを憎み、自分に怯えた感情を持つダニスにも憎しみの感情を抱き、そしてそれをまた悔やむ。
憎しみの堂々巡りだ。
彼が生きている限り、そして彼が何かを考えるたびに、彼の心の中で炎は常に揺らめき続けるのだろう。
一度でも誰かを憎み、蔑んだ時点で、人は憎しみの感情を覚えてしまう。
誰に教えられるでもなく、自ら黒い炎を宿してしまうのだ。自らの心の中に。
この炎を吹き消すことは容易ではない。
ましてや現実に敵と向かい合っている今、吹き消してしまっては奴に勝てない。
憎しみは強い負の感情となり、負の感情はときに人を大胆に動かす。
ウォートリアもまた、負の感情でオージを倒す為じりじりと間合いを縮めていた。
「くべる、とおっしゃいましたね。きみ、きみには火傷の経験がありますか?」
静かなる賢者に気圧されながらもオージは答える。
「あ、な、ねぇよッ!でも、それが何だって」
「そうですか。火というものは、ひどく熱いものです。戦火ともなれば数百の命を、あっという間に燃やし尽くしてしまう」
いつの間にか、オージは暖炉を背に追いつめられていた。
熱い。背中が焼けるように、熱い。
だが背中の暑さよりも、手前からくる殺気がオージを怯ませていた。
暖炉を背に動いたのは、まずかった。
ダニスと賢者をくべてやるはずだったのに、自分がくべられそうになっている。
暑さからくる汗か、それとも恐怖で流す冷や汗か。彼の額を汗がつたっていく。
俺は殺されるんじゃないか。そんな弱気がオージの心を支配し始めていた。
それでも彼は果敢に鉄串を振りかざして怒鳴った。
「そ、それが何だってんだ!街が燃えてんのは俺のせいじゃねぇっ」
「そうですね」
何がおかしいのか、賢者の口元に笑みが浮かぶ。
「しかし私の心で燻る戦火は、まぎれもなく、きみが点したものだ。責任を取ってもらおう。私と、きみの命で」

あっ、と誰かが声をあげる暇もなかった。
一瞬にして暖炉の火が二人を飲み込んでしまったのだから。
火は囂々と燃えさかり、思いもかけぬほどの勢いで賢者とオージを焼き尽くしてしまった。


「なんて、ことを」
戸口に影が降り、ダニスは振り返る。
ガラスの瞳に映り込んだのは、人形師ジャーマターとエクサリスの姿。
エクサリスは泣きそうな顔で暖炉を見つめていたし、ジャーマターは放心しているようであった。
「魔法は、そんな事には使うなって、あれほど言ったじゃないか……」
エクサリスが崩れ落ちる。彼女はもう、声も忍ばずに泣いていた。
「誰、だ?」
ダニスの問いに老いた人形師のほうが気づき、駆け寄ってくる。
「おぉ、おぉ、お前達は無事じゃったか」
無事といえば無事だったのかもしれない。
だが――ダニスは片目を失ってしまったし、ジャニアは最愛の賢者を失ってしまった。
ジャーマターに抱きかかえられながら、ダニスがそっと尋ねる。
「なぁ」
「……なんじゃ?」
優しく頭を撫でられると、賢者を思い出してダニスは泣けた。
もちろん自動人形だから泣けるはずもないのだけれど、心が張り裂けそうに痛い。
「心に咲く花、って何だか判るか?」
「あぁ、それは」と答えたのはジャーマターではなく、エクサリスだった。
おいおいと泣いていた彼女は、泣きはらした赤い目のままで応えた。
「心の中に咲く一輪の花……良心と言い換えてもいい。本来なら、誰の心の中にも咲いているはずなんだ。あいつにも、あたしにも」
「そうじゃ」
再び泣き出してしまった彼女に代わり、ジャーマターが言葉を受け継ぐ。
「誰の心の中にも、一輪の花は咲いておる。全てを愛し、慈しみ、誰も憎まず、そして蔑まず、全ての者と対等につきあう心を。みんな、生まれたときは持っていたはずの心なのじゃ。いつまでも忘れずに持ち続けておれば、花はきっと見える。見え続ける」
空を見た。流れ星は、もう見えない。
「………おれにも、見えるかな?その花」
つられてダニスも空を見上げる。星が瞬いていた。
「あぁ……見えるとも。お主達には、必ず見えるともさ。全ての者達、過去に知りあった者達、そして去っていった者達も忘れなければ」
再び撫でられ、ダニスは暖炉を振り返る。
賢者はもう、居ない。
けれど――ダニスの心の中には、彼がいる。
一輪の花と共に、永遠に穏やかな笑みを浮かべた彼が、そこにいるような気がした。


その花を見るのは
きっと難しくないのだろう
だが わたしには
それが見えるだろうか



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