夜に咲く花

6.ダニスとオージ

黒く歪んだ炎は、何も街だけを焦がすものではない。
賢者ウォートリアの家の戸を叩いたのも、胸の内に暗い炎を宿す者だった。
初めはゆっくりと、次第に扉が叩かれる音は乱暴になっていく。
この音を聞いているだけで、ジャニアもダニスも不安が増していった。
特に気の弱いジャニアは、すっかり怯えてしまっている。
「……誰?怖いわ……」
ダニスの横でジャニアが被りを振る。
弾みで髪の毛がダニスの頬を撫で、毛先からも彼女の不安がダニスへと伝わったような気がして。
ここで自分までもが不安がっていては駄目だ。
とばかりにダニスは立ち上がると、怯える彼女の髪をそっと撫でてやった。
二つの瞳が重なり合う。
無言で見上げるジャニアに、ダニスもまた無言で頷いた。
意を決して扉の向こうに声をかける。
「誰だ?賢者なら留守だぞ」
返ってくるのは、ただ――無言。
そして再びドンドン、と激しく叩かれる扉。
叩いている主に聞こえなかったのかと思い、ダニスは少し強めに言い直した。
「だから、賢者は留守なんだ。この家には、おれとジャニアの二人しかいない!」
不意に、扉を叩く音がピタリと止んだ。
「――?」
恐ろしいほどの静寂が辺りを包み込む。
あまりにも静かすぎて、先ほどまでの音が耳の奥底で聞こえている錯覚まで受けた。
「諦めたの、かしら?」
ジャニアが首を傾げる。ダニスは黙って首を振った。
扉の向こうにはまだ、人の気配があるような気がしてならなかった。
はたしてダニスの勘――人形に勘などというものがあるのだとすれば、だが――当たったか、一瞬の間を置いてから、扉が激しい勢いでぶち破られた。

その声を聞いた途端、ダニスの背中に戦慄が走る。
聞き覚えのありすぎる濁声。
あぁ、見間違えようもない低い背のシルエット。

「久しぶりだなァ」
判るぞ。
お前が怯えているのが、俺には手に取るように判る。
テーブルの上にいるんだろう。
こ汚ぇガラスの嵌った目を大きく見開いて。
くそっ。
お前のせいで、俺が今、どんな待遇にいるのか判るか?
判るものか。
いや、人形ごときに判られてたまるものか。
オージは一歩、一歩とゆっくり中へ足を進める。
目的のテーブルへと無造作に手を伸ばした時だった、直後に指先へ鋭い痛みを感じたのは。
「ウッ!」
瞬間的にチクッときて、オージは慌てて手を引っ込める。

――野郎、何しやがった!?

指先を見ると、小さな赤い点がぽつりと浮かんでいた。
血が出たのだ、ほんのちょっぴりだが。恐らくは針か何かで突かれたのだろう。
「ダニスゥゥゥゥッ!!」
「逃げるんだ、ジャニアッ!」
オージが怒り狂っている間に、ダニスはジャニアの手を取って走り出す。
数歩と行かぬうちに足は空を、ばたばたと虚しく駆けぬける。
床が遠い。見上げると、自分の頭を掴んでいるオージと目があった。
オージは笑っていた。
歪んだ、どす黒い笑みだった。或いは怒っているのかもしれなかった。
「あっ!」と叫んだのはダニスだったか、それともジャニアだったか。
とにかく次の瞬間には堅い床がぐんぐん迫り、ダニスの体が叩きつけられる。
さらには頭をぐりぐりと踏みつけられ、憎々しげな言葉を吐きかけられた。
「散々手間ァかけさせやがってよ……賢者は留守か、ちょうどいい」
その蓄積した怒りを晴らしてしまわんが如く、オージは血走った目で部屋を物色する。
足は、ともすれば逃げだそうとするダニスを踏みつけたまま。
「これなんか、いいな」と、彼が手にしたのは暖炉の中から拾い上げた鉄串だった。
「ソウル・オートマターでも痛みは感じるんだろ?えェッ」
そう、ダニスに尋ねた時のオージの顔ときたら。
満面の笑みを浮かべていて、ダニスは心の奥底までが凍りつくような気分を味わった。
怒りだ。
今のオージを動かしているのは、ダニスへの怒りに他ならない。
オージは毎日愚痴ばかり吐いていたけれども、その怒りの対象は常に世間であり、彼をこき使っている工場主であり、少なくともダニス自身ではなかった。
しかし、今のオージは違う。
憎しみのオーラを全身に漂わせ、はっきりとダニスに憎悪を向けている。
薄汚れた服は以前よりも変色しており、オージの生活変化を偲ばせる。
ダニスが去ってから、オージは前よりも貧しくなったのだろう。
でも、ダニスが逃げる前からオージは貧乏だったのだ。
オートマターが一体逃げたところで、オージの生活が、あれ以上悪くなるとは思えないのだが……
力一杯蹴り飛ばされて、壁に激突したダニスは息が一瞬止まる。
「うぅっ」ぶつけた頭を抱えて唸っていると、体に影が落ちた。
オージが見下ろしている。あの嫌な、笑みとも怒りとも判別できぬ表情で。
「痛いか?痛いのか、そいつは好都合……これからどんどん痛くしてやるからな」
そう言いながら、彼はダニスの体を またも踏みつける。
そして、ゆっくりと、鉄串を握りしめていた手から力を抜いた。


乾いた音が、部屋中に響いた。
それは とても小さな音なのに、まるで全世界に響いたような気がして、ジャニアは両耳を塞ぎ、ついでに目も閉じた。


「うっ……うわあぁぁぁ!!……ぁぁ……ッ」
割れたのは、ダニスの右目。
賢者もジャニアも褒めてくれた、あの青いガラス玉は見るも無惨に飛び散って、ダニスの片目に黒い空洞をぽっかりと開けた。
オージの落とした鉄串は寸分違わずダニスの顔を直撃し、弾みで片目を粉砕したのだ。
「痛いのか?痛みを感じるたぁ上等じゃねーか、人形のくせしてよ」
瞼を押さえて、のたうち回るダニスを見てオージは肩を揺さぶった。
彼はもう喜びを隠せず、大声で笑っていた。
ダニスを。
ダニスを破壊してやるのだ、俺の手で。
これまでダニスに八つ当たりすることはあっても、壊そうとまで考えたことは一度もない。
壊れたらオージには直せないし、八つ当たりする相手が居なくなっても困る。
だが、ダニスを探し回っているうちにオージは段々心変わりしてきた。
どうせ探し出してもダニスのことだ、素直に戻ってこようとはすまい。
奴は妙に人間くさいところがあるから、逃げたのも虐待に耐えかねてだろう。
だったら、もういい。戻ってこなくてもいい。代わりに壊してやる。
オージにとって、ダニスが幸せに暮らすのは何よりも許し難い事だった。
何故ならダニスが逃げたあの日以来、オージは昔よりも不幸になったからだ。
人形工場では後ろ指を指され、工場主には嫌味を言われ、酒場では女達にまで噂をされる毎日が続き、そして、とうとうオージは工場をくびになった。

――悪い噂のある人間は、雇っておけないんだよ。
――商品のイメージダウンに繋がるからね。判るだろう?君も。

面と向かって そうまで言われては所詮は工夫、黙って引き下がるしかない。
少ない手切れ金を手にオージは工場を後にした。
工場自体に未練はない。が、明日からどうやって暮らしていけばいいのか。
物心ついた時からオージは工場で働いていた。
工夫以外の仕事を、オージは知らなかった。
しかし一旦ケチのついた工夫など、一体どこの工場が雇ってくれるというのだろう?
途方に暮れた時、ふとダニスの顔が脳裏に浮かんだ。
その瞬間からダニスはオージにとって、最も憎むべき相手へとすり替わったのだ。
「次はどうしてほしい?手足をぶった切るか、頭をちょん切るか……そうだ、頭が取れてもオートマターってのは話せるのかどうか、試してみるか」
ダニスが聞いていようがいまいが、構わずオージは話し続ける。
いや、彼はダニスに話しかけているつもりなどなかった。
オージは彼の頭の中に浮かんだ、残酷な仕打ちを妄想するので手一杯であった。
だから、突然の不意討ちにオージが気づけなかったとしても無理はない。
攻撃された、と気づいた時には深い傷を負っていて、痛みでオージは床にへたり込む。
ものすごいスピードで飛び込んできた黒い物体が、まっすぐ背中にぶつかってきたのだ。
その鋭い嘴はオージの背中に深々と突き刺さり、彼から大量の悲鳴と血を引き出すには充分すぎるほどの体当たりであった――



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