昔々至る場所に老夫婦が
ユンが目覚めたのは、いずことも判らぬ畑のど真ん中だった。全身ずぶぬれになりながらも立ち上がり、辺りを見回してみる。
同じ襖を通ったはずなのに、可憐やナナの姿はない。
遠目に見えるのは、山脈だ。畑の周辺には一階建ての家屋がぽつんと一つだけ。
家屋は草を敷き詰めた屋根で壁は木造と、質素な造りであった。
平地に畑が広がる他は何もない。閑散とした風景だ。
こうした場所はセルーンになく、かといってワでも見かけなかった。
扉の向こうは異世界だった。
しかしユンが異世界へ来るのは、これが初めてではない。
思考がクリアになり、ユンは行動を開始する。
まずは一軒家を訪ねて、ここが全体の何処に当たるのかを確認しよう。
聞き込みは苦手だが、そんなことを言っている場合ではない。
丁寧に木戸をノックしたのだが、誰も出てこない。
代わりに聞こえてきたのは、おいおいと泣きじゃくる誰かの声であった。
そっと戸を開けて中を覗けば、泣いているのは見知った顔、シズルではないか。
床に寝ているのは刃のようだ。
「どうした、何があった?」
ぶしつけに尋ねるユンへ、涙にくれたシズルが言う事にゃ。
「狸が、狸の奴がヤイバを殴って逃げていったんだ」
狸?
狸とは、動物の狸であろうか。
野生動物に襲われて昏倒するとは、いくら前線に出ないとはいえ貧弱な司令官である。
「どうかヤイバの仇を取ってくれ」
「……死んだのか?」と尋ねながら、ユンは刃の生死を確認する。
死んではいないようだが、気を失っているのか、揺すっても反応がない。
「死んでねーよ!けど殴られたんだぞ、仇を討ってくれたっていいじゃねぇか」
「だったら、お前が自分で行けばいい」
もっともなユンの突っ込みに、しかしシズルはオイオイ泣くだけで動こうとしない。
ユンは少し考え、結論を出した。
面倒くさいが狸退治をしてこよう。でなければシズルは、この場を動くまい。
壁に立てかけてあった鉈を手に取ると、ユンは確認を取る。
「狸は山に逃げていったのか?」
「多分」と頼りない目撃情報を元に、山へ向かったのであった。
山に入ってすぐ、ユンは狸と遭遇する。
具体的には狸ではなく狸の着ぐるみに包まれた変態眼鏡こと、キースだ。
刃を殴った犯人なのかと単刀直入に尋ねるユンへ、狸に扮したキースは眼鏡を光らせる。
「何の話だ?今の俺は酒池肉林美女スープを追い求める永遠のハンターだ。この奥の秘境に、俺の求めるスープがあると聞いて只今探索中なのだ。邪魔をしないでもらおうか」
唐突に斜め上な話題を振られてしまったが、意に介さず無視し、ユンも自分の目的を話す。
「訳あって狸退治をしなくてはならなくなった。キース、手伝え。狸探しだ」
「狸だと?言っておくが、この山には人しか住んでいない。いや……俺と同じく着ぐるみに身を包んだ人間しかな。俺も気が付いたら、この格好だったんだ。そして着ぐるみどもの雑談で耳にしたのが、酒池肉林美女スープってわけだ。こいつは是非とも、拝んでおかなければなァと思った次第よ。悪いが、お前の手伝いはしてやれん」
「判った。目的完了後は麓にある一軒家で集合しよう」
ユンは物分かりの良さを発揮し、山の奥へ進む。
するとキースも同じ方向に歩き出したではないか。
散開するのでは?と尋ねるユンに、奴が答えるには。
「言っただろ?俺の求めるスープは奥地にあるんだ」
散開する必要もなくなり、二人は一緒に奥地を目指す。
やがて遠くからは、風に乗って元気の良い歌声が聞こえてきた。
「もーもたろさん、ももたろさんっ、おまたにつけた黍団子〜一つ私にくださいな♪」
歌声の主が近づいてきて、向かい合ったキースは顔を綻ばせる。
「ナナたん!ワンちゃんの着ぐるみカワユイな、抱きしめて頬ずりしてチュッチュしたいぞ」
変態眼鏡の変態アプローチを丸ごと無視して、ナナがユンに問いかけてきた。
「ももたろさん!おまたにつけた黍団子、一つ私にくださいな?」
と、言われても。
黍団子なんぞ股につけた覚えはないし、ましてや自分はモモタロさんとやらではない。
「ナナ、何の話だ?それよりも狸退治を行う。お前も手伝ってくれ」
「えー、おまたにつけた黍団子をくれなきゃヤダー」
口を尖らせての拒否や返事は、いつものナナなのだが、何故か黍団子に執着している。
「黍団子なんか持っていない」
首を真横に振るユンへ、ナナがすり寄ってきた。
「え〜、持ってるじゃない、黍団子」
彼女が手を伸ばして握ったのはユンの股間、つまりは金玉で、仰天したのは握られた本人のみならず、成り行きを眺めていたキースもだ。
まさかナナが、普段無邪気でキースのセクハラには露骨な嫌悪で立ち向かってくる、あのナナが、まさかのシモネタを振ってくるとは、天地がひっくり返るほどの衝撃だ。
「おまたにつけた黍団子、一つ私にくださいな〜」
ナナは小さく口ずさんで、金玉をモミモミ揉んでくる。
ふぅっと熱い吐息がかかるたびに、ぞくぞくと快感がせり上がってきて、バカな、相手は妹だ。
血が繋がっていないとはいえ、長年家族として接してきた相手だ。
例え変な場所を掴まれても、家族にやられて気持ちいいと思えるはずはない。
しかし理性の訴えに逆らって、ユンの体が反応してしまう。ナナの指や息に。
「ひ、一つもやるわけには」
ぶるぶる体を震わせて耐えるユンの横では、キースが血走った目で叫ぶ。
「ナナたん、黍団子が欲しいなら俺のを二つともやるぞ!」
ナナは、ちらっとキースを見上げ、即座に吐き捨てた。
「えー、賞味期限の切れた腐った黍団子なんて、いらなーい」
「ガーン!おのれユン、ナナワンたんを惑わすとは酷い黍団子め!!」
嫉妬に狂ったキースでは、ナナを引きはがす助っ人としてアテに出来ない。
こうなったら、自力で今の状況を抜け出すしかない。
狸だって探さなければいけないのに、いつまでも偽者に構っている暇はない。
何の証拠もないが、こいつがナナの偽者だと、ユンは確信をもって言える。
本当のナナなら絶対に、ユンが嫌がる真似などしない。
こちらが少しでも嫌がった時点で、素直にやめてくれるのがナナの美点だ。
「ひ……一つで、いいのか……?ナナにしては、謙虚だな」
涙ぐむユンに尋ねられ、ワンコ着ぐるみのナナは少し思案した後。
「狸退治が終わった後で全部くれるなら、手伝ってもいいよ」と、妥協案を出してきた。
さりげに数が増えているのは気になったが、それを突っ込む前にキースから突っ込まれる。
「ユン、まさか禁断の近親相姦に踏み入るつもりじゃなかろうな?」
ユンは小さく首を振り「緊急脱出の詭弁だ。一つたりとて渡す気はない」と答えた。
キースは、いつの間にか平常心に戻っており、油断なくナナを監視している。
このナナが自分達の知るナナではなく、偽者ではないかとの推測に彼も至ったようだ。
同じ着ぐるみな格好でも、キースは本物なのか。
「よし……では気を取り直して狸を探すぞ」
ユンが号令をかけ、前進した三人は、ほどなくして二人目の黍団子希望者と鉢合わせる。
鶏の着ぐるみに身を包んだセーラだ。
やはり狂おしくユンの金玉を握ろうとしてきたのだが、そうは問屋が卸さない。
寸前でキースが止めて、逆に卑猥な笑顔で牽制した。
「おっと、黍団子が欲しかったら狸退治に参加してもらおうか。嫌なら酒池肉林スープのダシにしてやるまでよ。どちらを選ぶのが利口かは、考えんでも判るよなぁ?」
ユンに色目を仕掛けてくるなんて、ハナから偽者だと告白しているようなものだ。
本当のセーラはカネジョーしか目に入っていない。ユンやキースは空気以下の存在だ。
この異世界に住む何者かは、こちらの相関図を、あまり理解していないと思われる。
偽者セーラは渋々、「判ったわよぅ。狸退治、ちゃっちゃと済ませましょ」と頷くや否や、キースに襲いかかってきた。
「違う、俺じゃない!刃を襲った狸は他にいる!!」
キースも逃げ回り、ユンと偽ナナは二人を追いかけながら、山の奥へと走っていった。