大海原をゆく!霧を乗り越えろ
クルズ国とイルミ国を挟む海域は、夏の間だけ濃い霧に包まれる。
従って、夏の間だけは海域での戦闘も比較的少なめだ。
無論モンスターは、人間達の都合とは、お構いなしに出現する。
可憐達の船も、モンスターや海賊を警戒して進めばいいはずであった。
「うぅぅ……」
一人部屋で可憐は声にならない声を出す。
ベッドの上で先ほどから何をやっているのかと言えば、波に揺られて船酔いしてしまい、寝込んでいるのであった。
もう、かれこれ十分は、このザマだ。
初めての船旅が、こんなきついものになろうとは。
甲板で潮風を楽しんだり、今後の予定を女の子達と話し合ったりしたかったのに。
「おうぇ、うっぷ」
何度か外にも出たのだが、吐けそうで、なかなか吐けない。
これもまた、つらい。
船酔いの薬ってサイサンダラになかったのかなぁ、と可憐が内心嘆いていると、トントンと扉がノックされて、クラウンが入ってきた。
「カレン、大丈夫か?船を出す前に薬を塗っておくのを忘れていた」
天の助けが現われた――
と、一瞬は救いの目を彼に向けた可憐だが、すぐにハテ?と首を傾げる。
塗り薬?飲み薬ではなくて?
「悪霊よけと酔い止めの薬だ。カレンは、持っていないだろう?」
悪霊とは?
言われている意味が、さっぱり判らない。
可憐が真っ青な顔で見守る中、クラウンがベッドに腰掛ける。
「本来は俺ではなく、ミルかフォーリンにやってもらいたかったんだが、頼んだら拒絶されてしまった……なので申し訳ないが、俺で我慢してくれ」
頼んだって、何を頼んだのだ。薬を塗る件か?
なおも無言で見守る可憐の前で、クラウンは薬の蓋をあけると、舌で中身をすくい取る。
そのままペロペロと可憐のお腹を舐め始めるもんだから、可憐は慌てて飛び起きた。
「ひきゃあっ!?いいい、一体、何をっ」
泡食う可憐を見て、クラウンは悲しげに視線を落としてポツリと呟く。
「……俺がやったのでは汚く感じるかもしれないが、我慢してほしい。この薬は人間の唾液と混ぜて使う事で、より強い効果を発揮する」
ぼそぼそ説明するクラウンに、可憐の大声が被さった。
「いやっ、その、その前に!悪霊とか酔い止めとかって、何なんだよ!それ、船酔いの薬?飲み薬じゃないの?なんで体に塗るの!?」
クラウンは、じっと可憐を見つめ、しばらく黙っていたが、やがて、ぼそぼそと説明を再開する。
「言っただろう。悪霊よけと、酔い止めの薬だと。事前に説明もせず舐めた非礼は、詫びよう。体に塗れば薬の匂いが悪霊を寄せつけなくなる。同時に、香りが船酔いをも抑えてくれる」
言われて、可憐はクンクンと薬を塗られた部分を嗅いでみる。
吸い込んだ第一印象はオレンジ、柑橘類に似ている。
オレンジがサイサンダラにあるかどうかは知らないが、果実を元に作っているのであれば口をつけても平気なのであろう。
さわやかな香りを嗅ぐうちに、心なしか気分の悪さも和らいだ気がした。
「それと、舐めた理由だが……舌で薄くのばさないと、量が足りない。悪霊は船を沈めるだけじゃない。船乗りに取り憑いて、悪さを働かせる事もある。迷信だと馬鹿にする者も多いが、海軍でも使われている有力な薬だ」
道理でミルやフォーリンが、お断りしたわけだ。
いくら可憐に好意を持っていたって、ペロペロするのはハードルが高すぎる。
というかクラウンは可憐をペロペロすることに、抵抗がなかったのであろうか。
可憐がクラウンを見つめると、彼は少し困ったような表情を浮かべて視線を外した。
「えぇと……クラウンは、その薬塗ったの?」
「あぁ」
「誰に塗ってもらったの?」
可憐は俄然好奇心が沸いてきて、スケベ心で尋ねてみる。
クラウンは、ますます視線を外して呟いた。
「……自分で」
「え?」
自分で自分をペロペロするとは器用な。
いや待って、それだと尻や背中が耳なし芳一状態になるんじゃあ?
といった可憐の心の疑問へ回答するかのように、クラウンが付け足した。
「塗れる範囲だけ、塗っておいた」
「他のみんなも塗ったのかなぁ」と可憐の妄想は、ますます他へ飛んでいく。
フォーリンとミルの舐めっこを想像しただけで、股間が熱く滾ってくる。
ジャッカーやアンナも、塗ったんだろうか。
全員のヌリヌリシーンを妄想すると、麗しくも美しい倒錯の世界ではないか。
「ちょ、ちょっと他のみんなの部屋も見てこよっかなぁ〜」
すっかり気持ちの悪さが吹き飛んで、元気になった可憐は立ち上がる。
勢いで扉を開いたら、ゴツンと景気の良い音が足下でする。
何にぶつけたのかと足下を見てみれば「いったぁ〜〜」と頭を抑えるアンナと目があった。
「何してんの?そんなところで蹲って」
首を傾げる可憐に「あ、ははは、なんでもないですぅ〜」と笑って誤魔化したアンナは、全く別の話題を振ってくる。
「それより、カレンさんにクラウンさん。昼食の準備が出来たそうですよ。一緒にいきましょう」
昼食と言っても、船の中。豪華な食事ではない。
魚肉の缶詰めに野菜少々。飲み物は果物の絞り汁と、質素なものであった。
「さて、船は無事に出せたわけだけど……」
ミルが腕を組んで考える素振りを見せる。
「問題は、ここからだ。霧をどうやって乗り越えよう」
「霧を吹き飛ばす魔法なんてのは」「ないよ」
可憐の質問を速攻で封じ込めると、ミルはクラマラスに尋ねた。
「君達が空を飛んで偵察してくるってのは、どうだ?」
「そんなん、撃ち落とされてお終いですわ」と、黒炎も即答だ。
「こっちからはイルミが何処やのか判らんのに、イルミはこっちが見えるんかいな」
ジャッカーも首をひねり、一同は考えに煮詰まった。
「クラマラスが霧越え出来ないんじゃ、ボクの召喚獣でも結果は同じだね。どうしよう、エリーヌ。君は何か名案ない?」
困ったミルは誰彼構わず問いかける。
しかし作戦参謀のミルに判らないのでは、一介の姫君にも判りようはずがない。
「霧を……吹き飛ばすんじゃなくて、迂回したら、どうかな?」とは可憐。
「迂回って?」
聞き返したミルに、可憐は答えた。
「だから、こう……大きく外回りに接近する、とか」
「距離を伸ばすと、今度は食糧難に陥る可能性大だね」
にっちもさっちもいかない。
「けど、ドラストは国に帰ったんだよな。どうやって帰ったんだろ?」
可憐の呟きに、誰もがハッとなる。
「可憐!そうだよ、イルミ人は霧越えの方法が」
ミルが何か言いかける側で、ミラーが恐る恐る手をあげた。
「あのぉ……霧越えの方法なら、昔、文献で読んだ記憶が……」
「ホントッ!?」
全員が食いついてきて、勢いにやや負けながらも彼女は頷いた。
「はい。四つの海域を制覇した海賊フロントの残した文献によると、彼は悪霊を、わざと呼び寄せて、悪霊のちからを借りて霧に紛れてイルミへ上陸したそうです」
悪霊を。
予想外にも斜め上の発言が飛び出たもんだから、ドラストが、どうやってイルミへ戻ったのかなんてのは、すっかり皆の頭から吹き飛んでしまった。
「えっ。じゃあ、あの薬、塗ったら駄目だったんじゃん」
「悪霊のちからを借りる?なんだか嫌な予感がするなぁ」
可憐とミルの言葉が重なり、二人は揃って顔を見合わせる。
「可憐、悪霊よけの薬なんて、いつの間に……あぁ、そうか。クラウンから貰ったんだね」
「うん。クラウンに塗って貰ったけど、悪霊を呼び寄せるんだったら洗い落とさないといけないね」
うっかり口を滑らせる可憐にミルは、あっと慌てたが、もう遅い。
「クラウンに!?」
ギンッ!と鋭い視線を飛ばしてきたエリーヌに、可憐はびくつきながら頷いた。
「う、うん。悪霊よけと酔い止めの薬だって言われて」
「ずるい……私が塗って欲しいとお願いした時には超拒絶しておいて、カレン様には自ら進んで塗りたくるなど……クラウンッ、どういうことなのです!クラウン!!」
エリーヌは血走った目で叫んだが、当のクラウンは、とっくに食堂を逃げ出しており、全ての怒りは残った可憐に叩きつけられた。
可憐にしてみれば、とんだとばっちりだ。
「カレン様は、どぅーしてクラウンに依怙贔屓されているのです!?」
「ど、どうしてって言われても」
「ずるいです!私もクラウンにベタベタされたいのにーッ」
「エリーヌ、エリーヌッ!今は、それどころじゃないだろ!?」
ミルが必死に止めても、恋する乙女の癇癪は止まらない。
「こうなったらクラウンの体から薬を洗い落とす役目は私が引き受けます!」
何をいきり立っているのか、憤然と肩を怒らせて食堂を出て行った。
「もう……可憐、エリーヌの前ではクラウン関連の話題は自重してよ」
ミルにも苦情を言われ、可憐はブゥッと頬を膨らませる。
後から怒られても納得がいかない。
こうなると判っていたんなら、最初から忠告してくれればいいのに。
なんとなく険悪なムードの中、アンナが口を開く。
「えぇと……エリーヌ姫はクラウンさんを、お好きなんですか?」
「そうだね。なんか、幼馴染みで初恋の王子様らしいよ」
適当に答えるミルを見て、新参者は何を思ったか、にっこり笑う。
「なるほど、なるほど。まさに姫君。では姫君の為に、悪霊を呼び出した際には趣向を凝らしてみましょうか」
「趣向?一体なにをするつもりなんだ。危ないのは駄目だぞ」
心配するミルやフォーリンをよそに、アンナは相棒を呼び寄せる。
「悪霊を呼び寄せたら、クラウンさんと姫に協力してもらお。それしか、あたし達が助かる道がない気がするし」
「え〜?でも、危険だよ?金蔵が、もし死んじゃったら……」
二人はボソボソ小声で内緒話をしていたが、やがて話がまとまったかして、アンナが再び、にっこりと全員へ笑いかけた。
「これから文献を紐解いて、悪霊を呼び寄せます。大丈夫。文献通りにやれば、あたし達は必ずイルミへ辿り着けるでしょう」
悪霊なんてものは、本当に存在するのか。
そしてアンナは何故、ああも自信満々なのか。
ミルやフォーリンの不安顔を見渡して、可憐も一抹の不安を覚えるのであった。