スラムにクヴェラの支部が建つ前――
ジャスパはナロンの手を借りずにスラムへやってきた。
ニアイースト発の観光船に乗って、表玄関の港から堂々と入ったのだ。
他都市からアジニアへ来る観光客は珍しくない。
大概が一般領を見て満足して帰っていくが、中にはスラムへ入りたがる物好きもいる。
観光案内所では自己責任を言い渡され、観光客も承知の上で入っていく。
だから最初は、ジャスパもそうした危険好きの観光客だと軍部には認識されていた。
クヴェラの先兵だと発覚したのは、ナロンが出現した時だ。
率先してスラム住民を操り、仲間を増やしていると知って、急遽対策本部が立てられた。
クヴェラが居着いてから、下水溝のゴミが減ったとする声がある。
実際、リサイクルできそうな廃棄物は明らかに減っていた。
下水にも毒物が多く含まれるようになって、スラム住民は嫌でもクヴェラに入信しなければならない状況に追い込まれる。
もしや軍部は、クヴェラ侵入を理由に住民もろとも始末するつもりか。
そうした噂が飛び交い、クヴェラへ尻尾を振った住民とクヴェラに反発する住民との間で溝が深まる。
同じ住民でも信用できない。
少しでも怪しい動きを見せる者は皆、スパイに見えてくる。
沙流も懐疑心の虜になった一人だ。
いや、物心つく頃には既に排他主義であったように思う。
古賀 九浪は、廃墟に入り込んで怪しげな装置をいじくる姿を何度も目撃した。
機械を組み立てられる者など、スラム産まれには一人もいない。
故に余所者だと判断し、火災を装って殺害した。
ジャスパが乗り込んでくるより五年も前の話だから、当時を知るクヴェラ幹部は一人もいないはずだ。
今、クヴェラの支部が建つ場所は、元々は沙流が親しき仲間と一緒に住んでいた溜まり場だった。
そこへジャスパがやってきて、血気盛んな仲間たちは全員、彼に叩きのめされて土地を奪われた。
居場所を奪われたのは、もちろん悔しい。
だが同時に、自分では勝てない相手だとも沙流には判ってしまった。
故に尻尾を振って傘下に収まったわけだが、このままで終わるつもりはない。
こうなったら何が何でもギア適合者を味方につけて、アスラーダ軍を倒す。
クヴェラの狙いがアスラーダ軍にあるのは明白だ、直接乗り込んできた点を踏まえても。
ナサーシャの配下に収まった沙流は仲間と共に使える兵士を演じながら、残り三人の幹部についても調べた。
人間なら誰しも必ず、一つ二つは大切なものや苦手とするものがある。
そうした情報を徹底して、仲間に集めさせた――
市街地でユニオンとやり合って以降、クヴェラは動きを潜める。
行動自粛を命じたのはアイグランだ。ナロンでさえも、命令に逆らわず大人しくしている。
それはいいのだが、一般領での騒ぎ後、スラムを粛清しにくるかと予想された軍は未だに姿を現さない。
『やっぱり貴族領へ侵入すべきじゃないかしら。彼らがギアを大量生産できるのかどうか調べないことには、あなた達を派遣した意味もないわ』
ニアイーストにある本部との通信で、アイグランは密かに舌打ちする。
簡単に言ってくれるが、貴族領はナロンの超能力を持ってしても入り込めなかった。
本人曰く、一定の音波が領内全域に渡って放たれており、それを聴くと上手く能力を発揮できないらしい。
そもそもナロンの超能力とは、どういった原理で発動できるのか。
これもまた、本人の弁を借りるなら、強く念じるのだそうだ。
その意識集中を妨害するのが、先の音波だと言う。一般領とスラム領にはなかった防壁だ。
つまり、これ以上は向こうが仕掛けてくれないことには動けない。
「動かないのではなく動けない。現状三機しか持ち得ない……のではありませんか?」
ジャスパの推測にも本部のリーダーは思案するそぶりを見せ、すぐに却下した。
『よその都市に多くの諜報員を放ち、世間一般に知られる能力ではないサイオニック対策まで施している組織が、たったの三機しか作れていないなんて思えないわ』
「大量生産していても適合者が見つかっていない、とも考えられます」
ハァ、と溜息をついてリーダーが持論で畳み込んでくる。
『あのね、使えるかどうかは現時点では問題じゃないの。生産しているか否かを調べるのが、あなた達の役目よ』
「けど、ナロンの能力でも入れないんだよ?どうやって調べろってのさ」
不機嫌に尋ねるナサーシャへ、己の頭を突いてリーダーは締めくくった。
『たまには自分の頭脳を使ってごらんなさい。入り込めないなら、出てきたやつを捕まえて尋問するのよ。今頃、あなた達の配下にもアスラーダの諜報員が紛れ込んでいるはずだわ。彼らを捕らえて吐かせるのよ、貴族領への入り方をね』
通信を終えた途端、ナサーシャが悪態をつく。
「なーにが頭を使え、だよ!あの小娘、自分は動かないくせに命令ヅラだけは一丁前だねぇ」
「仕方ありますまい。一年かかって得たのが一、二回の交戦程度では」
静かに異を唱えるジャスパにも獰猛な目を向け、「文句なら全部ナロンに言ってもらいたいね!あいつが気まぐれなせいで振り回されてんだ、こちとら」とナサーシャは鼻息が荒い。
だが、彼女の言い分も判らないではない。
ナロンの行動は軍を誘き出すというよりも、気まぐれでの破壊だ。
粗暴な連中を引き連れての略奪行為は、たった一年でクヴェラは悪い組織だという認識を一般領に広めた。
何も市街で暴れる必要などなかった。ただ、単に仲間を増やすだけでよかったのだ。
あとは乗り込んできた諜報員を、マリアが言うようにひっ捕らえて尋問すればいい。
マリア=ラ=フィアー……
クヴェラ本部を率いるリーダーにしてクヴェラの創立者、アクセル=ラ=フィアーの実娘でもある。
アイグランにも彼女たちが何故、ナロンを支部のリーダーに押し上げたのかは理解できずにいる。
どれだけサイキック能力が優秀であろうと、ナロンはまだ十三歳の子どもだ。
子供らしい無邪気さを持つ反面、言葉の端々に、こちらを見下している節があり、扱いづらい相手だ。
今この場にナロンはいない。
リーダーたるものが会議をサボるようでは部下に示しがつかない。
クライヴも不在だが、彼はサボリの常習犯なので誰も気にしていない。
あまり、マリアをクライヴと引き合わせたくもなかった。
奴の持つギアは出所不明の代物だ。そのことも彼女には報告していない。
まずは、こちらで機能を完全に解析した後で良かろうとアイグランは考えている。
ナロン以上に気まぐれで扱いづらかろうと、奴も一応戦力の一人だ。
下手に興味を持たれて、本部へ連れてこいと言われるのは困る。
「それよりも、諜報員の燻り出しですか。それらしき人物になら、多少の当たりはついていますが」
本題へ戻すジャスパへ意地の悪い視線を向けて、ナサーシャが問う。
「へぇ、あんたの予想とあたしの予想は案外かぶっていそうだねぇ。けど、あいつには厄介な奴が張り付いているんだけど、それについての対策も考えているのかい?」
アイグランが「誰の話だ?」と尋ねてくるのへは「あなたの配下にいる、勝田 達朗です」と見当をつけた名前をあげて、ジャスパも挑戦的な目でナサーシャへ応える。
「あなたの配下にいましたね、扇動の得意な方が。彼にお任せしてよいですか?」
「待ってくれ。達朗が怪しいとして、お前らは何故そう思ったんだ?」
アイグランを心底侮蔑の眼差しで見つめながら、ナサーシャは肩をすくめた。
「誰もいない部屋で外部の人間と通信を取り合っていたって、あたしの部下が言ってたのさ」
「私の配下も、彼が空き家で探し物をする姿を目撃しております。スラムの住民であれば、この辺りの廃屋にめぼしい物は何も残っていないと知っているはずでは?」とはジャスパの証言で、達朗は何人もの兵士の前で挙動不審な動きをしていたようだ。
達朗の顔を思い浮かべて、あれがスパイ?アイグランは何度も首をひねる。
好奇心旺盛で何でもかんでも聞きたがりな割に臆病で、川口親子の護衛を任せた時は戦わず見物に徹していた。
安全地帯から情報収集を行っていた――そう取れなくもないが、弱虫なだけではないかと思う。
彼に張り付いているのは、クライヴで間違いない。
アイグも、二人が親しげに話すのを目撃している。
怪しいと言われたら、身勝手な行動を取りまくり、己の装着するギアにも無言を貫き通すクライヴのほうが、よっぽど怪しい。
だが、少なくともアスラーダのスパイじゃない。
彼がスラム二世だと知る住民は意外と多い。
スラム二世が軍に肩入れするメリットもない。
ここの住民は長らく最下層の吹き溜まり扱いを受けているのだから。
「とりあえず、もうちょい証拠を沙流に集めさせてからだね、とっつかまえんのは」
「沙流に?しかし、達朗へ手を出すのは危険だぞ。クライヴが何をやらかすか判ったものではない」
アイグの杞憂を遮り、ナサーシャは薄く笑う。
「余計な心配ってもんだよ。あいつは必死だからね、クライヴにゃ判らないよう上手くやってくれるさ」
「必死?」との疑問にはジャスパが淡々と答えた。
「彼は我々がスラム住民の英雄になってくれると信じて疑っておりません。せいぜい利用させて貰いましょう」
沙流の献身的な活躍はアイグランの耳にも届いていたが、そんな下心があるとまでは想定外だった。
たった四人で軍を倒しに来たと思われたのなら、えらい過大評価だ。
アスラーダを潰すかどうかは、世界に脅威を与える存在か否かをはっきりさせてからだ。
大した脅威にならないのであれば見逃す方針が本部で出たのだが、それでいいとする声と危険要素は今のうちに潰しておくべきだといった声で、意見は真っ二つに分かれている。
アイグランとしては、脅威にならないのなら放っといて大丈夫だろうという穏健派だ。
ジャスパやナサーシャは恐らく後者だろう。
支部生活、及び本部での活動を通して、二人の性格は嫌と言うほど把握したつもりだ。
廃墟でクライヴと話してから、数日は何事もなく日が過ぎていった。
あれから達朗は沙流をつかまえて他愛ない雑談をする程度には、交流を深めていた。
といっても上辺だけの薄っぺらい社交辞令交流だ。
沙流の物腰は穏やかなれど、常に貼り付けた笑顔で笑う。
どんな話題でも大体、似たような反応しかしない。
まるで軍部にあった給与引き落とし機のAIと話しているかのような気分に陥る。
その点、クライヴは違う。
話題に興味がない時は、はっきり「つまんねぇ」と言ってくるし、ツボに入った時は大爆笑したりもする。
人間との会話って、こういうもんだよなぁと達朗は思い、やはり彼の言う通り沙流には疑われているのだと確信した。
クライヴといると学生時代に戻ったかのような平穏さえ感じる。
唯一の欠点は、市街に出た時にはサッパリ消えていたはずの悪臭が復活した点であった。
何故、風呂に入らないのか――
知り合ってから何度も繰り返された質問に、彼は必ず「面倒だから」と答え、こうも付け足すのだ。
「お前が一緒に入ってくれるなら……入ってやってもいい」と。
最初の頃は冗談で言っているんだと解釈していたが、今は違うと断言できる。
クライヴは本気だ。古賀を失った孤独を達朗で埋めようとしている。
最近は距離まで近くなって、達朗のすぐ横に座り込んでくるもんだから、鼻で息をしないぐらいしか対策のしようがない。
話す内容は他愛のないものばかりだ。
今日の食堂は何が美味しかっただの、裏庭で綺麗な花を見つけただのといった。
達朗としては、あの時の会話の続き――古賀に関する詳しい情報を聞き出したいのだが、あれ以来、二人っきりになれるチャンスが一度もない。
常に誰かの配下兵士が、自分を見張っていることに気づいた。
スパイ疑惑をかけているのは、沙流だけではなくなっているのかもしれない。
早く逃げ出さなきゃといった焦りと、もう少し情報を集めておきたい欲が達朗の脳裏を交差する。
あれから何度も観月を探したが、黒づくめなんて目立つ格好の奴は一人もいない。
達朗に用があれば自ら接触してくるだろうし、来ないってのは用がないってことだ。
「達朗」
ぼんやり考えていたら、真正面からクライヴには顔を覗き込まれて、ついでに悪臭も目一杯吸い込んでしまい、達朗はウッと顔をしかめる。
そんな反応には一切構わず、クライヴはボソッと吐き捨てる。
「やっぱ、こんな話にゃ興味ないか」
「え?」
己の考え事に没頭していた為、全く聞いていなかった。
どこか寂しげなクライヴを目に入れた瞬間、達朗は慌てて聞き直した。
「え、っと。悪い、全然聞いてなかった」
「なんだよ」と一旦は落胆を滲ませつつも、クライヴは機嫌を直したのか言い直してくる。
「……風呂より気持ちいい水浴びの場所を見つけたんだ。よかったら、一緒に行かねぇか」
「えっ?」
耳がどうかしてしまったのかと思った。
面倒を理由に風呂を嫌がるクライヴが、水浴びスポットを見つけた上に誘ってもくるなんて。
「そんな驚かなくてもいいだろ」
「え、だって風呂は嫌いなんじゃなかったっけ?」
「風呂は、な」
さりげなさを装って、クライヴが達朗の耳元で囁いてくる。
「興味ねぇやつに見られながら入るなんてのは、俺の趣味じゃねぇ」
「え?」
言われたことが、すぐには理解できず達朗はキョトンとなったものの。
次第に意味が判り、ぞわぁっと鳥肌が立った。
風呂にまで監視がついていたなんて、今まで全然気づかなかった。
クライヴと内密でかわす話は、衝撃の事実ばかりだ。
「で、行くのか?行かねぇのか」
それにしても、なんで突然水浴びに誘ってきたのだろう。
相手の意図がわからず、それでも達朗は素直に頷いた。
「行こっか」
或いは意図なんて特にないのかもしれない。彼は、クライヴは気まぐれな奴だから。
-つづく-