絶対天使と死神の話

定められし天命編 10.書き換わった未来


翌日。
いつもより一時間も早くに目覚めたジャンギが最初に思いついたのは、昔の習慣を取り戻そう――であった。
現役だった頃は、毎朝ジョギングしていた。
自宅を出発して大通りを抜けた後は、東区へ入って再び大通りまで戻ってくる長距離である。
引退後は、とんとご無沙汰になっていた。
あの頃よりも体力が落ちているかもしれない。
だが途中でへたばってみっともない事になろうとジャンギはやる気満々、両手で靴紐を結ぶと出発した。
早朝の人通りは少ない。
大通りの店も、まだ開く時間じゃない。
人っ子一人いない道で自分の息遣いだけがハッハッと聴こえる。
久しぶりに走ったにしては動悸が上がったりせず、いい出だしになったと彼は思った。
道を踏みつける足も規則正しく振られる両手も、現役だった頃そのままのリズムを刻んでいる。
いいぞ。このペースなら、ぐるっと街を一周したって登校前までに戻ってこられる。
知らず口元に笑みを浮かべるジャンギの姿が次第に遠ざかり――黒一色に身を包んだ男は、音もなく大通りを立ち去った。

「腕を取り戻したおかげで、自信も取り戻したか」
死神の住まう家にて、風の報告を受けた大五郎が独りごちる。
昨日、輝ける魂の能力で以てジャンギの腕を再生させた。
本当は腕を再生した後に延命も施す予定だったのだが、予想外の苦しみを彼が見せた為、その日は腕の再生のみに留まった。
あの苦しみようから考えると、当分はリハビリが必要なのでは?といった此方の予想を覆し、ジャンギは翌日の今日、早くも両手を使いこなしていた。
「腕を使いこなしているってんなら、こっちがやきもきする必要もなくなったってわけだ」と、神坐。
本来の目的は、まだ達成していない。
死神たちの狙いはジャンギの延命にあった。
まだ精神的に未熟な原田を支えてやれる大人、それも彼が信頼を置けるような人物が必要だと考えた。
街の英雄は後ろ盾とするにあたり、充分な人物だろう。
幸い、ジャンギのほうでも原田に特別な想いを寄せているようだし。
それだけに、一年足らずでポックリ逝っては困るのである。
一ヶ月の修行で原田は延命の術をもマスターした。
あとはジャンギ自身が同意すれば、いつでもかけられる。
「しかし、問題が一つある」と腕を組んで大五郎が天井を見上げる。
瞳には不安が浮かんでおり、その理由を風が問いただすと、些か動揺した調子で返してきた。
「どこで術をかけるか、だ。腕の時のようにはいかんじゃろ」
「なんでだよ。原田んちじゃ問題あるってか?」
神坐の問いにも、不審者さながら落ち着かない顔で大五郎は答える。
「大ありだ。あの二人に見られたらと思うと、気が気がじゃないわい」
自分がやるんじゃなかろうに、やけに怖気づいているではないか。
しばし首を傾げた二人であったが、風が先に大五郎の杞憂を言い当てた。
「なるほど。原田の破滅を案じて、か。なら学校帰りに、此処でやればいい」
「水木と小島がついてくるかもしれんぞ?」との切り返しにも、風は無表情に言い返す。
「陸に足留めさせる」
まだ判っていない様子の神坐が「なぁ、二人は何を心配してんだ?」と尋ねてきたが、風はやはり淡々と答えたのみであった。
「あとは例の絶対天使が近づかないよう結界を張っておく。神坐、お前も手伝え」

いつも通りの学校生活に戻っても、原田の耳は教官の説明を右から左へ聞き流した。
今日はジャンギの延命を行う――
スクールに到着早々、神坐に耳打ちされた言葉が、いつまでもこびりついて離れない。
ジャンギの天命を変えるのは前からの約束で、するの自体に異存はない。
しかし修行風景を脳裏に思い浮かべて、原田は瞼を閉じる。
延命の術を会得した後で風に聞かされた注意事項だ。
彼は言っていた。
「確実に術をかけるには、接触での吹き込みが好ましい」と――
聞き返すまでもなく、ジャンギとキスしろ。そう言われているのだと解釈した。
キス自体は初めてじゃないから、やろうと思えばできるはずだ。
問題は小島と水木を如何に振り払うか。
昨日の今日で修行から帰ってきたばかり、二人は原田の行く場所へなら何処でもついてきたがった。
小島なんかはトイレにまで一緒に入ってこようとしたぐらいだ。
生半可な言い訳では振り切れまい。
だからといって本当の事、ジャンギとキスするなんて言ったら、二人が大騒ぎするのは目に見えている。
原田は瞼を閉じて腕を組む。
「おい、原田、原田。サフィアちゃん、こっち睨んでるぞ?」
腕をチョイチョイ突かれたって、今はそれどころじゃない。
二人を嫉妬させず、あとで吹聴されることなく事を穏便に済ませるには、一体どうすれば……
「った!?」
ガッ!と額に何かがぶち当たり、痛みに原田は目を開ける。
正面を見ると、サフィアが顔を真赤に怒っていた。
「も〜!なんべん言っても起きない子には、お・し・お・き、ですっ!」
何を投げつけられたのかと思えば、見るからに硬そうな小石が足元に落ちていた。
こんなものを躊躇なく生徒にぶつけてくる教官の常識を疑う。
そっと額に手を当ててみると、ぬるっとした感触があった。
「大丈夫?原田くん」と小声で囁いてきた水木が、両手を原田の額へ向けてくる。
途端に柔らかな光が原田を包み込み、傷の痛みが、さぁっと引いていった。
かすり傷でも心配してくれる彼女の優しさに感動しつつ、原田は教室を素早く見渡した。
授業中に怒られて、また皆にクスクス笑われるんじゃないかと危惧したのだ。
だが嘲笑は聴こえてこず、代わりに誰かが勢いよく立ち上がって叫んだ。
「ひどーい、体罰鬼教官!原田くんに、なんてことするの!?」
あれは誰だったか、同級生なれど会話を交わしたことが一度もない相手で名前を思い出せない。
ポカンとする原田及びサフィアの耳に、次々と非難の声が響き渡る。
「居眠りぐらい、なんなのよ!眠くなるような授業が悪いんじゃない!」
「今どき体罰って何時代のセンスなの?あ、サフィアちゃんはオバサンだから、センスが昔止まりなんだね」
騒いでいるのは大体が女子、仲良くした覚えのない子ばかりだ。
「サフィアちゃんなら、優しくチュッして起こしてくれるかと思ってたのに。幻滅だぜー」
「なー。いきなり石ぶつけるとか、ないわー。子供の喧嘩じゃあるまいし」
なんと、文句を言っているのは女子だけではない。
サフィアちゃんファンクラブの連中までもが、最前列で聞こえよがしにブーたれているではないか。
自分がいない間に何が起きたのであろうか、このクラスに。
驚く原田の一つ前の席で、ポツリとベネセが呟いた。
視線は、まっすぐサフィアへ向けたまま。
「気にするな。皆、輝ける魂にすり寄りたい一心で言っているだけだ。誰も本気でお前を心配していない」
クラス総勢のブーイングを受けて、サフィアは見るも哀れに狼狽えている。
「え〜?どうしてセンセイが怒られて……悪いのは原田くんなのにィ」との小声での愚痴も、女子の「あー、全然反省してない!最悪ー!来年はサフィアちゃんを教官にしないよう、町長に言っとかないと」といったヒステリックな罵倒にかき消される有様だ。
ほとんどの生徒が興奮していて、もはや座学を続けられる状態ではない。
居眠りと勘違いされて怒られた。それだけだったのに、えらい大事になってしまった。
「まぁ、石をぶつけるこたぁないよな。近づいて肩を揺すれば良かったんだ」
溜息を一つ漏らして、小島が小石を拾う。
「ほら、見ろよ。尖ってるじゃん。こんなのをぶつけるなんて相当イライラしてんだなぁ、サフィアちゃん」
「イライラ?」と聞き返す原田に、小島と水木が同時に頷く。
「お前の扱いをどうするかで悩んでんだろ。ずっと落ち着かない様子だったじゃんか、サフィアちゃん」
そうだったのか。
自身の悩みで頭がいっぱいだった原田には、全然気づけなかった。
「町長も悩んでいるってミストさんが言っていたよ。輝ける魂の登場で、自分の立ち位置が危うくなるんじゃないかと恐れているんだって」とは水木経由の噂話で、そんなのは杞憂だと町長に言ってやりたい。
輝ける魂として覚醒したって、原田は原田だ。
アーシスの一住民であり、スクールの生徒であり、見習い自由騎士の一人でしかない。
町長の座を奪い取って贅沢三昧したいとは思わないし、自分の隣には水木と小島がいれば充分だ。
……いや、できればジャンギと神坐も居てくれると嬉しいのだけれど。
ジャンギの顔を思い浮かべた途端、延命の術をも思い出し、原田はポッと頬を赤らめる。
今日の放課後、死神の家でジャンギの延命を執り行う。
ちらっと小島、それから水木の横顔を盗み見て、どう説明するかに原田の思考は戻っていった。


午後の実技も原田は上の空で過ごし、今か今かと放課後を待ちわびた。
「原田、帰ろうぜ!」と小島に促されて教室を一歩出た途端、後ろから呼び止められる。
「すみません、小島くん、水木さん。あなた方お二人に、お話があります」
陸だ。話とは何なのかと問い返す小島に、ここでは話せないと小声になり、踵を返した。
「詳しくは怪物舎で話します。原田くん、すみませんが、お二人を借りていきます」
原田に言えない内密の話とは何だろう?
小島と水木の興味は一気に惹きつけられたかして、「そんじゃ、ちょっと行ってくる」の一言を残して二人は陸の背中を追いかけていき、一人残った原田の側へは間髪入れずに神坐が駆け寄ってきた。
「ちっと強引だったが、不審に思われなかったんなら上々だよな」
その一言で原田はピンとくる。
陸は水木と小島を引き止める役目を請け負ったのだ。
死神の家で待つことしばし、一時間後にはジャンギが風に連れられてやってくる。
陸の姿を見つけた原田が「水木と小島は?」と尋ねるのには、陸ではなく風が答えた。
「家へ帰した。原田は俺達の家で修行のおさらいをしていると伝えてある」
二人を足留めする際に何を伝えたのかも教えてくれた。
近い未来、原田は輝ける魂の能力を使って世界に溜まりまくった魔力を浄化しなければならない。
浄化の際には絶対天使にも協力を仰ぐが、原田の身を守れるのは、やはり幼馴染であり恋人であり大切な仲間でもある二人の役目だ。
水木の魔術練習と小島の剣術特訓、この二つを死神監修で見てやる約束を取り付けた。
二人とも張り切って帰っていたと風は話を締めて、ジャンギを原田のほうへ押しやった。
「我々は奥の部屋で待機している。原田、ジャンギに延命を施せ」
死神たちは出ていき、リビングは原田とジャンギの二人だけになった。
原田を促してソファーへ腰掛けると、ジャンギは笑顔で向き直る。
「まさか、本当に天命を変えてくれるなんてね。夢を見ているみたいだ」
「は、い、いえ、その……約束、しましたから……」
ジャンギと見つめ合いながら、二人きりなのだと原田は考えた。
一度そう意識してしまうと、否応なしに全身がかぁっと熱くなってゆく。
「かなうはずのない約束だった。でも君は今日、俺との約束をかなえてくれるんだね」
「は……はい……」
ジャンギの瞳が潤んでいるように見えるのは、原田の気のせいではあるまい。
英雄は、確かに涙ぐんでいた。
そっと目元に浮かんだ涙を拭って、ジャンギが自嘲する。
「……嫌だな、歳をとると涙もろくなってしまって。それで天命を書き換える術というのは、どういう原理の魔法なのかな」
「あ、えぇっと……」
原理と言われても、原田には説明のしようがない。
魔法とは想像であり創造だといった、曖昧な説明しか受けていないせいだ。
原田の困惑は、すぐに伝わったのか、ジャンギは前言撤回した。
「いや、原理なんか何だっていい。君と一日でも長く一緒に生きられるのなら」
「は、はい。では、その」とカチコチに緊張しまくりながら、原田はジャンギの肩へ手を伸ばす。
ぐっと身を乗り出してきた原田へジャンギが「ん?どうしたんだ、原田くん。そろそろ術を――」と言いかけるのにも、お構いなく、原田は脳裏に生まれたての赤ん坊を思い浮かべる。
この若い命を、ジャンギの寿命に継ぎ足すのだ。
命を口から吹き込むように、そっと口づけて――
実際には吸い付く形でブチュッと唇を塞いでしまったのだが、ジャンギが驚きに目を見張ったのも数秒で。
キスした時と同様のスピードで勢いよく離れた原田は、息を盛大に切らせて「お、終わりですっ!延命の術、かけ終わりました!!」と終わりを告げた。
かけ終わったと言われても、何がどう終わったのか判らず、ジャンギはキョトンとする。
回復魔法のように暖かな波動を感じたりもせず、単に不意打ちキスされただけとしか思えない。
しかし、原田は嘘をつく子ではない。
その彼が終わったというからには、術は成功したと考えてよい。
奥の部屋から出てきた風が、不意にボソッと話しかけてきた。
「安心しろ。見た目は変わらずとも、寿命は伸びている。一年経てば実感も沸くだろう」
「一年?」と聞き咎める原田には何の説明も返ってこず、死神たちは互いに満足の表情で頷きあうと、二人に帰宅を促した。
22/10/06 UP

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