白き翼編
――気がつくと、二人揃って見知らぬ部屋に放り込まれていた。壁紙に色もない真っ白な部屋に、葵野と二人っきりで。
一通り見渡した後、司は自分がとても小さくなっていることに気づく。
しかし鏡を見て驚いたのは、そればかりではない。
女の子になってしまっていたのだ!
「ふふっ。女の子になった司も可愛いね」
背後から葵野に抱きつかれ、司は慌てて振りほどく。
「なっ、何をするんですか、いきなり!」
彼のことは嫌いではないが、葵野には坂井という恋人がいる。
いくら坂井の目が届かぬ場所にいるとはいえ、不倫など許される行為ではない。
葵野は悪びれるでもなく、謎の微笑を浮かべて司を見た。
「ひどいなぁ。振りほどくなんて、有希の事、もう嫌いになっちゃった?」
突然飛び出した旧友の名に、司はキョトンとなった。
葵野力也の体には、死した有希が取り憑いているのでは――?
以前、そんなことを該達と話し合った覚えがある。
力也が真に十二真獣なのかどうかが、非常に疑わしくなった頃だった。
なにしろ自分で自分の力を使いこなせないMSなど、前代未聞もいいところだ。
過去に奇病として発生したばかりの頃なら、ともかく。
自分の意志で変身できないMSなど、この時代には居ないと言ってもよい。
坂井と二人で傭兵をやっていたという話だが、坂井が傭兵をやっていたのだろう。
葵野はオマケだ。
そのオマケを、語り部の末裔アリアは十二真獣だと断言した。
そして重傷を負った力也は、驚くべき回復力で復活した。
しかし龍の力は、他人を治すもの。自らの傷を癒すものではない。
アリアが誤診したのは、力也に有希の霊が作用しているせいでは――という結論に達した。
目を丸くした司を、もう一度抱きしめて葵野が囁く。
「私だよ、有希。もちろん、忘れていないよね?」
「……え?えっ??」
耳元に息がかかり、くすぐったさに司は身をよじる。
「ゆ、有希のことは覚えていますが、しかし君は力也くんでしょう?」
司をしっかり抱きかかえたまま、葵野が頷いた。
「本来はね。でも、今この体を使っている心は有希だよ」
「ほ……本当に?」
有希の霊体が乗り移っているというのは、あくまでも仮説で、本当だったとしても有希の意識までもが存在するとは思っていなかった。
背後で葵野が頷く。
「本当だってば」
「も、もし本当の有希なら、僕の好きな食べ物が何かぐらい知っていますよね?」
ふぅ、と溜息をついて葵野は肩をすくめる。
「もう、ホントに疑り深いなぁ。司の好きな食べ物?レモンの汁がちょっぴりかかったローストピッグ、これでいい?」
「有希!本当に有希だ!!」
司が葵野に飛びついた。
「有希、有希ねぇ、会いたかった……!」
がむしゃらにしがみついてくる司の頭を、葵野――いや、有希が優しく撫でる。
「私もだよ。できれば生きているうちに会いたかったけど」
「僕、僕もだよ。もう一度会って、謝りたかった……」
最後に喧嘩別れして、それっきり。
生きている有希と再会する機会など、なかった。
有希が中央国にいるのは知っていたが、会いに行く暇がなかった。
その頃の司は西の首都を安定させる手伝いをしており、遠出すら許されない立場にあった。
「そういえば……私たちが喧嘩したのって、あれが最初で最後だったよね」
遠い目で有希が呟く。
「司ってば、本気で噛みついてくるんだもん。すっごく痛かったよ?」
「ご、ごめん……」
でも、と司は顔をあげて有希を見つめる。
「有希ねぇの攻撃だって、半端なく痛かったよ。有希ねぇに殴られたのだって初めてだったし……」
見上げた双眸に涙が浮かんでいるのを見て取り、有希はクスリと苦笑した。
「ごめんごめん、責めるつもりじゃなかったの。強くなったね、って褒めたんだよ」
前大戦――
MSの人権を守るという名目で始めた戦争。
のちに白き翼と呼ばれるMSの若者を中心として、MS対人間の構図を作り上げた。
MSの多くは司の意志に呼応したが、全てのMSが一丸となったわけではない。
中には人間側に荷担する者もいた。彼らは奴隷や道具の立場に甘んじ、改革を否定した。
そうした者達を、切り捨てるか否か。
そしてMSに味方する人間への対応も、若きリーダーの司を悩ませる一因だった。
やがて有希と司は、考えの対立から袂を分かつ事になる。
大事の為に小事を切り捨てた司に、有希はついていけなかったのだ。
有希は最初から最後まで『弱き者を守る』という、研究所の教えを守り通した。
本当の正義とは、有希のような態度を指すのかもしれない。
リーダーには、有希がなればよかった。
司は今でも、そう思っている。
「有希ねぇ、どうして死んじゃったの?どうして僕に助けを求めてくれなかったの……?僕は、有希ねぇが呼んでくれれば、絶対助けに行ったのに!」
東の首都がB.O.Sなる組織に攻撃を受けていると知ったのは、かなり後になってからの話である。
あの時に知っていれば、たとえ西の王に止められたとしても、司は助けに向かったはずだ。
「言えないよ。だって喧嘩してたもん」
有希はポツリと答え、司の顔を両手で挟み込む。
「それに、私のほうは司が何処にいるか知らなかったし。司こそ、なんでサンクリストシュアにいるよって教えてくれなかったの?」
「そ、そっか……」
司はシュンとなり、上目遣いに有希を見た。
「もし教えてたら……会いに来てくれた?」
有希の挑戦的な目が、司を見つめ返す。
「さぁ……どうかなぁ?謝ろうかどうしようか悩んで、結局行かなかったかも」
「な、何それ!」
司はぷぅっとふくれるが、不意に有希の顔が近づいてきたので、慌てて両手で突っぱねた。
「だめ!」
ぐぐいと両手で顔面を押された格好のまま、有希も尋ね返す。
「何が駄目なの?」
「だ、だって有希ねぇ、キスしようとしてるでしょ。そんなの、駄目」
キスという単語を出しただけでも、司は真っ赤に頬を染めて俯いてしまう。
弾かれたように、有希が笑い出した。
「何がおかしいんだよぅ」
ムッとする司へ、笑いすぎて涙目になりながら有希は答えた。
「ご、ごめん、アハ、司って、そういう処は研究所にいた頃と変わらないんだなぁって思って!そういうトコだけは、相変わらずオコチャマなんだー?」
ほっぺをツンツンされ、ますます司はふくれっ面になる。
「ミスティルですら、大戦の途中で童貞捨てたっていうのにねー。それに美羽と該の関係、司だって知っていたんでしょう?」
知っている。
彼らだけじゃない。
十二真獣の殆どが、誰かと誰かでくっついていた。
もっと具体的に言うなら深い関係、すなわち肉体関係を結んでいた。
「ミスティルはミスティル、僕は僕だよ」
すっかりふてくされ、後ろを向いてしまった司が小さく付け足した。
「有希ねぇのことは好きだけど……僕は、そういう関係になりたかったわけじゃない」
「じゃあ、どういう関係が望みだったの?」
有希の口の端が意地悪く歪む。
「姉弟みたいな関係?ずっと弟扱いされるのが満足だったってわけ?」
コクリと素直に頷き、司が振り向く。目には憂いが浮かんでいた。
「有希ねぇは……どう思っていたの?僕のこと」
「好きだよ。大好き」
有希は即答し、司を膝の上に抱え上げる。
再び頭を撫でてやると、司は嬉しそうに微笑み、ぎゅっと抱きついてきた。
恋人のハグではない。弟が大好きな姉に甘える仕草と似ている。
「……でも司と私の『好き』は、ちょっと違ったみたいだね」
言葉の端に寂しげなイントネーションを感じ、おや、と思った司が見上げると、有希は二、三度、キョロキョロと周囲を見渡してから「うわぁ!」と叫んで立ち上がった。
おかげで司は放り出され、ごちんと勢いよく頭をぶつけてしまったが、それどころじゃない。
「あ、あわわ、わわわ、だ、誰君!つ、司?司なの?ヒャーー」
目の前で情けなく叫んでいるのは、もはや有希ではない。
力也に戻った葵野だ。
「か、か、かわいいぃぃ〜〜!」
なにやら奇声を上げて突進してくる葵野から咄嗟に身をかわすと、司は机の上に避難する。
「り、力也くん?今は力也くんなんですよね?とりあえず落ち着いて」
「逃げないでよ〜、もぉー!」
ドンッと体当たりされたショックでバランスを崩し、司は葵野の腕の中に墜落した。
直後ブッチュブチュとキスの嵐が、頬や額と、処構わずお見舞いされる。
「んもぉ〜、食べちゃいたい!可愛いなぁ〜」
生ぬるい唇の感触と気持ち悪い奇声のコンボで、司は全身総毛だってしまった。
「や、やめてください!やめてってば!離してッ!!」
エイッと振り上げた足が偶然、葵野の股間を直撃して、何とか抜け出すことに成功する。
股間を押さえてブクブクと海岸のカニが如く泡を吹き出す葵野を、遠目から見守った。
さよならも言わずに有希が突然消えるなんて。
やっぱり、キスを拒否してしまったのがマズかったのか?
でも、僕は……
相手が有希ねぇじゃなくても、誰が相手だったとしても、皆みたいな愛情表現はお断りだ。
ただ、一緒にいられるだけでいい。
それ以上は望まない。
それだけなのに……
不意に葵野の泡ブクブクが止まったので、司は身構える。
また突進してくるようなら、今度はキンタマを握りつぶして気絶させてやらないと。
物騒なことを考えていると、葵野がむくりと起き上がり、苦笑を浮かべて司を見つめた。
「力也でも、つかまえられないかぁ。ま、しょうがないか。この子、虚弱だもんね」
「ゆっ、有希ねぇ!?」
机の上で身構えたまま、司はビックリして穴の空くほど葵野を見つめ返す。
もしかして、さっきの葵野の狂乱っぷりも、実は有希が動かしていたというのか?
「ねぇ司。司は、この子……力也のこと、嫌い?」
有希に問われ、司は首を振る。
「嫌いじゃないよ」
「なら」と言いかける彼女を遮り、強い声でハッキリと断った。
「嫌いじゃない。でも、彼にはもう恋人がいるから」
「奪っちゃいなよ」
有希は、あっけらかんと言う。
「達吉には、リッコちゃんのほうがお似合いだよ」
リッコちゃんというのが誰なのかは知らないが、そういう問題ではない。
葵野と坂井は相思相愛なのだ。
愛する二人を引き裂くなど、やっていい行為ではなかろう。
それに葵野が司をどう思っているか判らない以上、迂闊に手を出すわけにもいかない。
司の思いを読んだのか「この子ね、司のことは、まんざらでもないみたいだよ」と有希が言う。
「うぅん、まんざらでもないばかりか、結構好きみたい。どう?司が嫌じゃなかったら力也とつきあってくれると、私としても嬉しいんだけどな」
初対面の時、あれだけ罵倒を浴びせたというのに、力也は司を好いているらしい。
該と同じように、力也も誰かに虐げられるのが好きなんだろうか。
だが誰かを虐げる愛は、司の好みではない。
坂井や美羽は、好きなのかもしれないが。
もう一度、はっきりと司は告げた。
「ゴメン。力也くんのことは嫌いじゃないけど、好きでもないんだ」
しばし間を開けて、気抜けしたように「……そっか」と小さく有希が呟く。
「そうだよね。司が好きなのは、私みたいに気の強い子だもんね?」
「違うよ」
二度目の問いにも首を振り、司は答えを正した。
「有希ねぇみたいに、まっすぐで優しい人が好きなんだ。だから僕は、ずっと有希ねぇだけを好きでいたい」
「私が死んでいても?」
「うん」
間髪入れず頷いた司を、哀れむように眺めていた有希が不意にポンと手を打つ。
「……まぁ、時が来れば、それはそれでアリか……」
彼女の呟きは司の理解が及ぶものではなかったが、有希は一人で納得したようだった。
「じゃあ、その時が来るまで、ずっとその調子で純潔をつらぬいていてね」
「その時って?」
彼女の言葉の意味が判らず、司は怪訝に問い返したのだが、有希の答えはなく。
零時の鐘が鳴ると同時に、再び葵野力也の悲鳴が部屋中に木霊したのだった……