怨冥道士

第一話 昼下がりのデパートで

ここ連日、うだるような暑さが続いている。
風村は真上のお天道様を疎ましげに見上げると、歩き出した。
今日の講義には何としても出ておきたい。
だが歩いて大学まで辿り着くのが面倒くさい。
家と大学が隣同士に建っていりゃ、風村だって文句ないのだ。
ああ面倒くさい。
面倒くさい。
さぼってしまおうか――
ふと、そんな考えに至った。
そうなると、その後の行動は早かった。
彼の足は大学とは反対方向に向かっていた。
最近、涼めるお気に入りの場所を知ったのだ。
家は駄目だ、親がいるから。

風村がついたのは、デパートの最上階だった。
ゲームやおもちゃを売っているコーナーの一角だ。
夏休みで子供達が一日中デモゲームに張り付いている事を除けば、冷房はガンガンに効いているし、ソファーで眠ることもできるので、もしかしたら家でごろごろしているよりも快適かもしれなかった。
しかも近くには自動販売機が置かれているから、水分補給もばっちりだ。
腹が減ったなら、エレベーター付近にある飯屋に入ればよかった。
ソファーに寝ころんだ時、不意に今日の講義を思い出した。
種山さんが調べておいてくれと頼んできた内容だったので、どうしても受けなければと昨夜決意を固めたばかりだったのに、さぼってしまった自分のことが我ながらイヤになってしまう。
しかし、まぁ、もうさぼってしまったものはしょうがない。
風村は自分で自分をなだめると、本格的に眠りについた。

「………………あぐ…………んん……」
「へっへ、兄ちゃんうまいのぅ」
「今度はワシの分も含んで貰おうかのぅ」
ぼそぼそと話す声が聞こえる。
浅い眠りに入りかけていた風村は、その声で目が覚めてしまった。
意識が戻ってくると同時に、子供達の騒ぎ声や周囲の音までが、いやにはっきりと聞こえてきた。
せっかく眠れるかと思ったのに……誰だ?うるさいな。
風村は、ここがデパートだということを棚に上げてむっとした。
子供達が、おもちゃ売り場で騒ぐのは仕方ない。
だって、おもちゃは子供の領分なのだから。
しかし今聞こえてきた声は、どう考えても子供じゃなかった。
大人の、それもえらく品のなさそうなオッサンの声だ。
声の発生源はどこだろう。
おもちゃ売り場からは少し外れている。
こっちはトイレの方角だ。
男性用の中から声が聞こえるみたいだ。
風村は、ふらふらと男性用トイレに入っていった。
別に声の主達に文句を言ってやろうというつもりなどない。
ただ、声の主二人に対する予想が当たっているかどうかを確かめに行った。
つまりは好奇心だ。
壁際からそっと覗き込んで、そして風村はぎょっとした。

少年がトイレの床に膝をついて座っている。
そしてその少年を前後から囲むようにオッサンが立っている。
一人は正面、そしてもう一人は少年の髪の毛を掴んで無理矢理顔をあげさせている。
風村がぎょっとしたのは、それだけではない。
少年が正面に立つオッサンの逸物を口に含んでいたからだ。
いや、正確には含まされていたというべきか。
正面に立っているオッサンが動くたびに少年は後方に仰け反りそうになり、そのつど後方に立つオッサンに頭をどつかれ、前に押し戻されている。
風村は、その異様な光景に凍りついてしまった。

――何をやっているんだ!?それも、デパートのトイレで!

凍りつく風村の耳に、どちらかのオッサンが発した声が届いてくる。
「……おぅ、もっと舌ァ使えや」
「………はぐ……」
「舌だっつってんだよ、歯じゃねェ…」
正面のオッサンが少年の頭を小突き、顔を己の股間に押しつける。
少年がくぐもった声を出した。
喉元近くまで達したに違いなかった。
風村は自分までが異物を突っ込まれた感覚に陥りオエッとなる。
これは……これは、きっとホモのいじめに違いない。
これまでの経過は判らないが、風村は直感でそう決断を下した。
その証拠に少年の顔を見よ。
口に異物を突っ込まれて、いかにも苦しそうな顔をしているではないか。
ここから見ているだけでも、オッサンのナニは匂い立ちそうな雰囲気だ。
あんな物を口に入れるだなんて気持ちが悪い。
いや、見てるだけでも気持ち悪くなってきた。
そっとその場を離れると、風村は近くの防火装置の前に立った。
おもむろにボタンのカバーを蹴っ飛ばす。
大音量のブザーが付近一帯に鳴り響いた。


「うぉっ なんじゃい!?」
驚いた調子の声が聞こえてくる。
こちらへ逃げてくるかもしれないと思った風村は、咄嗟におもちゃ売り場の方へ逃げた。
いくら少年を助けたいと思っても、二人のオッサンと渡り合う度胸はない。
そんな度胸があるのなら、初めから正々堂々と乗り込んでいる。
思った通り、二人のオッサンは慌てた様子でトイレから飛び出してきた。
辺りを落ち着きなく見渡すと、何事かを言い合って散開する。
――さて、そろそろいいか。
オッサン達の姿が完全に見えなくなったところで風村はトイレに戻った。
防火装置の近くで店員に呼び止められたが、そ知らぬふりで通り過ぎる。
心臓が、ばくばくした。
あの少年は、まだいるだろうか。
出口から逃げたふうには見えなかったから、まだいるかもしれない。
惚けているところを店員に捕まり、連れ去られている可能性もある。
風村は何気ないフリを装ってトイレに入った。

…………いた。

さっきと同じ体勢で、惚けて座っていた。
自分が助かったことにすら気づいていないのかもしれない。
風村は少年を間近に、じろじろと観察した。
歳は――十五から六の間だろうか。
恐らくは中学生、大きくても高校生ぐらいだろう。
やけに細い腕を見せている。それがまた、やたらと色白だ。
同世代の女の子より白いのではないかと思われる。
首筋も白かった。
あまり外では遊ばない子なのかもな、と風村は考えた。
少年と目が合ったところでようやく声をかけてみた。
「大丈夫?」
視点定まらぬ顔で風村を見ていた少年が口を開く。
「あの……二人は?」
「ブザーが鳴ったら逃げていったよ……もう大丈夫」
「ブザーが……」
惚けた顔でトイレの出口を見ている。
防火装置のブザーは もう既に止まっていた。
風村は自分でも恩着せがましいなと思いつつも言ってみた。
「俺が押した。だから」
「あなたが……?」
「あぁ。あまりにも、その……見てられなかったんで」
惚けている少年を見ている内に、同意の元で行われていたのではという疑問が持ち上がる。
もし同意の上で行っていたのだとしたら、自分は余計な真似をしてしまったのではないだろうか。
風村がオロオロしているうちに、少年がまた口を開いた。
「……ということは、あなたは僕の恩人だ」
にっこりと微笑む。
「ありがとうごさいます」
その笑顔はあまりにも愛らしく、風村は思わずぼうっとなってしまった。
少女ではないのが残念だった。

エレベーターはデパートの一階に到着する。
ドアから出ても挙動不審に辺りを見渡す風村に、少年は苦笑しながら言う。
「……大丈夫ですよ、そんなに警戒しなくても」
「でも」
あのオッサン達が、まだいないとも限らない。
そう言いかける風村を制し、少年は静かに微笑むと自信がありそうに続けた。
「冥幻術をかけましたから」
「めい………げんじゅつ?」
「目くらましです。僕達の姿は彼らには見つけられません」
「そ、そうなのか。すごいんだね」
風村には冥幻術というのが何であるのか全く判らなかった。
だが少年自身が自信たっぷりに言い切るのだから、もしかしたら風村が知らないだけで、世間的にすごい技なのかもしれない。
だから、ひとまず風村は彼を褒めておいた。
同時に疑問も、わき起こる。
失礼ながら尋ねてみた。
「じゃあ、どうしてあの二人に会ったときは使わなかったの?」
目くらましで見つからないのなら、あんな目に遭わずとも済んだはずだ。
尋ねると少年は少し悲しそうな顔で答えた。
「だって……あんなことされるなんて思わなかったから……」
それもそうだ。
風村は重ねて尋ねた。
「あのおじさん達、知ってる人達なの?」
少年は首を振る。
「……いいえ。デパートまでの道を尋ねられて、それで。教えたら判りにくいと言われましたので、一緒について行ってあげたんです」
親切が仇になったというわけか。
なんにしても酷い話である。
風村は、お兄さん風を利かせて少年に忠告しておいた。
「そうか。今度から危ないおじさんには、ついてっちゃ駄目だよ」
「はい……でも、どうすれば危ないか、危なくないか見分けることができるんでしょう?」
「そりゃあ……」
風村は言い淀んだ。
さっきの二人組なんかはあからさまに怪しいオーラを纏っていたが、世の中は広いから、怪しくないくせに悪い奴だっているだろう。
その逆も然りだ。
咄嗟に口から出たのは、こんな言葉だった。
「そりゃあ、俺みたいな奴なら安心だよ。危なくない奴だろ、俺?」
言った後、自分でも寒いと感じ、風村の心の中に隙間風が吹き荒れる。
だが少年の反応は驚くことに、好印象だった。
嬉しそうに微笑むと、大きく頷く。
「そうですね。あなたみたいな人なら、僕も信用できると思います」
今さっき出会ったばかりなのに、そんなに信用されても困る。
風村はなんだか照れくさくなってきて、そろそろ彼と別れようと考えた。
「いやぁ、あっははは……そう。そ、それじゃ、そろそろこの辺で」
いきなり駆けだした風村を見て、少年が慌てて呼びかける。
思いのほか大きな声を出した。
「あ!待って、待って下さい!せめてお名前を――」
名乗るほどの者ではない。
とでも言おうかと思ったが、それはあまりにも寒いのでやめておいた。
風村は名乗りもせずに、その場を去った。
もっと格好いい助け方をすればよかったなと少し後悔しながら。


草間が恩人の名前も聞けず自分も名乗るのを忘れたと気づいたのは、自宅に辿り着いてからだった。
自宅に戻ってから、吐いた。
吐いても吐いても口に押し込まれた異物の感触は消えそうになかった。
あの人が助けてくれなかったらと思うとぞっとする。
出会って少しの間だけ話をしたけれど、草間には直感でわかっていた。
あの人は悪い人ではない、むしろ善い人であると。
ブザーというのはトイレの近くにあった防火装置の事だろう。
あの人がブザーを鳴らしてくれたおかげで、自分は助かったのだ。
感謝してもしたりない。
まぁ、恩人の名前は占いをすれば判るだろう。
前にも同じような目に遭った。
見知らぬ男達に押さえつけられて服を脱がされた。
股間に物を押しつけられ、あわやというところで第三者が人を呼んでくれた。
おかげで悲惨な目に遭わずに済んだ。
それにしても。
どうして僕ばかりが狙われるのだろう。
知らない人についていくのが悪いと言われるかもしれない。
だが、草間は見知らぬ人に冷たくできるほど心が強くなかった。

……もっと強い心が欲しい……

草間は しょんぼりしながら椅子に腰掛けると、引き出しから占術道具を取り出した。
あの人の事を考えていれば、少しは気が紛れるだろう。
草間は今日、自分を助けてくれた恩人の顔を頭に念じながら占いを始めた。


数日後。
風村は種山と出会い、彼の自宅に上がり込んでいた。
その時、不意に思い出したので聞いてみた。
「あの……種山さん。冥幻術ってご存じですか?」
種山 浩一は風村の先輩にあたる男で、ジャーナリストでもある。
もっとも最近の仕事ぶりを見る限りではジャーナリストというよりも、風俗専門の三流ライターといった方が正しいかもしれないが。
種山は吸っていたタバコをもみ消してから応える。
「冥幻術……?そうだな、前に俺がアルフに行った時の話、しただろ?」
「ア……ルフ?」
「ほら、例の宗教団体だよ」
ああ、と風村も相づちをうつ。
アルフとは東京に本部を構える宗教団体だ。
種山はアルフ本部の教祖様と対談し、その記事で雑誌の売り上げを稼いだ。
その時の記事がTVのニュースで取り上げられたのは記憶に新しい。
確か名誉毀損騒ぎになって、教団側が裁判を起こしたはずだ。
裁判は雑誌社側の敗訴となり、売り上げも賠償金で消えたという話だ。
「それで、アルフが何か?」
尋ねる風村を一瞥し、種山はもう一本タバコをつけた。
「日本にゃ古くから数多の宗派がある」
「えぇ、それはまぁ」
言われるまでもなく知っている。
日本に住んでいれば、誰でも知っているはずじゃないのか。
と、言いかける風村を制して話を続けた。
「そのうちの一つが、その冥幻術と深い関わりがあるらしい」
「え?ということは種山さん、種山さんは冥幻術を前からご存じだったんですか?」
驚く風村を得意げに見やると種山は深く頷いた。
「ああ。アルフに突撃する前にな、宗教の事は色々と調べたんだ。アルフの宗派は知ってるな?…そう、密教だ。冥幻術ってなー、密教から枝分かれした宗派の一つなんだよ」
「へぇー」
アルフの宗派すら忘れていた風村は素直に感心する。
種山の仕事に対する熱心さ、その意外さに感心したのだ。
種山も真面目に仕事をすれば、風俗記事なんぞ書かなくても済むだろうに。
「驚いたことにはアルフでも、その冥幻術を使う奴がいるらしい」
「へぇ」
初耳だ。
「それで、どんな術なんですか?冥幻術って」
興味津々で尋ねる風村に対し、ニヒッと笑い返すと種山は小指を立てた。
「けっこーヤバイ術らしいぜ?女に幻惑を見せたりとか……な?後は、もうやり放題」
「え〜っ!?」
あの少年が、そんな術を会得しているとは到底思えない。
「何がえ〜っだよ。冥幻衆の原典は男と女のセックスにあるんだぜ」
嬉々として語り出す種山を見て、風村は溜息をついた。
真面目さが続かないところが種山の短所と言える。
「しかしすごいよな、宗教って。分家がごまんとありやがるんだから。あれで、がっぽり儲けてるんだろうなー」
見当違いのところで感心する種山を、風村は「宗教は人の思想でしょ。お布施は関係ないっすよ」などと判ったような、それでいて判っていないような事を言ってたしなめた。
「思想か。思想ってだけなら可愛いもんだがな……」
えっ?と聞き返す間もなく、種山が尋ねてくる。
「で、何で急に冥幻術なんだ?どこで知った?」
「え?えーと……」
なんと言ったらよいのか、と前置きしてから風村は話し始めた。
先日偶然に遭遇してしまった、あのデパートでの一件を。

「可愛い少年かーっ。会いたかったなぁ」
おっさん二人組の異様さを強調して話したにもかかわらず、種山が興味を示したのは少年の容姿についてばかりであった。
思った通りの展開だ。
種山は無類の美形好きなのだ。
何をどうするわけでもないのだろうが、とにかく出会った途端に口説き始める。
種山と彼を会わせるわけにはいかないなと風村は思った。
「それでその、冥幻術って?彼がそう言ったのかい」
「えぇ。そりゃーもう自信たっぷりでしたよ」
「そうか……なるほどなぁ。絶世の美少年が密教分家の術を使うのか…」
すかさず突っ込む風村。
「絶世たぁ言ってませんよ。そりゃ多少は綺麗な顔してましたけど」
タバコをもみ消しながら種山だって負けていない。
「でもお前、さっき確かに言ったじゃないか。薄幸の美少年だったって」
「言葉のあやです」
がんとして言い切った。
種山と彼を会わせたくない、という気持ちの表れであろう。
その気持ちは種山にも伝わったようで、彼は三本目に火を付けながら言った。
「よぅーし、じゃあ今度出会ったときはぜひ連れてきてくれ。美少年かそうじゃないかは、俺が実際に見て決めてやるからな」
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