冬になると、一面の雪景色に変わる。
俺の産まれた場所は、静かな街だった。
その人が、いつから俺の家へ出入りしていたのかは、知らない。
ただ、思春期を迎える頃には、足繁く通ってくるようになってきて、次第に、その人が疎ましくなっていった。
いや――疎ましいっていうんじゃない。
怖かったんだ。正直に言うと。
その人は、いつも俺の母さんに挨拶しておきながら、母と話すのではなく俺ばかりに話しかけてくる。
明らかに俺を目当てに通っていた。
その人の名は、広瀬光昭。
聞けば、母さんとは古き知り合いであるという。
昔、告白されたこともあるんだとか。
にしたって。
もう結婚して二人も子供を産んでいる女の元へ、せっせと通い詰めてくるのは大人として、どうなんだ。
父さんは何も言わない。
諦めているのかもしれなかった。
姉は広瀬さんが来ると、さっさと二階へあがってしまい、自分の部屋から出てこなくなる。
一階は台所にいる母さんと、父さん。
そして居間にいる俺と、広瀬さん。それが、いつもの光景。
最初は、話しているだけだから良かった。
でも、次第に広瀬さんの態度が馴れ馴れしくなってきた。
ことあるごとに「厚志君はお母さんに似て、綺麗だなぁ」と、俺の髪や体を触るようになってきた。
その頃の俺は家で本や勉強をしているほうが好きな、貧弱な子供だった。
髪の毛も今よりずっと短くて、一つ年上の梓姉さんとは背格好が似ていた。
実際、学校の友達にも姉さんと似ているって、からかわれたことがある。
でも母さんと似ているって言ってきたのは、広瀬さんだけだった。
そりゃあ姉さんも俺も同じ腹から産まれてきたのだから、元のルーツを辿れば母似なんだろうけれど。
髪を触るだけならいい。
この間なんか、いきなり後ろから抱きつかれてビビッた。
なんなんだろう、この人。男の子なんかに抱きついて、何が楽しいんだ。
もしかしたら、俺と母さんを重ね合わせて見ているんだろうか。
そういった思いが確信に変わったのは、あの日の晩の事だった。
その日は、あいにく父さんも母さんも泊りがけの会議で留守にしていて、広瀬さんと顔をつきあわせたくない姉さんは、さっさと友達の家へ泊まりに行ってしまった。
俺も、そうすれば良かったんだ。
でも、泊まらせてくれるほど仲の良い友達なんて、あの頃はいなくって。
仕方なく、本当に仕方なく、遊びに来た広瀬さんを家へ迎え入れた。
一人で留守番するのは怖くない。
でも、この人と二人っきりなのは心細かった。
それでも招き入れてしまったのは、広瀬さんがしつこかったからだ。
いつもなら母さんの一声で素直に帰る、この人も、その日だけは異常な粘り具合を見せた。
とうとう根負けて、それに近所の目も気になったから、仕方なく俺は家に入れてあげた。
「厚志君、悪いねぇ」なんて悪いとも思っていない満面の笑顔を向けてくる男に、「お風呂沸いていますから、先に使っていいですよ」と俺は素っ気なく言って、部屋に戻ろうとする。
その俺の腕を掴むと、彼は、こう言った。
「その前に飯だ。一緒に食べようぜ、厚志君」
一緒に食べているだけなら、何の問題もなかったはずなのに。
広瀬さんは勝手に封を切ったワインを何杯もグビグビ飲んで、次第に酔っぱらってきた。
あのワイン、父さんのコレクションだったのに。
何度も繰り返される武勇伝に、いい加減嫌気も差していた。
俺は何度目かの「ハイハイ」という相づちを最後に、席を立とうとする。
途端に腕をぐいっと引っ張られ、よろめいた拍子に広瀬さんの腕の中へ倒れこんでしまった。
「厚志君、そう邪険にするなよ」
「じゃけんになんて、そんな、俺は」
「君はお母さんに似て、クールだなぁ。だが、そんなところも好きだよ」
ぎゅっと俺を抱きしめてくる腕に力がこもる。振りほどこうにも、振りほどけない。
「は、離して下さい。俺、もう宿題やらなきゃ」
「待てよ……この俺が待てと言っているんだ。もう少し話そうじゃないか」
「広瀬さん、酔っぱらっているでしょ。お風呂に入って酔いさまししたほうが」
酒臭い息が近寄ってくる。密着するんじゃないかってぐらい、顔を寄せられた。
「厚志君は、良い匂いがするなぁ〜。食べちゃいたくなりそうだ」
「良い匂いって、何が!?そんな匂い、しませんっ」
俺は半狂乱で暴れたが、全然逃げられない。目前に広瀬さんのドアップが近づいてくる。
嫌だ、このオヤジ、俺にキスしようとしているんだ!
助けて、誰か助けて!
他に誰もいないと判っているのに、俺は誰かに救いを求めた。
そして――
「こんのっ、バカタレがぁーっ!」
玄関のドアを蹴破って、誰かが飛び込んできたかと思うと、俺に襲いかかっている広瀬さんの後頭部に蹴りを入れ、鼻息荒く息巻いた。
「フラれた女の元に通い詰めるばかりか、その息子に迫るだと!?それでも現役警官か、クソオヤジィィッ!」
その時、初めて俺は広瀬さんが現職の警官であることを知ったのだった……
鼻息荒く飛び込んできた者の正体は広瀬高明といって、広瀬さんの息子さんだった。
あちこちで聞き込んで、ようやく俺の家をつきとめたのだと自慢げに話してくれた。
学生服を着ていて、歳は俺と、そう変わらないんじゃないだろうか?
「最近、オヤジがフラフラ出歩いているのは判っていたんだけどな。何処へ行ってたかまでは、なかなか突き止めらんなくてよ。悪い、迷惑かけたな!」
清々しく謝られ、俺も慌てて頭をさげる。
「あ、ありがとう。助けてくれて」
「なぁに、本を正せば悪いのは全部うちのオヤジだ。お前が謝るこっちゃねーよ」
「くぉらっ!高明、テメェ!オヤジ様の頭を蹴り飛ばすたぁ、何事だ!?」
頭を蹴り飛ばされて昏倒していた光昭さんが目を覚ます。
「うるせぇ、バカオヤジ!」と、高明くんも負けちゃいない。
「可愛い息子をほっぽって、毎日ふらふら出歩いてるんじゃねーや!」
「なぁにが可愛い息子、だ!貴様みたいな汚ぇフケ顔よかぁ厚志くんのほうが、ずっと可愛いわ!」
「そーゆー事を言ってるんじゃねぇッ」
「あ、あの」
永遠に続きそうな親子喧嘩にマッタをかけ、俺は無理矢理割り込んでみる。
「よかったら、高明くんも泊まっていかない?御飯もごちそうするよ」
「ハァッ?」
一瞬ポカンとなった高明くんは、すぐさま怒鳴り返してきた。
「お前、このバカオヤジを警察に突き出さなくていいのか!?こいつはなぁ、お前をレイプしようとした」
「そこまでは、しとらんっ!ちょっと、お母さん似の可愛いオクチにチューしようとしただけじゃないか」
「それをレイプっつーんだよ!」
またまた始まりそうな喧嘩を仲裁して、俺は微笑む。
「い、いや、もう、いいから。どうせ未遂だったし」
「いやぁ〜、優しいな厚志君は!さすがは、緑さんの息子さんだ!」
途端に馴れ馴れしく戻った光昭さんが俺の肩に手をかけてきたが、その手をバシッと高明くんが払いのける。
「バカオヤジッ、調子に乗んな!!」
「ね、高明くんも一緒に泊まっていってよ。君もいたほうが心強いし」
俺が再三お願いすると、高明くんは少し照れたように頬を赤らめて吐き捨てた。
「ったく、お前ってお人好しすぎらぁな。じゃあ、まぁ、そこまで言うなら泊まってってやる」
それと、と付け足した。
「高明くんは、やめろ。なんか気持ち悪ィしよ。高明って呼び捨てで充分だ」
「えっ、でも……」
同級生であろうと下級生であろうと、誰かを呼び捨てにしたことなんて一度もない。
戸惑う俺の顔を覗き込み、高明くんは、ニッと笑った。
「タカアキ、だ。ほら、呼んでみろ」
「た……たかあき……」
「おぅ。俺も厚志って呼ぶことにすっからよ。定着させろよ?」
「う、うん」
なんか、こういうのを親しい友達っていうのかな……
強引な高明くんに戸惑いつつも、俺は、ほんのり嬉しくなっていた。
それから、しばらくして。
すっかり俺と高明は親しくなった。
高明とは学校こそ違ったけれど、同じ世代だけに、話すネタは豊富にあった。
彼の為に、俺は小遣いで生まれて初めてのゲーム機を買い、彼と一緒に遊ぶようにした。
高明はゲームが上手くって、俺はいつも負かされていたけれど、彼と遊ぶのが何よりも楽しかった。
いつも面白い話のネタを、どこからか拾ってきては、高明は俺に話してくれる。
俺が高明を楽しませたいと思っているように、彼も俺を楽しませようとしているフシが見受けられた。
きっと、その根っこには、お父さんの件が絡みついているんだろう。
彼の父親が俺の家族に迷惑をかけた。その、罪滅ぼしに。
高明が遊びに来るようになってから、部屋に引きこもりっぱなしだった姉さんも一階へ降りてくるようになった。
高明と俺が一緒に遊ぶようになってから、光昭さんの訪問回数が見るも鮮やかに減ったからだ。
もちろん、全く来なくなった訳じゃない。
明らかに高明がいない時間帯を狙って、遊びに来ることもある。
定時制の学校に通っている高明は、夜遅くには遊びに来られないんだ。
けど、大抵は夜遅くなる前に母さんが無理矢理追い立てて、事なきを得ていた。
高明について、母さんも父さんも、そして姉さんも深く追及してこなかったけれど、あの晩、俺と光昭さんとの間に何かが起きたんだろうってのは、予想しているらしかった。
最初の頃は敬遠していたけれど、やがて姉さんも俺と高明の仲間に加わるようになってきて、俺と高明、高明と姉さんとで、どんどん仲良くなっていった。
「お前らって、ホントによく似ているよなぁ」って、ことあるごとに高明が言うもんだから。
俺は、この頃から髪を伸ばすようになった。
姉さんと一緒くたにされたくなかったのかもしれない。
いや、違う。
姉さんとは、違う存在として高明に認められたい。そう思ったんだ。
この頃の俺は彼のことが好きだった。
なんといっても俺を助けてくれた恩人だし、それに俺と比べて高明は逞しくて男らしくて格好良かった。
いずれ警察学校へ通って父親よりも、しっかりした刑事になるのが夢だと、よく話してくれた。
警察学校か……
高明なら、きっと立派な刑事になれるだろう。
俺を助けてくれるぐらいだから。
だが――
髪を伸ばすことで、まさか今度は母さんに似てしまうとは、当時の俺には予想も出来なかった。