Infallible Scope

釣り日和

静まりかえった湖が、薄く霧がかっている。
もうすぐ季節は夏だというのに少し肌寒く、グレイグは襟元を引き締めた。
グレイグが年上の友人ハリィにつれられて、湖までやってきたのには理由がある。

――釣りをしよう――

そう誘われたのは、あまりにも突然すぎた。
兵士宿舎の私室へ戻った途端に通信機が鳴り出して、受け取ってみれば第一声が、それだったのである。
ハリィに誘われるのは、もちろん嬉しい。
嬉しいが、しかし誘ってくれる場所は吟味して欲しいと、グレイグは思う。
そうでなくても騎士団は、年中無休の連日勤務。
立ちっぱなし、緊張しっぱなしの疲れる仕事である。
彼としては、どうせ行くならアウトドアよりも、酒場のほうが望ましかった。
だが、せっかく誘ってくれたものを、自分の都合で断るのは気が引ける。
そういった訳で、夜が明けてまもなく部屋を出て、彼と一緒に湖までやってきたのであった。
むろん、休暇願いは前日のうちに出してある。その辺りは、ぬかりない。
これといって事件も凶悪犯もいない平和な状況で、騎士団長が一日程度の休みを取るのは難しい話ではない。
王は快く理解を示し、一日休暇を与えてくれた。
手ぶらのグレイグを一瞥し、湖へ向かう途中にハリィが言った。
「君、釣りをするのは初めてか?」
「あぁ」
間髪入れず頷き、グレイグもハリィを見やる。
ハリィは完全武装ならぬ完全装備で、やってきた。
目深に帽子をかぶり、ポケットの多いジャケット。
肩から提げているのは、釣り竿が入っているのであろう長い筒と、四角い箱だ。
その箱は何だと問うグレイに彼は、釣った魚を入れるのだと説明してくれた。
「道具は持ってこなかったのか?手ぶらじゃ魚は釣れないぞ」
呆れた調子で呟かれ、グレイグは口の中でモゴモゴと答える。
「仕方ないだろう……昨日の今日じゃ、用意もできない」
だが彼の都合などそっちのけで、ハリィは文句を続けた。
「君も俺と同じアウトドア思考だと思ったんだがなァ。騎士団長様は釣り用具も持っていないのか」
グレイグはムスッとして答えた。
「俺の好きなアウトドアは道具など必要としない」
ひとくちにアウトドアと言っても色々あろう。
グレイグの好きなアウトドアは山歩き、つまりハイキングの類であって釣りは眼中にない。
それにハリィが釣りを嗜むということも、昨日初めて知ったのだ。
釣りが好きなのかと尋ねるグレイグに、ハリィはちょくちょく行くと答えた。
それならば、どうして今まで一度もグレイを誘ってくれなかったのだろう。
そして、どうして今になって突然誘おうという気になったのか。
今日誘ってくれた理由を尋ねてみれば、本人が話す理由は実に明快で。
今まで一緒に行っていたボブが急用で行けなくなったので、代わりに……ということらしい。
誘おうと思えば、レピアとかいう女性やバージだって良かったはずだ。
数多くいる知人友人の中から自分を選んでくれたことに、少しだけグレイは優越感を覚えたのであった。
しかし出発は朝四時だと聞かされ、青くなる。
釣り道具を用意する暇がない。
どうする。部下から借りるか?いや、借りるにしても誰から借りろというのか。
持っている奴を探すにしても、時間がなさすぎた。
悩んでいるうちに時間は過ぎて、寝不足のまま集合場所に向かったという次第である。
「どうせ、こんなことだろうと思って、もう一本持ってきておいて正解だったな」
長い筒から一本取り出したハリィがグレイグへ手渡したのは、古い釣り竿だ。
グリップに巻かれたテープが擦り切れている。だいぶ使い込まれた代物と見える。
「そいつを君に貸してやるよ。それと、餌は現地調達だが――」
グレイグの耳元で囁く。
「君は虫、平気だったか?」
いきなり耳元に息を吹きかけられ、ぱっちり目の覚めたグレイグは身を退いた。
「虫?虫を何に使うんだ?」
虫は嫌いではない。が、あえて手づかみしたいほど好きという訳でもない。
一般と同じぐらいには平気である。蝶は好きだが蛾は嫌い、その程度の感覚だ。
「何って」
ハリィは呆れ顔で友人を仰ぐ。
「餌だよ、餌。魚は虫を食べるものさ」
虫を竿の先の釣り針に取り付けて、水中に投げ入れる。
言葉で説明されてもイマイチ理解していないグレイに、ハリィは肩をすくめる。
「ま、基本のやり方は現地についてから説明するよ」
ハリィの顔を眺めているうちに、グレイグは不意に初心者丸出しの自分が恥ずかしく思えてきた。
ボブが相手なら、こんな説明など、するまでもないのだろう。
釣り用具が用意できないまでも、せめて釣りについて調べてくればよかった。
そうすれば、ハリィの手間を少しでも減らしてやれたものを。
「すまん」
小さく謝る彼にハリィは一瞬ぽかんと呆けた顔でグレイを見たが、すぐに軽く肩をたたいて慰めた。
「何を謝っているんだ?君は初心者なんだから、何も知らないのは当然だろ」
無理を言って誘ったのはコチラだしな、と微笑まれ、グレイグは頬の紅潮を覚える。
ハリィにマンツーマンで釣りを教えてもらえるのならば、こんな休日も悪くない。


湖に到着して、グレイが景色を楽しんでいる間にもハリィは準備に余念がない。
ポケットから次々に道具を取り出しては、自分とグレイの分を用意した。
「ほら、君の分の竿。餌は……よし、ここらへんにいそうだな」
岩をひっくり返しては、そこから這い出てくるウネウネした虫を捕まえている。
できることなら素手で掴みたくないような形容の虫を横目に、グレイグは尋ねた。
「それで……今日は何を釣るんだ?」
釣り針に虫を引っかけながら、ハリィが答える。
「何を釣るかが目的じゃない。釣り自体を楽しむのが目的さ」
そういうものなのか。
釣りにあまり詳しくないグレイグは、そこで納得してしまった。
しかしながら釣る対象によって使う道具は大きく変わる事を、読者の皆様には、お断りしておきたい。
生き餌が好きな魚もいれば、ルアーのほうが釣りやすい魚もいる。
同じ釣り針で、メダカとアユを釣ることは出来ない。
なんでもいいから釣り竿をたれておけば釣れる、というほど奥の浅いスポーツではないのだ。釣りというものは。
それら一切の説明をハリィが省いたのは、釣りは難しいという印象をグレイグに与えたくなかったせいだろう。
彼は初心者だ。初心者には、とっつきやすいイメージを与えたほうが興味も持たせやすい。
「それに」と餌のついた竿を手渡しながら、ハリィが器用にウィンクしてくる。
「俺の好きなものは、君にも好きになってもらいたいからな」
なにやら意味深な台詞に、またしてもグレイグの頬は赤くなり、動揺を見られまいと慌てて竿を受け取った。
「精進する」
「精進するって、修行じゃないんだから」
ハリィにはクスリと笑われ、肩に手を回される。
「一緒に楽しもうぜ」
ますます赤くなるグレイグだが、すぐにハリィは身を離し、周囲の様子を伺い始めた。
何かの気配を見つけたのか?
グレイグも周辺の気配を探るが、この辺にいる気配など小動物か魚ぐらいで、さして危険が迫っているようにも思えない。
「おっ」と小さく声をあげるハリィの後に続いてグレイグもそちらへ走ってみると、ハリィは湖に面した場所で立ち止まり、グレイを手招きで呼び寄せた。
「ここがいい。ここで釣ろう」
どうやら、釣りスポットを探していたらしい。
そうならそうと、きちんと説明してくれればいいのに。
なんとなく落胆を感じながらも、気持ち悪い虫のくっついた釣り竿を人差し指と親指で摘み上げる。
「そうじゃない。しっかり握るんだ」
たちまち出来の悪い生徒の如く叱られて、グレイグは竿を握ると今度は釣り糸を摘み上げた。
「わかった。しかし、ここからどうやればいいんだ?」
地面に垂らしたままにしておいたら、虫が逃げてしまうのではとグレイグは懸念した。
釣り針が貫通した虫は、とっくにご臨終となっていたのだが。
「投げ方が判らないのか?」
しょうがないな、という風に小さくため息をつくハリィを見て、またもグレイグの心は暗くなる。
だが彼が背後にピッタリとくっつき、さらにグレイグの手を上から握ってきた時には真っ赤になって狼狽えた。
「なっ!何の真似だ、ハリィ!!」
尻にハリィの肉感、もっと言うなればナニの膨らみを意識してしまい否応にも心拍があがる。
額に汗が浮かぶ。頬が熱い。
あぁ、どうしよう。ハリィには、きっと妙だと思われているに違いない。
アタフタするグレイグとは対照的に、ハリィはアッケラカンとした調子で逆に聞き返してきた。
「何の真似って、何だと思っているんだ?君に投げ方をレクチャーしてやろうってのに、酷い言われ様だな」
酷い、と言う割に彼は笑っている。グレイグの反応に対して、それほど怒ってもいないようだ。
グレイグは再び謝ると、ぎこちなく緊張したままハリィに身を任せた。
耳元で苦笑されポッポと赤くなるグレイグに、背後から優しい声がかけられる。
「こういうのは、体で覚えないと駄目だからね。俺の動く方向に、君も体を動かしてくれ」
きわめて普通の事を言われているだけなのに、ハリィが相手だと妙な期待をしてしまう。
密着が激しくなり、もはや何を言われているのかも、まともに考えられなくなってきた。

――ぽちゃん、という音にハッと我に返れば、釣り針は無事に着水していた。

始終、尻に当たる何かに気を取られているうちに、針は宙を舞ったらしい。
百パーセント、ハリィが投げたようなものだが、彼には褒められた。
「よーし、うまいぞ」
背後の気配が離れていく。自分の釣りに戻るのだと知り、ほんの少しだけグレイグは寂しくなった。
もっと密着していたい。もっと体に、じっくりと教えて欲しい……
そこまで考えて、みだらな想像に耽っている自分に気づいたグレイグは額に浮かんだ汗を拭く。
馬鹿、何を考えているんだ。今は釣りをやっているんだぞ、釣りを。
しっかりしろ、グレイグ=グレイゾン!
「釣り竿を離すんじゃないぞ?それと時々は竿を動かして、釣り針の場所を移動させた方がいい」
自分の竿を軽く振り回しながら、ハリィがレクチャーを続けてくる。
もう一言も聞き逃すまいと、グレイグは懸命に耳を傾けた。
「魚ってのは動く物に興味を示すからな。虫が生きているように見せかけるんだ」
彼の針が見事な曲線を描いて着水するのを横目に見ながら、グレイグは小さく溜息をついた。
ハリィは生き生きしている。彼の好きな銃の話をする時よりも輝いて見えた。
これほどまでに、彼が釣りを愛していたなんて。
もっと早くに知っておきたかった。
そして、もっと自分を誘ってくれたのなら、たくさんの楽しい休暇を過ごせたはずだ。

グレイグはハリィが大好きである。
それこそ幼い頃、初めて出会った瞬間から、ずっと惹かれていると言ってもいい。
引っ込み思案で根暗な少年にとって、ハリィ=ジョルズ=スカイヤードは眩しい存在だった。
リーダーシップがあり、周りの子供や大人に好かれてもいたし、何といってもグレイグに優しくしてくれたのは彼だけだ。
ハリィのほうが年上だから、お兄ちゃんとして優しくしろと誰かに言われていたのだろう。
お隣さんとはいえ、ハリィは名門貴族の一人息子だ。
グレイグの家は庶民の為、本来ならば一緒に遊べるような身分ではない。
なのに二人が仲良く遊んでいられたのは、ハリィが父子家庭という事情あっての偶然によるものだ。
彼の父親は、今なお現役の厳格な軍人である。
家を留守にすることが多く、子供の世話はメイドに任せっきりとなっていた。
だから、かもしれない。
スカイヤード家のメイドが大らかな女性であったが為に、ハリィは隣の庶民と遊ぶことを許された。
彼が十五歳になり、突然家出を決意するまで、二人の関係は友好的に続いた。
いや、ハリィがレイザースへ戻ってきた今でも、友好関係は続いている。
ハリィはグレイグの事を、どう思っているのだろう。
以前尋ねた時には、親友だと彼は答えた。大切な人間、君が好きだとも言ってくれた。
だが、おそらくハリィの『好き』とグレイグの『好き』は違う。
歳を取り恋愛が理解できるようになってくると、グレイグはハリィに対して劣情を含んだ夢を、しばしば見るようになる。
そうした夢を見た日の翌日は大抵、激しい自己嫌悪に悩まされた。
最近ハリィはよく、好きな女性はいないのか?とグレイグへ尋ねてくる。
酒が入ると、しょっちゅうグレイグを娼婦館へ誘ってきた。
娼婦館というのは、くちにするのもおぞましいが、金で体を売っている女性の働く店だ。
所謂売春、不潔で汚らしい商売である。
ハリィは度々、そのおぞましくもいかがわしい店へ出入りしているようであった。
可愛い子が沢山いる、君さえ興味があれば紹介してやってもいいと言われ、グレイグは即座に断った。
女性なんて紹介されても、嬉しくない。ましてや売春婦など、死んでもお断りだ。
そもそも好きな人は何故、女性じゃなくてはいけないのか。
女性よりもハリィが好きだ。
しかし、この気持ちは、けして表に出してはいけないのだ……

「竿が引いているぞ。グレイ、リールを巻くんだ」
ハリィの声に、妄想から覚めて釣り竿を見た。
なるほど、確かに引っ張られる感触が伝わってくる。
「リ、リ、リールを巻くって、リールとは何だ?」
狼狽するグレイグに、横から指示が飛ぶ。
「君の手元にあるだろ。それだよ、ハンドルのついているやつだ」
言われて手元のリールを勢いよくグルグル巻いたら、ぶつっと景気の良い音がして釣り糸が切れた。
いや、魚は逃げてしまったのだから、景気の悪い音だったかもしれない。
「急ぐ必要は、ないんだぞ」
傍らのハリィは苦笑している。
「魚の引っ張る勢いに併せて、巻いたり緩めたり……まだ、そこまでは説明してなかったか」
ぴちゃん、と水の跳ねる音に目をやれば、ハリィの釣り竿には魚がぶら下がっている。
「この一匹は君にやるよ。観賞用に飼うもよしだが、どうせなら酒場で焼いてもらって一緒に食べようか」
「え、しかし、そこまでしてもらうわけには……」
照れるグレイグへ視線を投げかけ、ハリィが微笑む。
「釣りは、もう終わりにしよう。君は集中できていないみたいだしね。すまなかったな、疲れているところを呼び出したりして。早く帰って、一杯やろう」
白騎士団が年中立ち仕事だと知っているからこその気遣いだが、グレイグは申し訳ない気分になる。
今日一日、ずっと集中力に欠けていたのは、疲れていたわけじゃない。
ハリィのことばかり考えていたせいだ。
「……ハリィ。すまない」
グレイグは今日で何回目だかの謝罪を呟き、何回目かの苦笑を耳にした。
「謝らなくていいって言っているだろ。俺の勝手で君を連れ回しているんだ、君は俺に対して尊大でいたって構わないんだぜ」

馬車に揺られているうちに、眠ってしまったのだろう。
ふと目が覚めて、グレイグは肩に乗っかる重さに顔をしかめる。
なんだろう、としかめっ面で真横を見た彼は、心臓が口から飛び出るんじゃないかというぐらいに驚いた。
ハリィが。
ハリィが、無防備な顔を晒して寝こけているではないかッ!
傭兵が大衆馬車という公の場所で、暢気に居眠りをこくなど通常ありえない。
大佐の称号を持つぐらい有名になってくると、味方も多いが敵も多くなってくる。
第三者の多くいる場所では、彼らは常に神経を尖らせているものだ――
といった具合に認識していたグレイグは、ハリィが熟睡しているのを見て死ぬほど驚いたのだった。
まぁ、実際には傭兵といえど、常に緊張の中で生きているわけではない。
毎日緊張で張り詰めていたら、逆にプレッシャーで潰れてしまう。
戦場では緊張感を持ち、日常では適度にリラックスする。それが傭兵のライフスタイルというものだ。
それにしても、よく眠っている。熟睡を通り越して、爆睡している。
もしかして、疲れていたのはグレイではなくハリィのほうだったのではなかろうか?
集合場所に到着したのは、彼の方が先だった。
趣味の前に疲労が敗北した瞬間、ともいえる。そこまで好きか、釣りが。
帰りの道で寝てしまうなんてところも、子供っぽい。
グレイグの肩に頭を預けて、熟睡している。
「ハリィ……」
誰も見ていないと左右を確認した上で、グレイグはハリィを膝枕してやる。
いい加減肩が痛くなっていたというのもあるが、こうした方が顔がよく見えると考えたのだ。
髪をなで、額、頬と掌が伝っても、ハリィが起きる兆しはない。
唇をなぞる指が、ひたと止まる。
これだけ熟睡しているのなら、何をしても起きないのではないか?
そんな邪心が首をもたげ、グレイグの心を占領した。
ハリィの頭を両手で挟むようにして抱え上げ、間近に眺める。
あと数センチで唇が触れあうかという距離まで近づけた時――
「公衆の場でキスかい?君にしては大胆だね」
ぐっすり寝ていると思った相手が、目を閉じたまま口元を歪めて苦笑するもんだから。
グレイグは、びっくりして座席から転げ落ちるところであった。
「ハ、ハ、ハ、ハァァァァリィィィ!!?
「お、おい。落ち着けよ、ちょっと冗談で言ってみただけ、アイタッ!」
おかげでハリィは座席に嫌というほど頭をぶつける羽目になり、グレイグを余計慌てさせる。
後頭部をさすりながら起き上がると、ハリィはニヤリと微笑んだ。
「俺としちゃ、プライベートな情事は部屋でやるのが一番なんだがね。しかし君が、そこまで俺を好きとは」
「わぁぁぁぁ!!違う、そういうつもりで君を眺めていたわけでは!違うんだハリィ、誤解しないでくれ!」
ばたばたと腕をばたつかせるグレイ。
その動きがカチーンと止まったのは、他ならぬハリィにギュッと抱きしめられたせいだ。
「大丈夫、判っているよ。君に、そんな破廉恥な真似は出来ない」
小さく囁かれ、どんどんグレイグの心拍数は上がってゆく。
ハリィにキスしようとしたのは事実だ。グレイグの中にいる悪魔が、彼を唆した。
いや、悪魔の仕業にして責任逃れしようとは思わない。
キスしようとしたのは、紛れもなくグレイ自身の意志だ。
ハリィ、君があまりにも無防備だから。やってもバレないと思ってしまった。
最悪な俺を許してくれ、ハリィ。
頬に熱い感触を感じた。
涙に濡れる目線を下に降ろしたグレイグは、またしても仰天する。
グレイグの頬を伝う涙を、ハリィが舌で舐めとったと判ったからだ。
それだけではない。ハリィは小さく微笑むと、グレイグに口づけて、すぐに身を離す。
ボォ〜ッと真っ赤に染まって何も言えなくなってしまったグレイの肩を軽く叩き、彼は言った。
「グレイ、続きは俺の部屋でやろう。酒場の二階に部屋を取ってあるんだ」
「つ、続きって、続きって、その……うぅぅー、そ、そんなの駄目だ……恥ずかしい」
譫言のようにブツブツと呟きながら、グレイグの体はグラリと傾いていき――
「お、おい……グレイ?」
――激しく床に体を打ちつけ、彼は意識を失った。


だから次の日、自分の部屋で目覚めるまで、グレイグには何が起きたのかサッパリだった。
ハリィが騎士団宿舎に連絡を入れてくれたのだと知ったのは、数日後のお話である。


End.
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