act1.旅立ち
その日、名も無き彼女――いや、あえて名をつけるならば、そう。第七階級魔族の彼女は、飛ぶような速さで坂道を走っていた。
今日は、待ちに待った先発隊メンバーの発表が行われる日なのだ。
惑星ボルドを制圧する為に組まれた軍隊。
その軍隊の先陣を切るのが先発隊と呼ばれる小隊だ。
先発隊の役目は、地上における対立派閥の鎮圧。
正規軍が地上に降りる前に、邪魔者をあらかた片づけねばならない。
好戦的な輩や力をつけたい輩にとっては、絶好の戦場となるだろう。
彼女もまた、先発隊に選ばれることを望んでいた。
遅刻して発表を見過ごしてしまっては、洒落にもならない。
だから今、こうして坂道を駆け上っているのだった。
彼女には夢があった。
先発隊で出世して、指揮官を支える優秀な副官となる夢が。
言ってしまえば惑星ボルドの制圧など、彼女にとっては二の次だ。
彼女はただ、ある一人の男の為だけに軍隊入りを望んでいた。
あの日パレードで見かけた、一人の将軍。
いや、正確には将軍じゃない。彼は一個小隊の指揮官に過ぎない。
それでも彼女の妄想がかった瞳には、彼が大将軍に映っていた。
彼はパレードの中を、堂々と進軍していった。
背は並みいる兵士達の中でも、ひときわ小さかったけれど――
存在感は、その辺の兵士など比べものにもならなかった。
彼の元で働けるならば、彼の役に立てるなら、自分は死んでもいい。
できれば、死なずに彼の元で働き続けるのが本望だけれど。
坂の上の広場には、たくさんの魔族達が集まっている。
皆わくわくしながら、或いは冷やかし半分で台の上を見つめていた。
台に登っているのはボルド制圧軍参謀官が一人、ヴィクター。
頭のてっぺんがハゲた、よぼよぼの爺さんだ。
はっきり言って強くない。見た目通りの弱さである。
でも悪知恵にかけては天下一品。
そんなふうに、魔族の中でも噂されるほどの悪魔だとか。
そのヴィクターが、巻物をシュルシュルと解いていく。
あれだ。
あれに、今回の先発隊新メンバーが書かれている。
彼女は皆と同様に、ドキドキしながら発表を待つ。
「では読み上げる。第37回・地上制圧先発隊、新メンバーは……」
次々と名前が呼ばれていく。
まだか。
自分の番は、まだか?
皆が皆、そんな期待に満ちた表情で台の上を見つめた。
彼女もまた、期待に胸膨らませてヴィクターの口元を見つめる。
不意に、ヴィクターのクチが「ふむ」と小休止。
広場は小さなざわめきに包まれた。
「どうしたー!」「早く言え、ジジィ!」
そんな野次も飛ぶ。
ヴィクターは野次に動じることなく、しばし顎に手をやり――
やがて、次の名を呼んだ。
「第七階級魔族、前へ出でよ」
ざわざわ、とざわめく中、第七にあたる魔族達が前に出る。
その中には、あの彼女も含まれていた。
「ふむ」もう一度、ヴィクターがうなる。
目が順番に彼らを抑えていき、最後に彼女の前で止まった。
すらりと細い体は、無難な色のローブで隠されている。
色気のない、地味な顔。
髪の毛は燃えるように赤く、前髪を左目の上に垂らしていた。
「お主か?」
ヴィクターに問われ、彼女は小首を傾げた。
「お主が、日によって名の変わる者か?」
もう一度ヴィクターは尋ね直した。
彼女が素直に頷く。
「なるほど……今日の名は、ステイツか。男のような名じゃのう。まぁよい、第七階級魔族ステイツよ。お主も先発隊のメンバーに選ばれたぞ。誇りに思うがよい」
なかなか実感がわかず、ポケ〜ッと突っ立っていたステイツ。
だがヴィクターが名前を呼び続け最後の名前が呼ばれる頃には、ようやく実感がわいてきたのか大声をあげたのだった。
「やった〜〜!」
先発隊に選ばれた新米兵士達は、さっそく宿舎に預けられた。
ステイツは先ほどからドキドキうるさい胸の辺りををぎゅっと手で押さえ、自分の名前が呼ばれるのを待合室で待っている。
先発隊と言っても、選ばれた全員が全員で進軍するわけじゃない。
兵士達は、ここから更に各小隊へ振り分けられる。
彼女は、まぶたの裏に彼の勇姿を思い浮かべていた。
彼の部隊に振り分けられたらいいなぁ。そんなことばかり考えていた。
幸運というのは、続けて起きることが多いもので。
次に名前が呼ばれた時には、すぐにも実感に至り、ステイツは叫ぶ。
「ぃやったぁぁぁ〜!ラッキー♪」
周りの皆が何事かと彼女を見つめたが、彼女は全く気にしない。
気にしないどころか、周りに向かってガッツポーズのおまけつき。
ある者は肩を竦め、ある者はヤレヤレと首を振る。
更には「お前、何がそんなに嬉しいんだよ」と言われてしまった。
そう言ったのは不細工な紫色の奴だった。
いかにも力だけが自慢です、といったムキムキマッスルの体格。
そういった内心の見下しなど表面には出さず、ステイツは頷き返す。
「嬉しいですよ!だって彼の下で働きたかったんですから」
「そうかい、お気の毒にな。頭がイカレちまってんだ、お前」
酷い侮辱もあったものだ。
いいさ、言いたい奴には何とでも言わせておけばいい。
ステイツは飛ぶような足取りで、彼の待つ部屋へと向かった。
「お前が新兵?なんだ、女って言うから色っぽい奴を期待してたのにな。男みたいなツラしやがって」
部屋に入っての第一声は、こんな罵倒だった。
でも根っから脳天気なステイツは、全く気にしない。
だって。
目の前には、彼がいる。夢にまで見た彼が。
むしろ彼に自分を話題にされるだけで至福の至りだ。恋は盲目。
ともかく、ぽけ〜っと突っ立っている場合ではない。
ステイツは敬礼の構えを取り、自己紹介を始めた。
「自分は第七階級魔族、本日の名はステイツと申します!第一小隊指揮官、クォード殿!貴殿の下に配属となり、自分は光栄の至りであります!」
クォードが彼女を見上げる。
背丈は余裕でステイツのほうが高かった。
「本日の名は、だと?」
「はい!自分は日によって名前が変わるのであります!」
がちがちに緊張しながら答える。もう肩がこってきた。
「珍しいな……で、お前の特技は?」
「特技、でありますか?」
「そうだ。魔族なら誰でも一つは持ってんだろ」
ステイツは改めて考えこむ。自分に特技なんて、あったかしら?
いやいや、自分は先発隊に選ばれたのだ。何か一つぐらいは、あるはず。
「まさか、名前が変わるってのが特技だなんて言わないだろうな?」
まさか、そんな。一つだけ思い当たり、ステイツは顔を上げた。
「いえ、まさか。自分の特技は誘惑であります。苦手ではありますが……」
聞き取れないほどの小声だが、クォードには聞こえていたようで。
彼は途端に大声で笑い出す。そんなに笑わなくても。
「そうだろうな、色気のないサッキュバスなんざ初めて見たぜ。お前に誘惑される間抜けがいるなら見てみたいもんだ!」
ステイツは今日ほど、自分がサッキュバスであることを怨んだことはなかった。
サッキュバスじゃなかったら、良かったのに。
サッキュバスじゃなかったら、ここまで大爆笑されなかったのに……
クォードもまた、ステイツと似た能力を持っている。
彼は先発隊きっての殺戮ナンバーワンであり、同時にレジェンダーハンターとしてもナンバーワンの実力者だ。
ハントといっても殺すのではない。狩りの相手は主に女子供に限られる。
女子供から精気を抜き取るのを得意としていた。
お色気で相手をメロメロにしてしまい、その間に精気を奪う。
それこそが、ステイツの苦手とする誘惑能力である。
精気を奪われた者が下る道は一つだけ。
相手の魔力の支配下に置かれ、永久に奴隷として仕えるしかない。
そんな風に精気を抜かれた女子供が、クォードの元には沢山いると聞く。
皆、彼の魔力で恋の奴隷となっているのだ。
救われることなく、逃れることもできぬ、生きるだけの屍。
彼女たちは餌を与えられ、兵士達の快楽の為だけに生かされている。
羨ましい、とステイツは思った。
自分も彼に魅了されたい、そして彼の手に抱かれたい。
そんなことを思ってみたりもした。
しかし魅了などかけられなくても、既にステイツは彼に魅了されている。
それも自分の意思で、勝手に。
彼女がクォードに見とれているうちに、他の兵士も挨拶を終えていた。
「これで全員か。第一小隊の名に恥じねぇ活躍を見せろよ、期待してるぜ」
言うだけ言って、指揮官クォードは場を立ち去る。
半分夢の中だったステイツも目が覚めた。
そうだ。いつまでも浮かれている場合か。
自分は第一小隊に選ばれたのだ。
第一小隊といえば、エリート揃いの精鋭小隊。
ならばそこに配属させられた自分も、エリートを目指さねばなるまい。
ここからだ。
ここから、頑張って強くならないと。
強くなって、クォードを補佐する副官にならないと駄目なんだ――
決意も新たにステイツは明後日の方角を見つめ、一人燃えるのであった。
「どうしても――行くのですか?」
呼び止められ、白き羽根の少女が振り返る。
「はい」
その表情は憂いを秘めていた。
少女の名はアミュ。
幼い外見ながらも齢二百年を越える彼女は、神界では右に並ぶ者がいないとされるほどの剣豪であった。
「誰かが、やらなくてはいけないことですから」
「でも――何も、貴女がやらなくても。アミュ」
もう一人の天使が、アミュの肩へ手を置く。
その手をゆっくりと振り払いながら、アミュは微笑んでみせた。
「もう、決めたのです。フィーネ……悲しまないで下さい。私が行けば、他の皆の負担も軽くなる。誰かがつゆ払いをすれば、石探しも楽になりましょう」
「アミュ……」
肩を落としたフィーネ、その彼女を逆にアミュが慰める。
「大丈夫。大天使様達も祝福して下さいました。私には、偉大なるお父様の加護もありますもの。必ず生きて帰ってきます。それまでは、神界を」
「アミュ、どうか、死なないで――」
こうして。
姉のフィーネとも別れ、ボルドに降り立ったアミュであったが。
肝心なことに気づいたのは、地上で一ヶ月を過ごしてからだった。
「石探しのメンバーは何処にいらっしゃるのでしょう?」
ただ降りればいい、と思っていた。
降りたら、仲間と合流できるだろう。そう考えていたのだ。
浅はかであった。
地上に降りて、まず最初に彼女が出会ったのは魔族の男だった。
不細工な面構えをした、そいつは出会い頭にいきなり襲ってきた。
慌てたアミュは、思わずそいつを一刀両断。
「私以外の神族を、何処かでお見かけしませんでしたか?」
そう尋ねた時には、とうの昔に相手は絶命していた。
悪いことをしたとアミュは反省し、彼の墓を作ってあげた。
そうして旅を続けて一ヶ月。未だに仲間達とは合流できていない。
代わりに、幾人ものレジェンダーや魔族との出会いを繰り返していた。
一人とぼとぼ歩く様が、余程頼りなく見えたのだろう。
レジェンダー達は彼らのほうから友好的に、アミュへ話しかけてきた。
――何処へ行くの?
――何が目的で旅をしているの?
――どうして一人で旅をしているの?
そう尋ねられるたびに、アミュは包み隠さず本音で答えてやる。
――仲間達を、探しています。
――地上にはびこる敵を、倒しに。
――独りのほうが、戦いやすいですから。
誰一人として、彼女の答えを本気と取る者はいなかったけれど。
でも手荷物は神界を出てきた時よりも、増えていた。
レジェンダーには、良い人が多い。
神界を出て、アミュは一つ賢くなったような気がした。
神界にいる頃聞いたレジェンダーの噂とは、こうだ。
彼らは魔力もないくせに、生意気に神族と対等であろうとする。
神魔の戦いに首を突っ込んでくるのだ。戦えもしないくせに。
特技だって持っていない、貧弱な種族だ。
取り柄といえば、無駄な頑丈さと意味のない素早さだけ。
世界一、無能な種族である。
――そんなことはないわ、とアミュは独りごちる。
レジェンダーは確かに、戦いでは無能かもしれないけれど。
でも、優しさで言ったら世界一かもしれないわ……
そうして、ふらふらと歩き続けて、半年が過ぎ。
アミュは、山奥にあるレジェンダー達の村へと到着する。
村の名はクォン。魔族の支配下に置かれているようだ。
魔族という種族を、アミュはどうしても好きになれない。
彼らは好戦的で、旅の途中も何度襲われたことか。数え切れないほどだ。
地上で仲間達の石探しを邪魔しているのは、魔族なのかもしれない。
いや、絶対そうだ。そうに違いない。
だって、石を探しているわけでもないアミュまで襲ってくるんだもの。
そう考え、なるべく魔族だけを斬るようにしてきた。
もちろん道中、レジェンダーに襲われたこともあったのだが、アミュはそういう時、命だけは絶たないようにして倒していた。
レジェンダーには良い人が多い。
きっと、アミュに襲いかかってきたレジェンダーは魔が差しただけ。
正気に戻れば、元のように優しくなる。そう信じて。
村に入ったアミュは、咄嗟に物陰へと飛び込む。
すぐ脇を魔族が二人ノッシノッシ歩いていき、やがて酒場へと消えていった。
やはり、入口で思ったとおりだ。
この村は魔族の手で完全に制圧されている。可哀想に。
アミュは、そっと背中の剣に手をあてた。
可哀想なレジェンダー達。
でも、もう大丈夫。
私が必ず助けてあげるから――
惑星ボルド。
それは、広大な緑と深い海に恵まれた星。
今でこそ豊かな大自然も、太古の昔は見渡す限りの荒野だったという。
余所の惑星からの移住民が開拓して、ここまで自然を豊かに増やしたのだ。
その開拓民の末裔が、レジェンダーと呼ばれる種族である。
地上には、レジェンダー達の集落が幾つか点在している。
この村――クォンも、そのうちの一つだ。
何の変哲もない、貧しい田舎の村。
だが退屈な日常は、ある日を境に闇へと閉ざされた。
「ヒューイ!大変よ、マナルナが、あいつらに!酒場に!!」
飛び込んできた少女は一気に言い終えると、大きく息をつく。
そして彼女と入れ違い気味に、表へ飛び出した者が一人。
彼こそがヒューイ、この村では唯一の青年、であった。
男が居ないわけではない。
男と呼べる者は、居ることは居た。
しかし、数は極端に少なかった。
この村がホルゲイに占領された時、多くの男達が命を散らした。
血気盛んな若者達が、ホルゲイの手により殺されてしまったのだ。
残されたのは老人と女達。
そして家の地下に匿われていた、数名の少年達のみ。
やがて生き残った少年達も、ホルゲイの手にかかり次々と殺された。
だから今、青年と呼べる世代の男はヒューイだけだ。
他はまだ年端もいかぬ幼児か、或いは老人しかいない。
「待て!ヒューイ行くな、行くんじゃない!殺されるぞ!」
年老いた、白髪の男が声をかけるも。
ヒューイの背中は、どんどん遠ざかっていく。
どのみち彼の足に追いつける者など、村には一人もいない。
「馬鹿!ユナン、どうしてヒューイに教えたりしたの!?」
まだゼィゼィと息を切らせている少女に、別の少女が怒鳴りつける。
「だ、だって」
ユナンは一瞬怯むが、きっとなって少女を睨み返す。
「ヒューイはマナルナが好きなんだもの!マナルナを守る為に、今までだって我慢してきたんだものッ!」
村には唯一、娯楽と呼べる場所がある。それが酒場だ。
寂れた田舎村における唯一の、村人達の交流場所でもあった。
だがホルゲイに占領されて以来、酒場は一瞬にして拷問場へと変じた。
毎日一人ずつ女性が連れ込まれ、ホルゲイ達のいいように扱われる。
大抵が慰みものとして乱暴に扱われ、酷いときには殺された。
だが、彼女たちを守るべきはずの存在は既にいない。
村が襲撃された時に、男衆の命は殆どが失われてしまったのだから。
ホルゲイの溜まり場と化した酒場。
その酒場に、ヒューイは勢いよく飛び込んだ。
「マナルナ!!」
店の中央に、彼女はいた。
手首を縄で縛られ、天井から吊り下げられていた。
お気に入りの赤い服は無惨に破り捨てられ、原型を留めていない。
僅かながらに残った布の切れ端が彼女の恥部を隠しているが、ちょっと引っ張っただけでも取れてしまいそうなほど、頼りない。
それよりも目を奪われるのが、顔から体全身にかけての痣の数。
よほど酷く殴られたのだろう。
幾つもつけられた痣は、青痣になっている。
マナルナは美人ではないが、愛嬌のある顔立ちの少女であった。
だが今の彼女には、愛くるしい輝きなど跡形もない。
頬には幾筋もの涙の跡が、ついていた。
恐らくは抵抗しようにも、女一人ではどうすることもできなくて。
泣くことだけが、彼女にできた精一杯の抵抗だったに違いない。
殴られた時に口の中でも切ったのか、唇の端からは血が垂れている。
いや、唇だけではない。彼女の太股にも血が筋を残していた。
ヒューイの中で、全身の血が頭へ登っていく。
――誰だ。
誰が、彼女をこんな酷い目に遭わせやがった?
「グヘェッヒェッヒェ。やっと彼氏様のご登場かァ?」
豚と犬のあいのこ、とでもいうべき醜い顔が視界に飛び込んでくる。
こいつこそが、クォンに居着いて出ていかないホルゲイ達のリーダーだ。
名をゾルクという。傍らに座っている青い肌のホルゲイはブレイ。
奴もまた、ゾルクと共に村でしたい放題を繰り返している。嫌な奴らだ。
聞くまでもない。
こいつらが、マナルナを酷い目に遭わせたのだ。
「お……お前らァァァァッッッ!!!」
ホルゲイ達の座るテーブルに突っ込んでいった。
「うぉぉぉぁぁぁあああああッッ!」
うなりをあげて、ヒューイの拳がゾルクの顔面を殴りつける。
直撃だ。
これ以上はないというぐらい、見事に決まった。
だが殴られたはずのゾルクは首を鳴らし、ゆっくりと立ち上がる。
「それで?終わりか、ガキィ」
「……!」
全然まったく、これっぽっちも効いていない。
ゾルクが近づくよりも前に、ヒューイは慌てて後ろに飛びのいた。
顔面が駄目なら顎でも叩けば、どうだろうか?
顎は急所の一つだったような気がする。
どんなに頑丈な大男でも、顎を下からブッ叩けば倒れるはず。
ヒューイは床を蹴って、再び飛び込んだ。
ゾルクの動きは緩慢だ。
懐に易々と飛び込んだヒューイは殴る、と見せかけて素早くしゃがむ。
「下だ!」
ブレイが叫んだが、もう遅い。
ゾルクが反応するよりも先に、顎へアッパーが綺麗に決まった。
しかし。
一瞬よろけたはずのゾルクは、ゆっくりと身を直す。
「……それで?軽いパンチだなァ、ボウズ」
「く、くそぉッ、化け物め!」
二度までも攻撃が効かなくて、ヒューイはもう打つ手がない。
確かに、顎を叩くのは悪くない戦法だ。
だがヒューイとゾルク、この二人には決定的な差があった。
それは体格の差だ。
ウェイトだけでもゾルクはヒューイの二倍以上ある。
そして、リーチの差。
実を言うとヒューイが顎を叩いた時、ゾルクは一歩身を退いていた。
どんなに急所を狙ったとしても、核をつかなければ意味がない。
軽い奴が重たい奴を倒せるとしたら、それは一撃必殺ではない。
素早さで敵を翻弄し、疲れたところを仕留めるしかないのだ。
「今度はこっちの番だなぁ、ガキィ……」
ぶぉんと風を切り、ぶっとい腕がヒューイの頭上を殴りつける。
間一髪。素早さなら、こっちのほうが上だ。だが――
「おぉっと、お前の相手は隊長だけじゃないぜ?」
よけたはずが足を引っかけられ、ヒューイは情けなく床に転がされる。
間髪入れず、重たい足がヒューイの腹を踏みつぶす。
「ぐぁ!」
叫ぶ彼にはお構いなしに、ブレイは足にかかる体重を増していく。
「う……ぁ、ぁ、あぁっ……!」
苦しい。
腹が、潰れる。
体の中のものを、全部はき出してしまいそうだ――!
知らず、ヒューイの目からは涙が溢れ、頬を濡らしていく。
「全部吐きだしちまえ。臓物も、心臓も」
さらに体重がかけられた。
ごぼり、とヒューイの口から茶色い液が吐き出される。
胃液に混ざって出てきた朝食だ。
吐瀉物のせいで、喉が詰まって息が出来ない。
その時、ヒューイの腹を踏んでいた足が動きを止めた。
「……?」
一拍の間をおいて。
足は勢いよく、ヒューイの腹を踏みつぶした。
「ぐぶッ!」
口から飛び出したのは、今度は吐瀉物ではない。血だ。
内臓が、やられた――?
焼けつくような、激しい痛みが腹から迫り上がってくる。
痛みに耐えきれず、ヒューイの意識は闇の向こう側へと沈んでいった……
「――……ヒューイ、しっかりして!」
再び彼が意識を取り戻した頃には、戦いはあらかた終わっていて。
泣きじゃくるマナルナに抱きかかえられたまま、ヒューイは ぼんやりと己の体を確かめていた。
その、無事を。
続いてマナルナに目をやり、ハッとなって周囲を見渡す。
遠方に、ゾルク。自分のすぐ隣にはブレイが横たわっていた。
ただし二人とも、胴体から真っ二つに一刀両断されていたのだが。
「一体……何が?」
マナルナに尋ねると、彼女は泣くのをやめて こう答えた。
目線をヒューイから酒場の入り口へと移動させながら。
「あの人が……一瞬で、倒してくれたの。あいつらを」
入口に影が落ちている。
影を作っている張本人は、背中に見事な白い羽根が生えていた。
あれはフィスタではないか。
フィスタが、何故ここに?
しかも仲間も連れずに、たった一人とは。珍しいフィスタだ。
彼女は凛と入口に佇んでいた。
手には一振りの美しい剣を携えて。