Devil Master Limited

エイペンジェストの優雅な日々 - 1.ご主人様観察日記

我が主の一日は、遅刻ぎりぎりの遅い目覚めから始まる――


金属の擦れ合う耳障りな音を立てる時計に掌を叩きつけ、バルロッサが喚き散らす。
「あー、もう、こんな時間!どうして!?」
毎朝の日課だ。
毎回寝坊しては、どうして?と自問自答を繰り返している。
バルロッサは朝に弱いわけじゃない。
ただ、夕べは、ちょっと同僚と飲み過ぎてしまったから……
「あー、遅れちゃう、遅れちゃう〜っ」
呪文のように呟きながら、バルロッサがハイヒールを履く。
「猛ダッシュでいくわよ、あと五分!」
自分にハッパをかけて、飛び出していく。
だが必死のダッシュもすぐにガス欠、息も絶え絶えに立ち止まると、バルロッサは悪魔を呼び出した。
「も、もう無理、はぁっ、お願いエイペン、手伝って!」
呼び出された遣い魔は冷ややかな視線で主を一瞥すると、彼女を肩に担ぎ上げる。
「きゃあぁ!?」と予想外の出来事に悲鳴をあげる主へ、エイペンジェストが囁いた。
『本日は七分のタイムロスがあります、急ぎましょう』
「だからって肩に担ぐ事ないでしょーが!せめてダッコにしなさいよ、ダッコにィ!!」
ジタバタ暴れるバルロッサなど意にも介さず、エイペンジェストは彼女を担いだまま人混みの間をスイスイくぐり抜ける。
目的の電車へ飛び込むと、間一髪、背中で扉が閉まって走り出した。
床に降ろされて、ようやくバルロッサは一息ついた。
「……はぁっ。間に合った……」
周囲の人達の視線が突き刺さる。
が、遅刻するよりマシだと彼女は考え、じっと耐えた。
遅刻は許されない。
何よりも誰よりも、己の遣い魔が許してくれなかった。

エイペンジェストとバルロッサは、常日頃から一緒にいるわけではない。
呼び出された時だけ命令に応じる。そういう関係だ。
遅刻しそうな朝と、仕事と、夜の留守番。
それが日々のエイペンジェストに課せられた使命だ。
夜は主が帰ってくれば、お役御免となり魔界で待機となる。
最も大変なのは朝だ。
何が何でも彼女を定刻通りに会社へ送り届けねばならない。
仕事は、どうってことない。
主はエイペンジェストが出来る範囲の仕事しか取ってこないので。
バルロッサは面倒な任務を嫌がった。
ベテランのくせにと蔑まれるかもしれないが、正しい選択だとエイペンジェストは思う。
粋がって、できもしない任務を引き受けて失敗するよりは、確実に完了できるものを引き受けた方がいいに決まっている。
仕事には完璧が求められる。
完璧である以上、誰にも文句は言えない。
自分を使役する者にも完璧でいてもらいたい。
そうしたポリシーを持つエイペンジェストは、バルロッサにも、それを強要した。
朝は絶対に遅刻せず、朝帰りなど絶対に許さない。
親でも、ここまで厳しく躾けないんじゃなかろうかという程の徹底っぷりだ。
しかしながら仕事を円満にこなす為だと思えばバルロッサも強く出る事はできず、仕方なく遣い魔の指示に従っているという有様であった。

ビルの前で立ち止まり、バルロッサが遣い魔を振り返る。
「ここまでで、いいわ。それじゃ、また後で」
『えぇ、お待ちしております。バルロッサ様』
言い終えるよりも早く主の姿は自動ドアの向こうへ吸い込まれ、エイペンジェストは溜息をつく。
けして険悪ではないものの、主と自分の関係は極めて淡泊だ。
たまに、たま〜に、ご褒美と称して、優しくしてくれる事もなくはないが、それにしたって、たまには「送ってくれてありがとう」の一言ぐらいあったって、いいんじゃなかろうか。
ここまでご主人様に尽くしている遣い魔は、自分の他にはいないという自負がエイペンジェストにはある。
加えて、自分ほどご主人様を深く愛している悪魔もいないと少々自惚れていた。
我が主には永久に連れ添う伴侶が、まだいないらしい。
ならば、自分が伴侶になってやろう。
そうだとも、自分こそがバルロッサの伴侶になる資格がある。
そう本気で思っていた。
悪魔としては、比較的珍しい思考である。
大抵の悪魔は人間の女になど興味を持たない。
種族間における美意識の違いがあるからだ。
エイペンジェストはバルロッサに、異性としての魅力を感じてはいない。
抱くなら、やはり同じ悪魔の女がいい。
魅力があるのは性格だ。
完璧にはほど遠い、あの駄目な性格が気に入った。
どうしようもなくワガママで外見ばかりにこだわり、且つ時間にルーズなあの女を会社のトップに立たせる。
それこそが自分の使命だと、エイペンジェストは思いこんでいる。
端から見れば擬態した自分は格好良く見えるのだと、前に主が言っていた。
完璧な二人。美男美女の二人。
これほど見栄えする対象もあるまい。
己の立てた未来図に、知らず笑みがこぼれる。
エイペンジェストは満足げに微笑むと、任務に呼ばれる間の暇つぶしを何処でしようか考えた。
普段なら魔界で待機するのだが、今日は余程急いでいたのか主が忘れてしまったのだ。
彼を魔界へ戻しておくのを。

することは何もなく、さりとて人間界自体に興味があるでもなし。
エイペンジェストの興味をひくのは、もっぱらご主人様のバルロッサぐらいなもので、結局彼が落ち着いたのはCommon Evilの真正面に立つビルにある喫茶店だった。
ここからだとCommon Evilのビル内部が、よく見える。
もちろん人間の視力では、顔形の認識までは無理だろう。
だが、悪魔なら。
バルロッサは忙しく走り回っているようだ。
この喫茶店が、ちょうど彼女のいる部署の真向かいだというのは以前より調べてあった。
声までは、さすがの悪魔でも聞き取れない。
しかし唇の動きを読めば、何を言っているのかは大体判る。
主は移動の途中で赤毛の男と出会い、話をしていた。
――あら、エイジ。社内で会うのは久しぶりね?
バルロッサに微笑まれるとは幸運な男だ。
エイジが答えた。
――そうですか?先ほど依頼を終えて戻ったばかりです。
にこりともしない。
我が主を前にして、無愛想な輩だ。
――どんな依頼だったの?
と尋ねるバルロッサに、やはり無愛想な表情でエイジが答える。
――大した内容じゃありません。それに我々には守秘義務もある、忘れたんですか?
口調は丁寧ながらも、いちいち棘が刺さる物言いにエイペンジェストはムッときた。
丁寧に話すからには、エイジはバルロッサより下にあたる存在なのだろう。
なのに、この生意気な態度は、どうなのか。
魔界ならば、八つ裂きにされても文句は言えない。
しかし主は全く怒っておらず、むしろポォッと頬を赤く染めエイジを見ているではないか。
――ちゃんとルールを守っているのね、さすが我が社のホープ兼エリートさん!
嬉しそうに褒め称えていて、それが余計に腹立たしい。
バルロッサに対する怒りじゃない。エイジに対してだ。
バルロッサに褒められるのは自分だけの特権だ。
許せない、あの赤毛が。
――エリートでもホープでもなくても、それが社会人としての常識でしょう。もう、いいですか?行っても。
刺々しいエイジに怒る事なく、バルロッサは上機嫌で彼に話しかける。
――ねぇ、エイジ。つらいことがあったら何でも相談していいのよ?私達、出来る限り、あなたの力になりたいの。
エイジの目が冷ややかにバルロッサを捉え、数秒後、彼は頷いた。
――判りました。その時が来たら、お願いします。
言葉だけは丁寧に返すとエイジは自分の席へ戻ってゆき、バルロッサは、ほぅっと溜息をついて通路で彼を見送った。
――はぅん、エイジってばクールなんだからぁ……あれでまだ二十歳そこそこだなんて、おいしすぎるっ!
何がおいしいのやら、両手を口元にあててフルフルと首を振り興奮している。
――唾つけるにゃあ遅すぎるんじゃねーの?どうせなら入社直後にやっとかなきゃ。
横合いから茶々を入れてきた同僚には、冷たい目線で主が言い返す。
――バカね、それじゃ下心丸出しじゃない。ああいう生意気なコを落とすには、メジャーになりたてな時期がちょうどいいの。
――どっちにしろ下心全開じゃねーの?
――うるさいわね!あんたに言われたくないわよ、ミューゼに粉かけて壮絶にフラれていた、あんたには!
――ゲェッ!お前、どこでそれをッ!?
延々と続く言い合いには興味も失せ、エイペンジェストは窓から視線を逸らす。
それにしても、許せない。
エイジといったか、あの人間。
バルロッサは、えらく気に入っているようだが、一体何が気に入ったのだ。
あんなの全然格好良くもないしクールでもない。
赤い髪の毛など珍妙だし、態度にしたって意地悪で生意気なだけじゃないか。
なにより、バルロッサが微笑んで身を寄せていいのは自分だ。
エイジじゃない。
我が主の側に立つ者は、それが例え会社の上司であったとしても許せなかった。
手にした紅茶のカップが、かたかたと音を鳴らしていて、それも気に障る。
『えぇい、静かにしろ!』と怒鳴ってから、エイペンジェストは気がついた。
音が鳴るのは、自分の手が震えているからだと。
エイペンジェストは優雅に席を立ち、カウンター越しに店員へ話しかける。
『勘定を』
「は、はい……五百六十ベイトになります」
財布から小銭を取り出して支払うと、悪魔は、すっかり静まりかえった喫茶店を後にした。