Dagoo

ダ・グー

11.おいぬ様

閑静な住宅街の側に、その私立高校は立っていた。
静まりかえり、人っ子一人いない――はずの夜の校舎屋上にて。
空を背に立つ少年の姿が、一つ。
少年は耳に携帯電話を押し当て、誰かと話していた。
「あぁ、俺だ。こっちはハズレだ、近々別の学校へ移動する。そっちの首尾は、どうだ?……おかしな人間に邪魔された?」
片眉を跳ね上げ、少年がせせら笑う。
「人間如き、さっさと振り切れよ。それができないアンタじゃあるまい」
ひとたび、沈黙。
相手の話に耳を傾け、しばらくして少年は答える。
「……仕方ねぇな。俺もそっちへ行く。あぁ、それと。その人間、俺も興味がわいてきたな。俺が行くまで、奴らを片付けるのは待ってもらおうか」
携帯電話の灯りが消える。
屋上は闇に包まれた。


朝の校舎は、子供達で賑わっている。
ホームルームが始まるまでの時間は、彼らの雑談タイムだ。
今一番注目されている旬の話題が、転校生であった。
「ねぇ聞いた?今度、うちにくる転校生」
「聞いた、聞いた〜!星城から来るんでしょ」
「どうして、うちに来るんだろうね?レベル全然違うじゃん」
「引っ越しじゃないのォ?或いは親の単身赴任とか」
「でも、白鳥コンツェルンの一人息子でしょ?単身赴任は、ないんじゃないかなぁ〜」
……といった具合に。
秋も半ばの今頃に、転校生というのも珍しい。
しかも、転校してくるのは大企業の息子だ。
これまでセレブ高校に通っていたような相手である。
どんな子なんだろう?
格好いい?それとも、美少年?
何しろ息子だ、親ではない。
親の写真は何十枚と撮られていても、息子は一枚もない。
写真がないとあっては、皆の期待も無駄に膨らんだ。
「なんでも、義理の息子ってハナシだよぉ」
「へぇ〜、そうなんだ。よく知ってるね?」
「週刊誌に書いてあったの」
「義理でも何でもいいっ!お近づきになりた〜い」
「あんたじゃ友達止まりがせいぜいだって」
「何だと、このぉ〜」
女子なんかはもう、大はしゃぎである。
一、二年がはしゃぐならまだしも、受験を控えた三年まで一緒になっているんだから、おめでたい。
そう思いつつも、龍騎は不安を隠せずにいた。
完膚無きイケメンな自分にも、一つだけ足りないものがある。
それは『金持ち』のスキルだ。
こればかりは親の財産がモノをいうので、如何ともし難い。
もし転校生がイケメンで文武両道だったら、どうしよう。
自分の地位も揺らぐのではないか――?
いやいや、自分は今年卒業だ。
それに転校生は二年だというし、三年での人気は不動だろう。
そう何度自分を落ち着かせようとしても、やはり落ち着けない。
高校を卒業するまで人気者の地位を守りたい。
それが、淀塚龍騎のポリシーである。
人気者になるまでの道のり、けして彼は努力を怠らなかった。
歌が上手くなる為にカラオケやレッスンへ何時間も通い、運動神経抜群になる為に影で血の滲む特訓をした。
そんな彼が何故、緑秋吉などという小者を虐めたのか?
――なんてことはない。
ただのストレス発散である。
無茶な努力は、すればするほど鬱憤も溜まっていくものだ。
無抵抗で素直な秋吉は、とても虐めがいのある相手だった。
最初は申し訳ない気持ちが多少龍騎の中にもあったのだが、イジメがエスカレートしていくうち気にならなくなっていった。
一学期の最後に、裸写真をばらまこうと提案したのは龍騎じゃない。
森垣正一だ。
やつは、とても秋吉を嫌っている。
憎んでいると言い換えても、よいぐらいだ。
裏サイトに書き込まれていた秋吉への中傷は、半分以上が彼の仕業じゃないかと龍騎は疑っている。
それぐらい森垣の秋吉への粘着心は強く、龍騎も内心ドン引きしている。
どんな恨みがあるのかと聞いても、いつも返事をはぐらかされた。
だが、それが学園生活の中で起きたのだというのは想像に容易い。
大方、何かに誘って断られた。
或いは大勢の前で、そいつに恥をかかされた。
その程度だろう。
その程度で、粘着性のある人間は他人を一方的に逆恨みする。
森垣とは、そういった男であった。
――ホームルーム開始のチャイムが鳴り、龍騎は現実へ引き戻される。
女子の雑談は、とっくに終わっていた。
壇上では女教師が、噂の転校生について話している。
有名企業の息子だからといって、虐めたり差別しないように。
そんな馬鹿げた注意事項に、クラスの連中もクスクス笑っている。
馬鹿馬鹿しいと龍騎も思った。
金持ちの息子を差別する奴なんて、この世にいるわけがない。
金持ちとは仲良くしたほうが得だって、皆も、よく知っているのだから。


その日の昼休み。
ダグーは普段の業務時間より、早めに来ていた。
生徒達がいる時間じゃないと、出来ない用事がある。
秋吉の依頼を引き受けてから一ヶ月近くが経とうというのに、未だ一人も虐めっ子達と接触できていない。
それでも、今日は何か収穫があるんじゃないかと期待している。
夕べ、自分の仕掛けたトラップだ。
あれが上手く発動すれば、虐めっ子の一人と接触しやすくなる。
裏庭に回るやいなや、威勢の良い平手打ちが響いてきた。
「バカ!もう、信じらんないッ。サイテー!」
甲高い女の子の罵声、そして走り去る足音。
後に残るのは、打たれた頬に手をやり呆然と佇む少年の姿。
顔を見て、すぐに誰だかダグーには判った。
顔中に浮かんだニキビの跡。雪島仁志だ。
では、先ほど駆けていったのは剣道部のマネージャー?
口論になって、真宮愛理がキレて雪島をブッ叩いて逃げた。
そう考えるのが自然か。
「なんだよ……なんで俺が怒られるんだよ……」
雪島は、ぶつぶつと口の中で、ぼやいている。
「キレたいのは、こっちだよ……クソォ」
空いている片手をズボンのポケットに突っ込むと、紙切れを取り出した。
夕べ、ダグーが彼の机に忍ばせた偽のラブレターだ。
雪島は憎しみの眼差しで手紙を見つめ、グシャグシャと握りつぶす。
「誰だよ、こんな手紙……チックショォォォ!」
腹立ちまぎれに、勢いよく丸めた紙切れを地面に叩きつけた。
ふと、少年とダグーの視線がかち合う。
「んッだよ、見てんじゃねーよ」
さながら不良の如き因縁をつけてきた雪島に、ダグーは微笑んだ。
「ごめん。だって君が、とても悲しそうに見えたから……」
ダグーと正面から向き合い、雪島は初めの頃こそ険悪な表情を向けていたが、やがてポカーンとなり、頬に朱が差したかと思うと慌てて視線を外した。
「べ、別に悲しんでなんかいねーし!」
「でも、怒っていたよね。その頬、誰かに殴られたのかい」
そっと腕を取って赤くなった頬を見ようとすると、雪島は後ずさって遠慮する。
「へ、平気だし!大体あんた、なんでそんな俺に構ったりするワケ?あんた、何者だよ」
視線は相変わらず明後日を向いているし、声が上擦っている。
この反応、女の子にフラレた直後にしては、少々おかしいのではないか。
それに気づいて、ダグーも首を傾げるが。
ダグーがおかしいと思った以上に、内心激しく動揺していたのは本人だった。

おかしい。どう考えたって、おかしい。
なんだって俺、こんなオッサン相手にドキドキしてんだ?
オッサンの目をまともに見られない。
見たら、またカーッと全身の血が顔に上ってきて真っ赤に茹で上がりそうだ。
なんでドキドキしているのかは判らない。
でも、なんだろう、この気持ち。
部活で愛理を眺めている時と同じ気持ちが、胸にいっぱい溢れている。
馬鹿な。
愛理とオッサンじゃ月とすっぽんだ。
同等に並べるなんて、頭がおかしい。
俺、おかしくなっちゃったのかな。愛理にふられたショックで。
やだなぁ……

目の前の男から目をそらして思考を彷徨わせているうちに、少し前の光景が雪島の脳内にフラッシュバックしてくる。
手紙で呼び出されたのだ。
差出人は愛理になっていた。
伝えたいことがあるから、裏庭に来て欲しい。
用件がなんなのか雪島には見当もつかなかったけれど、愛理の誘いとあっては、すっぽかすわけにいかなかった。
彼女は一年の頃、もっと遡れば入学式の頃から目をつけていた女だ。
他の女どもとは違って、当時から愛理はズバ抜けて可愛かった。
可愛いのは顔だけじゃない。
剣道部のマネージャーに収まった彼女は、世話好きな性格を明らかにした。
あっという間に友達に囲まれるようになった愛理を見て、俺の選択眼は間違っちゃいないと雪島は何度も思ったものだ。
ただ、彼女は思った以上に人気者になりすぎて、近づけるチャンスが、なかなかなかった。
二年になり三年になってもガードが堅く、かといってカレシの気配もなく、それが今年になって突然のお手紙を貰ったのである。
舞い上がらないわけがない。
喜び勇んで会いに行ってみれば、彼女の第一声に夢を打ち砕かれた。
「えっ?どうして雪島くんが来るの」
「どうしてって、真宮が呼んだんじゃないのかよ」
「あたしが?呼んでないよ」
お互いの事情を説明するところから始まって、何がどう、こじれたのやら、途中で口喧嘩にもつれ込み、そして遂には愛理の癇癪が炸裂して、先ほどのパーン!である。
平手打ちと一緒に、最低なからかい行為をする男の烙印が雪島に刻まれた。
もちろん、手紙を出した覚えなんて雪島にもない。
手紙を出せる勇気があったなら、もっと前に出している。
一体誰だ。自分達をだまし討ちの目に遭わせたのは。
愛理を狙っている連中か?或いは、龍騎の親衛隊?
どちらにせよ、許せない。
悔しさにギリギリと歯がみして顔を上げた雪島の前に、不意にダグーの顔が出現して、彼は心臓が飛び出るほど驚かされた。
「歯は……折れていないみたいだね。赤く腫れ上がっているから心配したけど、大丈夫そうだな」
至近距離で覗き込まれ、瞬く間に雪島の顔が真っ赤に染まる。
「うっ、うっ、うわぁっ!!な、何近寄ってきてんだよッ」
後ずさろうとして転びかけた雪島の腕を「おっと」と片手で掴み寄せ。
「挨拶が遅くなったね。俺は蔵田、この学校で雇われている警備員だ」
にっこりと微笑みかけると、雪島は喉をグビビと鳴らした。
「け、警備員……?」
「そう」
「じゃあ、あんたが女子の噂していた……?」
「女子の噂って?」
素早くダグーの腕から逃れると、雪島は体勢を取り繕う。
「噂になってんだよ、イケメンの警備員が入ってきたって。なんか色々と質問ってか話を聞かれるだけなんだけど……み、見つめられると……」
「見つめられると?」
じっと見つめたら、雪島は泡くって、さらに後方へと距離を置く。
「ドッ、ドキドキするんだって言ってたんだよ、女子が!」
「ふぅん」と気のない相づちを打っておいて、ダグーは最初の話に戻った。
「それより、君はさっき何で――」
だが雪島が、話の続きをさせてくれなかった。
「うるせーよ、何でもねぇよ!あぁ、もう!わけわかんねーよ!!」
こっちが訳も判らずポカーンとする勢いで、少年は走り去っていった。
「……なんだって言うんだ、全く」
予想外の反応に、すっかり予定が狂ってしまったダグーである。
傷心の雪島に近づいて、心を開かせるつもりだったのに。
「別の手を考えるか。と言ってもなぁ」
うぅむと腕を組んで歩きながら、ダグーが向かうのは用務員室。
今日は魔族捕縛のアイディアを皆で考える予定だ。
毎回ガラスを割って逃げられていたんじゃ、たまったもんじゃない。
せっかく人数もいることだし、何らかの策が必要だろう。
皆が集まってくるのは、放課後だ。
それまでに、確認しておきたいことがある。
ダグーは携帯電話を取り出すと、佐熊に連絡を取った。


用務員室で仮眠を取っている間に、夜になった。
「おぅ、お早い出勤じゃねーか。JKでもナンパしてたのか?」
御堂にからかわれ、ダグーは備え付けの水道で顔を洗う。
「冗談じゃありませんよ、別件です」
「別件?」
興味を示してきた大原へは曖昧に誤魔化すと、ダグーは本日の見回りを始める前に本題を切り出した。
「本来の仕事を全うする為にも、早いトコ不法侵入者を、なんとかしなくてはいけません」
「そりゃ、お前に言われなくても判ってるっての」
さっそく茶々を入れてくる山岸を、大原が軽く窘める。
「まぁ、待て。そいつを切り出すってことは蔵田には良い案があるんだろ?奴らを捕まえる為の」
「その通りです」
強く頷き、ダグーは先を続けた。
「見回りは通常通り大原さんと山岸さんで行って下さい。残りの皆は、捕物帖に参加してもらいます」
「けど見回りってなぁ三箇所やるんだろ?それに、見回ってる間に遭遇したら、どうするんでぇ」
御堂からの横やりにも、ダグーは頷いて言った。
「そうです、問題は山岸さんと大原さんのどちらかが奴らと遭遇した時です。その時は、これを使います」
ダグーが懐から取り出したのは、小さくて丸い物体だ。
「なんじゃこりゃあ?」
つまみ上げて、御堂が首を捻る。
自信満々にダグーは答えた。
「発信器です」
「発信器!?探偵漫画で、よく見かけるアレか!」
と、探偵が驚いていちゃ世話がない。
「なるほど……これをキエラかクローカーに投げつけて追跡しようという腹ですね。しかし、そう簡単にくっつきますでしょうか」
犬神の疑問に、ダグーはひっくり返して裏面を皆に見せた。
裏にはマジックテープが接着してある。
「何度か投げて試してみたんだ。ちゃんとくっつくよ」
そう言いながら、ダグーがエイッと投げてきた。
自分の袖にくっついた発信器を見て、犬神は微笑む。
「これを緊急で投げられる余裕が、お二人にあれば完璧ですね」
「あぁ?おぉよ、投げてやろうじゃんか、ねぇ大原さん!」
喧嘩を売られたのかと勘違いしたか、山岸が鼻息を荒くする。
「しかし発信器なんざぁ、よく入手できたもんだな」
カラカラと笑う御堂へは、佐熊が答えた。
「まぁ、独自のルートを持っていますので」
「何?こいつぁオメーが入手してきたってのか」
てっきりダグーが用意した物だとばかり思っていたのだろう。
驚いたのは御堂だけじゃない。犬神もだ。
「えぇ。この間の欠席は、これの取り寄せの為だったそうです」
ダグーに褒められ、佐熊は薄く笑った。
「俺としても、こんな仕事は早く終わらせたいですからね」
「で、だ。俺達が出会った時は発信器を投げるとして……お前らが出会った時は、どうするんだ?現行犯逮捕か?」
大原に尋ねられ、ダグーが頷く。
「はい。全員で取り囲めば取り押さえられるんじゃないかと」
「けど、そんな簡単に取り囲めるもんかねェ」
御堂は半信半疑だ。
今まで黙っていた笹川が、ハイッと勢いよく手を挙げた。
「蔵田ちんが囮になって、おびき寄せればいいと思うの」
「何で蔵田が?」と、山岸。
すると笹川は、いやらしいスケベ笑いを浮かべて答える。
「クローカーちんは知らないけど、キエラちんなら囮の役目は充分果たせると思うのよねん。体育館倉庫で素っ裸になってマットの上で誘いをかければ」
御堂、山岸、大原の声が一斉に重なった。
「なんじゃそりゃあ!?」
「ホモかよ!?」
「やるならJKだろ!」
ただ一人、犬神だけが冷静に受け止める。
「囮作戦は危険です。蔵田さんに、もしものことがあったら笹川さんは、どう責任を取るおつもりですか」
もっともな意見だ。
ニヤニヤ笑いのまま黙った笹川を横目に、御堂が話を締める。
「となると、やっぱ見つけたら大勢で飛びかかるしかねぇか」
「そうですね」
佐熊も同意し、作戦会議は終わりを告げた。


「それじゃ見つけたら、とにかく発信器を投げつけて下さい。なるべく彼らの衣服にくっつくように」
「あぁ、わかった」
警備員の両名と別れたダグー一行は、東校舎を巡回する。
東校舎は、これまでもダグーの持ち回り範囲だった場所だ。
これまでクローカーとキエラの両方に遭遇したのも、ダグーだけだ。
「ダグーちんには奴らを惹きつける魔力があるのかもねぇ」
笹川が、ぼそっと呟いた。
「それだけじゃない、君には俺も惹かれる何かが」
「ナンパは時と場合を考えてやって下さい」
静かに遮ってきたのは犬神だ。
口元は微笑んでいるが、目がまるっきり笑っていない。
「いやぁ、ナンパとは恐れ多い!」
何が恐れ多いのか、笹川はケラケラ笑った後に付け足した。
「どうせナンパするなら女子高生をナンパしますわぃなー」
「で、何の魔力がコイツにあるってんでぇ?」
続きを促してきたのは、御堂だ。
笹川も真面目に戻り、探偵の問いに答えた。
「だから、人を惹きつける魔力がだね」
「魔力?魅力ではなく」と、犬神。
最後方を歩く佐熊が鼻で笑った。
「俺には魔力も魅力も感じませんがねぇ」
「そりゃー君が鈍感なだけだろィ」と、笹川も真顔でやり返す。
「俺の霊感が告げているんだよ、君は他の奴らとは違うって」
今度は霊感ときたか。
悲しいかな、笹川が何か言えば言うほど胡散臭くなってくる。
「俺の霊感にビビンときたんだよ、ビビンと!他の人間にはない魔力というか魅力というかトキメキを」
「もう、いいです」
しまいにはダグー本人が、彼のおしゃべりを遮った。
「俺に好意を持ってくれたのは嬉しいです。けど特別扱いは、やめて下さい。俺は本当に只の人間です」
「そうかなぁ」
まだ笹川は持論を曲げない様子であったが、構っていられるかとばかりに佐熊も御堂も雑談を切り上げた。

静かな廊下に、五人の足音だけが響く。
沈黙に耐えられなくなってきたのか、再び御堂が話し始める。
「なぁ、これ、全部空振りに終わったら、どうするんだ?」
苦笑しつつも、ダグーが御堂へ応える。
「空振りに終わるなら、それに越したことはないでしょう」
それに、と更なる雑談を続けようとした時、不意に犬神が手を伸ばし、口には出さずに「しっ」と皆を制した。
「……どうした?」
そろりと尋ねる笹川に、目線はまっすぐ廊下の先を見つめたまま、犬神が小さく答える。
「気配を感じます、異形の気配を」
「おいでなすったか」
指をボキボキ鳴らす御堂を素早く睨むと、犬神はダグーを促す。
「一気に飛びかかりますか?それとも、このまま何も気づかないふりをして近づきましょうか」
それに対するダグーの決断は、早かった。
「いや……一気に間合いを詰めて、取り押さえよう」
遭遇三回目ともなれば、向こうも警戒しているだろう。
否。もう、こちらの気配に気づかれたかもしれなかった。
だが、気づいていたとしたら、逃げないのは何故だ?
――答えは、すぐに出た。
月明かりに照らされたのは白髪の青年でも黒服の男でもなく、まさに"異形"と呼ぶしかない生き物が立っていた。
服を纏わず、全身が緑のボツボツした鱗で覆われている。
横に潰れた顔には横一文字に口が裂けており、頭に毛は一本もない。
腹がでっぽり膨らんでおり、足は細く、短い。
そいつが不快な鳴き声を発しながら、夜の廊下に立っているのである。
デキの悪いホラーでも見ているような気分だ。
「なっ、何じゃありゃあ!?」
御堂が叫んで、青ざめる。
つくづく大原と山岸を別行動させていて良かった、とダグーは思った。
いや、自分だって一人だったら逃げ出していたかもしれない。
皆と一緒で、本当に良かった。
青ざめているのは御堂とダグーぐらいで、佐熊と犬神は平然としている。
笹川に至っては平常心、口元には余裕の笑みまで伺える。
「なるほど、召喚も出来るのか。なかなか高位の魔族だねぇ」
「しかも、あれを廊下に呼び寄せたということは」
犬神の言葉を引き継いで、笹川が不敵に笑った。
「俺達を始末する方向へシフトしたってわけね。上等、上等」
さっそく印を切ろうとする彼を止めたのは、犬神だ。
「法術を使うまでもありません。ここは僕にお任せ下さい」
「そう?」と、意外やあっさり笹川も引き下がる。
「んじゃあ、任せたよん」
犬神は小さく頷くと懐から小さな箱を取り出し、蓋を軽く叩く。
「おいぬ様、おいでませぃ」
彼が低く呟いたのと、箱から何か黒いものが一瞬で飛び出してくるのと、果たして、どちらが先であったのか。
そして、出てきた黒い何かが緑の怪物に食らいついた――
と思う暇もなく箱の中に引っ込んで、辺りは何事もなかったかのように静まった。
「さすがだねぇ」
ニヤニヤ笑う笹川に、犬神も優雅に微笑む。
「どういたしまして」
御堂は青ざめて一歩も動けずにいたが、硬直が解けたのかヘナヘナと腰を落とす。
乾いた声で、ぽつりと呟いた。
「あ……あれが、おいぬ様、か?」
「えぇ、そうです」と答えるダグーも、へたり込んでいる。
異形の怪物と、犬神の出した『おいぬ様』に、すっかり気圧されていた。
へっぴり腰な二人を、佐熊が冷笑する。
「大丈夫ですか?お二人とも。下っ端召喚相手にそのような弱腰で、魔族と本当に戦うつもりですか」
すぐさま威勢良く、御堂が怒鳴り返した。
「う、うるせぇっ!初めてだからチョット、びっくりしただけだ!」
ダグーも冷や汗をぬぐい、よろよろ立ち上がると犬神へ近づいた。
「いつもながら、すごいね……君が味方で良かったよ」
「本当に?」と犬神が聞き返してくるので、ダグーも笑顔で頷く。
「本当に」
すると犬神は、とても嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。あなたのお役に立てるのが、僕の喜びですから」
そこまで言われるのは、少々恥ずかしい。
「宣戦布告というわけですか」
佐熊が静かに言うのへは、笹川が応じる。
「奴ら、なんでか知らんが逃げ回るのは止めたみてーだな。ま、次に会った時が年貢の納め時ってやつさ」
二人とも強気だ。
加えて犬神のおいぬ様があれば、負ける気がしない。
それでもダグーを不安にさせる要素があり、そいつがぬぐえない。
笹川は、さっきの緑色を『召喚』と言っていた。
つまりはクローカーかキエラが呼び出した魔物であろう。
召喚は一匹ずつなのか、それとも一気に複数呼び出せるのか?
もし、後者だとしたら面倒な事になりそうだ。
捕物帖が一気に倍増ししたような気分になり、盛り上がる皆を余所にダグーは憂鬱な溜息を吐きだした。
元来、心配性なのだ。ダグーという男は。


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