Dagoo

ダ・グー

6.長い別れ

それから何回も季節が変わり、何回も引っ越しを重ねて、年号が遂にミレニアムを過ぎた、ある日のこと。
春うららかな日差しが差し込むキッチンで何気なく漏らしたダグーの一言に、ヴォルフは目をひん剥いた。
「先輩、俺、近いうち旅に出ようと思っているんだ」
「旅だって!?まさか、一人で行くつもりじゃないだろうな」
「その、まさかですよ」とダグーは笑い、パンにバターを塗り込んだ。
「ずっと忘れていた事を、この間思い出したんです。こんな大事なことを忘れていた自分に呆れましたよ」
一体何を思いだしたんだ?と凝視するヴォルフの前で、ダグーが語る。
「フェンリルの娘ミンディを探しにいかなきゃいけない。アイリーンに言われていたんです。でも俺は先輩と出会った安心で先延ばしにしているうちに、すっかり忘れてしまったんだ。アイリーンの事さえもね」
忘れていたのなら、今後もそのまま先延ばしにしてしまえばいい。
そうヴォルフが言い返すと、ダグーは苦笑して窓の外を眺める。
「そういうわけにもいかないですよ。それに、いろんなことを覚えた今なら、フェンリルの娘が何者なのかも朧気に予想できる」
「誰だか判ったのか!?」
今は昔と異なり、インターネットの普及によって遠方の情報も即入手できるようになった。
フェンリルの娘も、もしかしたらインターネットに情報が載っていたのかもしれない。
いきり立つヴォルフを手で宥め、ダグーはかぶりを振った。
「誰なのかまでは判っていませんよ。ただ、何者なのかが判ったんです」
「ほぉ。何者だったんだ?」
ヴォルフは首を傾げる。パンに一口かじりついてから、ダグーが答えた。
「人狼だと思います」
「人狼!?俺達と同じ人狼だってのか、ミンディは!」
頷き、ダグーが手を伸ばして机の脇に置いてあったタブレットを引き寄せる。
指で突くとウィキペディアのページに接続し、『フェンリル』の項目を表示した。
「と言っても、フェンリル自体は人狼ではないんですけどね。これによるとフェンリルは狼の姿をした巨大な怪物、とされています。そのフェンリルの『娘』を名乗っているからには、ミンディも狼に関連する人物なんじゃないかってのが俺の予想で」
ページをスライドして読み進めながら、ヴォルフは呟いた。
「フェンリルを信仰する宗教ってのも考えられるか……アイリーンなら、もっと詳しく知っているんだろう。なんせダグーに直接教えた相手だからな」
真面目な顔でフェンリルの画像を眺めながら、ダグーも相づちを打つ。
「えぇ。アイリーンは俺にミンディの存在を教え、先輩が暮らす過去に俺を送り込んだ」
ダグーとヴォルフが出会ったのは、ヴォルフがラーコーツィ・ジェルジ一世の遺品を探していた頃だ。
財宝の中には没収もれもあると聞きつけ、森の中を採掘している時に、ふらふらになったダグーと出会ったのだ。
もしミンディが人狼なら、あれから百年以上経った今でも生きているかもしれないが、しかし――
「もう死んどるんではないか?」というのが、まっとうな意見であり、ヴォルフの意見でもあった。
だがダグーときたら頑固に首を真横に振り、「俺は生きているほうに賭けます」と突っぱねた。
「どうして、そう思う?」
食い下がる先輩に、後輩も眉をややつり上げて答える。
「アイリーンは、こうも言っていたんです。あんた達が生き続けていてくれたら、またどこかで会える日が来るかもしれない……って。アイリーンも人狼だった可能性が高いんじゃないでしょうか。そして俺を預ける先のミンディも、また」
「だが何年後に会おう、という約束ではなかったんだろ?なら、百年も後とは限らないじゃないか」
「そうですね」と一旦は素直に頷き、しかしダグーはこうも続けた。
「ですがアイリーンは俺とシヅが何者かを知っていたフシがあります。彼女は、俺達が狙いだったんですから」
人狼の子供達を預けるからには、それなりに長寿で、且つ秘密を守れる者に任せるべきだろう。
共通の秘密を持つ者のほうが、より信頼しやすい。フェンリルの娘も人狼であると考えるのは妥当だ。
「長寿だと知っている上で、また会おうって言ったんです」
「長生きしろよって意味だったんじゃないのか」
まだヴォルフは反論したのだが、ダグーはゆっくりと二回首を真横に振り。
「それなら、そういうと思いませんか?そうじゃなくて会おう――長い年月の末の再会を、彼女は考えていたんじゃないでしょうか」
「まぁ、しかし、だ」
旗色の悪くなってきたヴォルフは話の矛先を替えた。
「お前は事実上、俺に保護された。そして現在に至るんだが、今更不都合でもあったのか?」
「不都合、とは?」と、今度はダグーが首を傾げる番だ。
ヴォルフは、むっつりと言い足した。
「今更ミンディの話を持ち出すなんて、俺の元じゃ不満だと言っているようなもんじゃないか」
「違いますよ!」と、些か慌ててダグーが弁解する。
「会いたいんです、アイリーンに。なんたって、俺を外に連れ出してくれた恩人ですからね。それに……」
「それに?」
ジッとヴォルフを見つめて、ダグーは微笑んだ。
「アイリーンが外へ連れ出してくれなかったら、俺は先輩と会うことも出来なかったんです。そういう意味でも、彼女は恩人ですよ。その恩人に、まだお礼を言っていません」
ふむ、と唸り、ヴォルフは腕組みをする。
何を言おうと止めようと、ダグーがアイリーンを探しに行くのは止められないようだ。
いつもは従順な彼が、ここまで自分の主張を推し進めてくるぐらいだからして。
もう反対するのをやめて、ヴォルフは尋ねた。
「アイリーンやミンディに会って、それで、どうするつもりだ?」
「アイリーンに会ったら、お礼を言って、どうしてミンディの元へ行けと言ったのか尋ねます。それを聞いたら、ミンディの元へも行ってみようかと」と、ダグー。
「ん?先にアイリーンを探すのか」
ヴォルフが聞き返すと、ダグーも頷いた。
「はい。ミンディの元への手がかりは一つもないですから」
それを言ったらアイリーンだって手がかりは一つもないのではないか。
そうヴォルフが突っ込むとダグーは口の端を歪め、タブレットを取り戻すとメール画面に切り替えた。
「アイリーンに関しては、だいぶ前から独自に情報を集めていました」
メールボックスを見せられ、ヴォルフは再び目を剥いた。
メールが何重通と届いており、そのどれもが件名にアイリーンと入っているではないか。
情報の多さもさることながら、ダグーがいつの間にか自分の知らない場所で他人と連絡を取り合っていたことに一番驚かされた。
何をするにもヴォルフの後を追いかけ、ヴォルフの目に入る範囲では他に親しい人もいなかったはずなのに。
「今は便利ですよね。SNSに登録して呼びかければ、すぐ目的の情報が手に入るんですから」
ソーシャル・ネットワーキング・サービス、略してSNSにまで手を出しているという。
近代文明には、どうにも馴染めず手を出し損ねていたヴォルフである。
ダグーの溶け込みっぷりに、内心舌を巻いた。
彼が何も知らない純真無垢だった時代はヴォルフの知らない間に、とっくに終わりを告げていたようだ。
今のダグーは自分で何でも出来る子だ。
もしかしたら、一人でも旅が出来て当然なのかもしれない。
「お前は、よく平気で使えるなァ。俺には、どうにも怖くて手が出せんよ。ネットってやつぁ得体が知れなくて」
ヴォルフが正直な感想を漏らすと、ダグーにはキョトンとされる。
「どうしてですか?ネットは便利ですよ。顔を見なくても知らない人と話が出来ますし」
ヴォルフは、どちらかというと生身で実際に会って話をするほうが得意だ。
相手の考えている事は表情を見れば大体判るし、目は嘘をつかない。
「顔が見えないんじゃ、相手が腹の底で何を考えているんだか判らんだろう。お前は、それが怖くないのか?」
さらに突っ込んで尋ねると、ダグーは少し目を伏せ囁いた。
「顔の見える方が怖いんです。相手が本当は俺をどう思っているのか、判ってしまうのが」
でも知りあいとなら平気ですよ、特に先輩とはね。と締めくくった後輩を見て、ヴォルフは思案する。
一人旅も大丈夫かと思ったが、どうやら見当違いの過大評価だったようだ。
ネットでしか話せない、他人の顔を見て話せない奴を一人で旅立たせて大丈夫なんだろうか?
ヴォルフの心配など素知らぬ様子で、ダグーは言った。
「集まった情報を総合してみると、アイリーンらしき人が日本にいるそうです。もちろん人違いの可能性が高いですけど、ダメ元で、まずは日本へ向かってみようかと」
日本――と聞いて、ヴォルフは首をひねる。
トレジャーハンティングでは一度も赴いたことのない場所だ。
住民のイメージすら浮かばない。
地図の上では韓国の隣にある、ちっぽけな島国である。そんなところにアイリーンが?
「ふむ、まぁ……えらく長旅になるぞ?」
「構いません。船旅も飛行機も、慣れていますしね」
そう言って笑うダグーの表情は、屈託がない。
一人で旅するのは怖くないのか?と尋ねても、ダグーは笑って相手にしない。
「俺を幾つだと思っているんです。もう子供じゃありませんよ」
なおも切符を一人で買えるのか心配する先輩を遮り、ダグーは上目遣いに見つめると。
「それより……俺がいない間、浮気しないで下さいね」
ほんの少し、頬を赤らめた。
予想外のお願いに、ヴォルフは思わずウッと言葉を詰まらせる。
浮気するな、だと?するはずがない。
ヴォルフはダグーしか目に入っていないというのに。
初めて手を出した、あの日から、ヴォルフがダグーに手を出さなかったかというと、そんなことは全くなく。
夜ごとの愛撫を一日たりとて欠かした日はない。
自分でも少々鬱陶しいと思えるぐらい、日夜ダグーを構っている。
「余計な心配するんじゃない。俺よかお前だ、お前こそ旅先で浮気なんかしたら承知せんぞ?」
「しませんよ。俺の好きな人は生涯先輩ただ一人です」
ヴォルフの体にぎゅっとしがみつき、ダグーは目を閉じる。
熱っぽく、逞しい先輩の肉体。汗の臭いと雄々しい雄の体臭がダグーを包み込む。
もうすぐ、この肉体ともお別れだ。
当分、いや、もしかしたら数十年ご無沙汰になるかもしれない。アイリーンの足取りを見つけるまで。
自分は、この人と別れて行動が出来るのか?
だいぶ前からダグーは考えていた。
アイリーンのことも、昨日今日で思い出したんじゃない。
ずっと悩んで、やっと今日、答えを出した。
やはりアイリーンには会いたい。ミンディの謎も、できれば解いておきたい。
判らないものを判らないまま放っておいたら、きっと自分は後悔する。
全て自分のことだし、先輩を巻き込むのは気がひける。だから一人で旅立とうと決めた。
こういうのはきっと、早いほうがいい。チケットさえ取れれば、いつでも出かけられるはずだ。
別れの日を想像したら、きっと自分は泣いてしまう。最後まで、先輩とは笑顔で別れたい。
なので、ダグーはじっとヴォルフを見つめあげ、精一杯甘えた声を出した。
「あの、先輩。チケットが取れ次第、俺は行くから……」
「ん?なんだ」
「それまでの間、いっぱい、いっぱい愛してね」
ちょっと瞳が潤んだだけでも、ぎゅぅっと力いっぱいヴォルフには抱きしめられて。
「当たり前だ。お前がギブアップするまで愛してやるとも、出発の朝にもな」
何度も大きな手が頭を撫でてきて、優しい声がダグーの頭上に降り注いだ。


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